電車を乗り継ぎ、バスに乗る。最寄りのバス停で降りると、風はひやりと冷たく、澄んだ空気は少し湿っていた。踏みしめた土は柔らかかった。
家の周りにはススキが生い茂っていた。人の手が加わらないと自然の草花が途端に生き生きとする。植物ならまだいいけれど、なにせ山を抱える田舎なものだから、隙間から動物が入り込んでいないかと心配しながら家の玄関を潜った。しかし、幸いそれは杞憂に終わった。家の中を隅々まで見て回ったけれど生き物の気配はなかった。胸を撫で下ろし、お墓参りの準備に取り掛かる。お供物と掃除用具を持ち、家を出た。鍵を閉めようとして、閉めなくてもいいかと思い直して開けっぱなしにしたまま離れた。
墓地には彼岸花が咲いている。お墓の掃除をして、花を飾り、焼香を立てる。銀時に付き添ってもらって買ったお酒も忘れずに供える。手を合わせながら、江戸へ出たこと、真選組屯所で働いていること、銀時や万事屋のみんなに出会ったことを報告した。今年はたくさん話したいことができた。
無機質な灰色の四角い石を見つめても、おじいちゃんは笑いかけてくれない。会いたいと思っても、どんなに願っても叶うことはない。感傷に浸るのはやめようと何度決めても、ここへ来るとそれは徒労に終わる。
「私は大丈夫だよ」
墓石を撫でる。ワンカップの蓋を外し、お酒を上からかけた。
――たくさん飲んでね。
――もう飲み過ぎだなんて言わないよ。
――でも、天国のみんなとちゃんと分けてね。
呼びかけ、語りかける。窪んだ文字を見つめ、瞼を閉じて手を合わせた。
雨の匂いと共に、灰色の雲が空を覆っていく。帰路を急いでいると、ナマエちゃん、と呼び止められた。振り返ると、園山のおばあちゃんが杖をついて立っていた。
「久しぶりだねえ」
「園山さん、お久しぶりです」
自然と声が弾む。おばあちゃんは破顔した。
「お墓参りかい?」
「いま終わったところです」
手と地面を繋ぐ杖が目に留まる。おばあちゃんは私が江戸へ出る前は杖なんかついていなかった。足の調子を訊ねると、おばあちゃんは皺を深くして平気だよと言った。歩みはしっかりとしているし、背筋も相変わらず伸びている。少なくとも重い症状はないようだ。ほっとする私に、おばあちゃんは「相変わらずだね」と微笑んだ。なにが相変わらずなのだろう。
せっかく帰ってきたのだからと、おばあちゃんの家に誘われた。長居するつもりはなかったのだけれど、笑顔で押されると無下にもできなかった。一旦家に戻ってから行くと告げ、おばあちゃんと別れた。
家に着く頃には雨は本降りになっていた。傘を広げ、園山のおばあちゃんの家へ向かう。手土産として真選組饅頭を買っておいて良かった。
おばあちゃんの家に着くと、お寿司に始まり刺身、煮物、お肉など豪勢な夕食が私を迎えた。午後から急いで用意してくれたらしいが、二人で食べ切られる量ではない。おばあちゃんは二十年以上前に夫を亡くしている。子どもたちは既に独り立ちし、孫ともほとんど会えないらしい。近所付き合いはあれど、昔ながらのだだっ広い家で、ほとんどの時間を一人で過ごしている。人恋しいのは仕方がないのかもしれない。
あれこれと世話を焼いてくれるおばあちゃんの手を止めさせ、一緒に夕食を取る。話し始めると止まらない世間話を聞きながら、今日は帰れないなあと頭の片隅で思う。田舎の終電は早い。
食事も半ばになった頃、私はお土産の真選組饅頭を渡した。おばあちゃんはにこにこと箱を眺めた。
「ナマエちゃんが真選組でねぇ」
「意外?」
「テレビで見てると、怖い人に見えるじゃない?」
「全然そんなことないよ。みんな一生懸命だもん」
今頃、みんなは夕食を終えてお風呂に入っている時間だろうか。一部の隊士は夜の見廻りに出ている。痴話喧嘩の仲裁や酔っ払い同士の諍いを止めるために呼び出されたり、攘夷浪士の取締りに走ったりしているのだろう。いつの間にか、彼らの顔が勝手に浮かんでくるようになった。
「いい人はいないのかい?」
「いい人って?」
おばあちゃんは楽しそうに「結婚するようないい人」と付け足した。その手の話題は振られると思っていた。私は苦笑した。
「いません」
「真選組のお偉いさんと結婚できれば、玉の輿なのにねえ。お金は大事よぉ」
「そうなんだけどねぇ」
笑いながら頷く。その日の晩は、おばあちゃんの家に泊まらせてもらった。来客用の布団は慣れない匂いがして、パリッとしたシーツの下の布団は柔らかかった。
雨は夜通し降り続いていた。
翌日は実家に再度戻り、掃除をした。使い慣れた家財道具やお風呂場、台所の掃除をして、診察室へ足を踏み入れる。おじいちゃんは家の中の掃除は私に任せきりだったけれど、診察室だけは自分で手入れしていた。おじいちゃんが亡くなってからずっと、私はそこへ手を加えたことはなかった。決心がつかなかったのだ。気持ちの整理はついているのに、私が触れてはいけないような気がしていた。
おじいちゃんは亡くなる少し前に診察室を片付けていた。骨と皮だけの指や腕でデスクや薬品棚に触れ、頼りない足取りで歩き慣れた床を踏みしめている姿は、今も鮮明に覚えている。
見えるところは整然としているが、デスクの引き出しを開けると雑に書類がしまわれていた。どうやら引き出しの中までは片付けていないようだった。見えるところだけ整理したのだろう。おじいちゃんらしい。
椅子に座り、書類を引っ張り出す。中には茶色く変色し、文字が掠れて見えないものも混ざっていた。奥に挟まって取れなくなっている紙を引っ張っていると、書類よりも小さな長方形の紙が数枚床に散らばった。写真だった。拾い上げて見ると、そこには見慣れない男女が仲睦まじく肩を組んで並んでいた。二枚目もその男女が映っていた。女性はおくるみに巻かれた赤ちゃんを抱いている。二人は愛おしげにその赤ちゃんを見つめていた。
私の記憶の中で、眠っていた部分が水底から浮かび上がるように顔を出す。写真の男女。それは私の両親だった。抱っこされているのは多分、いや、確実に私だ。
私の両親は医者だった。攘夷戦争の負傷兵を癒やすために戦場へ向かい、戦いに巻き込まれて亡くなった。ずいぶんと長く私の家族はおじいちゃんだけだったから、私は両親との記憶が薄い。けれど、これが間違いなく両親であると確信が持てる。どうして忘れていたのか不思議だ。隣のおじいちゃんの手を握り、家を出ていく二人を見送ったのが最後だった。
三枚目の写真には、もう両親はいなかった。砂場にいる前歯のない幼い私が、満面の笑みでこちらを向いている。四枚目は、なぜか裸足で木の下で泣いている。五枚目も幼い頃の私が一人で映っていて、最後の六枚目になり、ようやくおじいちゃんが登場する。それは、おじいちゃんと、おじいちゃんに肩車されている私が遠巻きに撮られている写真だった。
遺影になるような写真なんかねえなあ、と生前おじいちゃんはぼやいていた。かろうじて旧友から写真を借りて遺影にしたけれど、それは十年以上前のものだった。からくりが嫌いで、洗濯機すら買わなかったのにカメラなんか持っていたのだろうか。でも、映っているのは両親や幼い頃の私ばかりだ。単にカメラが壊れてしまって、それから写真を撮らなくなってしまったのか、それとも他に理由があって写真を撮らなくなったのか。訊きたくても訊くことは、もうできない。
目頭がじわじわと熱くなる。磨り硝子の向こうには、秋陽が差し込んでいた。
午後になり、町の病院へ向かった。しかし、目的の笹岡先生は転勤しており不在だと受付で言われた。現在病院で主治医をしているのは笹岡先生の弟らしい。弟さんとは面識がない上、会ったところでなにを話せばいいのかわからないので、言伝も残さずに病院を後にした。
病院を辞め、笹岡先生に謝りに行った日から、私は先生に会いに行っていなかった。顔を見て、再び怒りや憎悪に囚われてしまうことが怖かった。過ちを犯そうとしても、もう私を止めてくれる人はいないのだ。
園山のおばあちゃんの家に置かせてもらっていた荷物を引き取りに戻ると、玄関先に数人の見知った顔が集まっていた。いずれもおじいちゃんの診療所の常連の人たちだった。みんな、私が久しぶりに帰ってきていると聞きつけて来てくれたらしい。
「おーナマエちゃん! 久しぶりだのう! 男でもできたか、えらい美人になったんじゃねぇか」
「ナマエちゃんだってそりゃ彼氏の一人や二人いるわよ」
「長治郎さんが聞いたら怒りそうだわわねぇ」
矢継ぎ早に話され相槌を打つ暇もない。そのうちに、あれよあれよという間に今晩開かれる村の飲み会に連れていかれることになった。どうやら今日も帰れそうにない。休暇は三日取ってあるので明日帰れば問題ないのだけれど、銀時には一日で帰ると言ってしまっている。生返事だったし、ちゃんと覚えているかはわからないけれど。
薄暮に包まれる公民館には老齢の男女に始まり、地元に残って働く若い世代も大勢来ていた。村の住人の親睦会という名目ではあるが、ただただ集まってお酒を飲みたいだけのようだった。そういうところは、どこに暮らしている酒好きも変わらない。
つい先日、屯所での飲み会で飲みすぎて爆睡するという失態を晒してしまったため、私は飲酒量を抑えつつ懐かしい顔と談笑して時間を過ごした。私の顔を見ると、揃ってみんながおじいちゃんの名前を出していく。愛されているとはわかっていたけれど、今もなお、たくさんの人が名前を出してくれる。思い出話の中には、私が訊いたこともないおじいちゃんの交友関係や武勇伝もあり、今になって初めて知ることが多い。ひと一人のことを知り尽くすことなんて、どれだけ近しい人でも無理なのかもしれない。
室内にアルコールの匂いが充満してきた頃、私は外の空気を吸うため公民館を出た。虫時雨が響く中、入り口に置かれた木製のベンチに腰掛ける。唯一の明かりである裸電球の光は頼りないが、星の瞬く夜空には満月が顔を出しており、穏やかな月明かりが辺りを照らしていた。
火照った頬に夜風が気持ち良い。月を見上げながらぼんやりとしていると、懐の携帯電話が鳴り出した。画面には登録されていない番号が表示されていた。訝しみながらも、鳴り止まない着信音に通話ボタンを押す。もしもし、と言うと、明るい声が飛び込んできた。
「あ!出たアル!ダイゴ出たアルヨ!」
「神楽ちゃん?なんで……」
思わずベンチから背中を起こす。
「銀ちゃんが電話の下にダイゴの電話番号隠してた、痛っ!」
電話口の奥で隠してねーよ、と銀時の声が聞こえる。そうだ、銀時に電話番号を教えたんだった。
「ダイゴ、田舎に帰ってるって聞いたアル」
「うん、お墓参りで。ごめんね、神楽ちゃんになにも言わなくて」
「そんなの別にいいアル。帰ってくるんでショ?」
別の声も聞こえてくる。新八くんだ。
「神楽ちゃん、ナマエさんも久しぶりの帰省なんだからゆっくりさせてあげなよ」
「なに言うアルか! 私そろそろダイゴの酢豚食べたいネ!」
「食べ物目当てかよ!」
新八くんのツッコミについ笑いが漏れる。相変わらずのようだ。
「酢豚ね。今度材料買ってくね」
「マジでか! キャッホウ!」
「ナマエさん、甘やかさなくていいんですよ」
ゴトゴトと受話器の揺れる音がする。数秒空けて、銀時が電話に出た。
「わりーな、騒がしくて」
「ううん、なんか元気出た」
「なんかあったの」
声色が少し変わった。耳聡いなあ、と私は苦笑する。
「ないよ。村の人たちと飲み会してる。楽しいよ」
「飲み過ぎんなよ」
「うん」
輝く満月を見上げる。かぶき町からも見えているだろうか。
「つーか一日で帰るとか言ってなかったっけ」
「覚えてたの?」
「は? 俺だって人の言ったことくらいちゃんと覚えてますけど」
唇を尖らせる銀時の顔が浮かぶ。くすくすと笑っていると、銀時が「あ、オイ」と何か咎めている。電話口は神楽ちゃんに変わる。その向こうで新八くんと銀時の会話が聞こえる。
「ダイゴ、なんでもいいから早く帰ってくるアル」
「ナマエさんが帰ってこないと、神楽ちゃんずっと酢豚しか言わないんじゃないですか」
「酢昆布然りアイツ酸っぱいもん好きなんじゃねーの? オッサンの脇でもいんじゃねーの」
「……早く帰ってこいって銀ちゃんも言って、痛!」
江戸に出る前は、一人で過ごす時間は山程あった。誰もいない家に向く足が、重たくて仕方がなかった。どうして私は、あの家に帰るのだろうと何度も自分自身に訊ねていた。答えは簡単で、私には他に行く場所も、帰る場所もなかったのだ。
でも、今は違う。かつて暮らした家はやはり置いていくことも捨てることもできない。だから、それも抱えて、私は江戸に帰る。帰りたい場所ができたのだ。待っていてくれる人がいるのだから。
大合唱する虫たちの声に勝るとも劣らない、三人の喧騒が通話口から聞こえてくる。袂に入れていた数枚の写真を取り出す。月明かりの下で見ると、それらは少しだけ滲んで見えた。
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