風に靡く髪が揺れている。何となしにその後ろ姿を見ていると、不意に振り向かれた。
「沖田さん、新しいお茶屋さんですよ」
ナマエさんが指差す先には、こじんまりとした茶屋があった。店先には竹のベンチと日除けの番傘があり、入り口が開け放たれた店内には人影が一つ見える。見廻りのときに時々通る道だが、確かに見覚えのない茶屋だった。ナマエさんは寄っていきましょう、と返事を待たずに足を進めていく。断る理由もなく、俺はあとに続いた。
ベンチの上に買い物袋を置いて並んで腰掛ける。袋の中には薬局で買い込んだ包帯や消毒液が詰まっている。見廻りをしているところに買い出し途中のナマエさんと会い、仕事もそこそこについて来たという流れだ。土方がいればサボっているなと叱られるところだが、これならナマエさんが誘ったのだという言い訳ができる。
店内にいた人影は店の者だったらしく、俺たちの姿を認めると店から出てきた。ナマエさんとあまり歳差のなさそうな女で、にこやかな表情で「いらっしゃいませ」と迎える。辿々しい発音が耳に残った。
「おすすめありますか?」
ナマエさんは女を見上げて訊ねた。女は首を捻って答える。
「お餅が美味しいですよぉ。草餅とか」
「じゃあそれください。沖田さんは……」
「俺もそれで」
「かしこまりましたぁ」
女は滑舌が微妙に悪く、間延びした喋り方をしていた。頭を下げてひょこひょこと歩いて店の奥へ引っ込んでいく背を見送り、ベンチに引っかかる刀を腰に差し直した。隣を見遣ると、ナマエさんは女の消えていった店のほうを見つめていた。その視線を追うと、ガラスショーケース越しに丸坊主のおやじと女の姿があった。親子だろうか。
「どうかしやした?」
「……いえ。何でもありません」
ナマエさんは笑顔で首を横に振った。涼やかな風が吹き、ナマエさんは揺れる買い物袋を押さえた。その手には小さな切り傷がある。旅籠屋へ潜入捜査に入ったときに負ったものだ。その傷が視界に入るたびに俺が歯痒い思いをしていることを、おそらくナマエさんは知らない。
そもそも警察の仕事にナマエさんを巻き込むのは反対だった。危険な目に合わせることはわかりきっていたし、ナマエさんは与えられた仕事には手を抜かない。自分の力量以上に無茶をするのではないかと危惧していた。そして案の定、火事に巻き込まれ、無鉄砲にも突っ込んでいったために細かい傷をたくさん作っている。しかし、一連の出来事のあと、ナマエさんは何事もなかったかのように平然としていた。この人は誰かのために平気で自分を犠牲にする類の人間だ。
「火傷のあと、どうなんですかィ」
「病院でもらった塗り薬が効いてて、お風呂も平気になりました。沖田さんこそ平気ですか?」
「俺はどこもなんともねえんで」
そうですか、と感心したように言われた。
「やっぱり場慣れしてるせいですかね」
「アンタは慣れる必要ねえですぜ」
ナマエさんは苦笑した。病院で土方に説教をされたと聞いている。もう自ら潜入捜査に加わるとは言い出さないだろう。が、何かきっかけがあれば、身の安全など顧みずまた突っ走っていくだろう。
草履を擦る音が聞こえる。店の中から女がお茶と皿に乗った草餅を運んできた。ナマエさんは礼を言って盆ごとそれを受け取った。きなこの乗った草餅と湯気の立つ緑茶が俺とナマエさんの間に置かれる。
「ごゆっくりどうぞぉ」
やはり間延びした喋りだったが、女は深々と頭を下げていった。
ナマエさんはいただきます、と楊枝で草餅を刺して齧り付いた。咀嚼し、口元に手を当てて俺を見る。
「あ、美味しいですよ。ちゃんとした和菓子屋さんって感じです」
「俺にはよくわかんねえや」
「なんていうか、もちっとしてませんか?」
「餅だけに? つまんねえですぜ」
「そういうつもりで言ったんじゃないです」
ナマエさんは不満げに餅を頬張り、お茶の湯呑みを傾けた。ほっと息をつき、お茶も美味しいですよと勧めてくる。倣って啜ったが、やはり屯所で飲むお茶との違いはよくわからなかった。屯所でお茶を淹れるのは大概ナマエさんなので、それはナマエさんが茶を淹れるのがうまいということなのか。
一服を終え、小腹が満たされて眠気を誘われる。欠伸を噛み殺している俺を置いて、ナマエさんは席を立って店内へ入っていった。店内で女と坊主のおやじと何か話している。どんな話をしているのかは聞こえなかったが、朗らかな表情を見ると悪い話ではなさそうだった。
「屯所に戻りましょうか」
数分程してナマエさんは店から出てきた。買い物袋を持って、店内の女とおやじへ会釈をする。女は「ありがとうございましたぁ」と会釈を返した。やはり聞き取りづらい喋り方だった。
「舌が短いんですかねィ」
店を離れてしばらくして、ぽつりと言った。ナマエさんはきょとんとした。
「何がですか?」
「さっきの茶屋の店員」
ナマエさんは「ああ」と目を伏せ、少し間を置いて口を開いた。
「ご本人に確かめたわけではないんですけど、沖田さんは構音障害って知ってますか?」
「こうおん?」
「言葉をはっきり喋れなくなる障害のことで、構造の構に、音で構音障害です」
ナマエさんは自分の掌に指で漢字を書いた。
「あの人、歩き方も重心が偏ってました。脳卒中の後遺症だと思うんです」
聞き馴染みのない単語が耳から流れていく。職業柄、外傷には慣れているが内側から蝕む病には馴染みがない。もちろん知識もない。姉上のいない今、俺がそういったことに関心を向けるわけもない。しかし、もしも本当にナマエさんの言う通りだったとしたら、あの女の家族の気持ちは嫌になるほどわかる。
「あの二人、親子なんですって。お父さんが娘さんのためにお茶屋さんを開いたそうですよ。緑茶はいろんな病気の予防になりますから」
「……詳しいですねィ」
「家が診療所だったので、素人のくせして未だに少し気になるんですよね。悪癖だと思うんですけど」
ナマエさんは苦笑した。人の身体を慮ることが悪癖だというのなら、ずいぶんと世知辛い世の中だ。しかし、裏のない良心を煩わしく思う人間がいるのも確かだ。斯くいう俺もそちら側の人間だが――。
「アンタは医者になろうと思わなかったんですかィ?」
家族の仕事を継ぐことが全てとは思わないが、この人が医者になる道を選ばなかったことが疑問だった。
「思わなかったですねぇ」
ナマエさんはあっさりと答えた。俺を一瞥し、僅かに笑みを浮かべながら話を続ける。
「おまえが医者になったら、でっかい病院へ行けよって、一度だけね、祖父に言われたことがあるんです。田舎じゃ経営が厳しいことをわかりきっていたから、そう言ったんでしょうけど。それを聞いたとき、もしも医者になってしまったら、私は祖父のそばにいられないと思ったんです。だったら、なにもできないままでいたほうがいいって思ってしまって……。そうしたらずっと祖父の手伝いができるって、そういう打算があったんですよね」
「後悔は?」
「してない……とは言えないですね。少し、してます。でも、皆さんに会えたので実はそんなにしてません」
「よくもそんな恥ずかしいこと言えやすね」
こちらがむず痒くなって、肩を掻いた。しかし、ナマエさんはけろりとしている。
抜けるような青空から降り注ぐ柔らかな日差しが、行き交う人の顔を照らしている。俺が普段目にも留めないような人間の顔も、ナマエさんは逐一見ていたりするのだろうか。同じ景色を映していても、この人と俺とでは、見ているものが違う。
「沖田隊長、今日も巡回っスか?」
玄関先で神山に引き止められた。
「てめーは来なくていいぞ」
「さすが隊長、市民の安全を護る警察の鏡っス! 自分もお供させてください!」
「ねえ俺の話聞いてた? 来るなって言ってるんでィ」
尚も食い下がる神山の尻に刀をぶっ刺して屯所を離れる。引きこもっていると書類仕事ばかり回ってくるし、人の話を聞かない部下には付き纏われるしいいことがない。口煩い土方は近藤さんとお上の接待だとかで不在にしている。この機を逃すわけにはいくまい。
しかし、街に出たはいいものの世間は至極平和だった。攘夷浪士でもいれば退屈しのぎになるのだが、事件や事故なんてそうそう起こるものでもない。神山の言葉を借りるなら市民の安全を護るのが警察だ。だが、俺が警察になったのは市民の安全を護るためなんかではない。
巡回というよりも散歩に近い感覚であてもなく歩いていると、先日ナマエさんと訪れた茶屋が見えた。ベンチに人はいないが、店の中からは声が聞こえる。
「もっとはっきり喋れよ。何言ってんのかわかんねえんだよ」
通りすがりに店の中を見ると、若い女三人が店員の女の前に立ちはだかっていた。女たちは下卑た笑い声を上げている。
「ねえ、この人ちょっとイタイんじゃなぁい?なんか泣きそうになってるしぃ」
「私たちがいじめてるみたいじゃん。ねえ、悪いのアンタじゃん。お茶こぼしてきたのアンタじゃん」
――あの人、歩き方も重心が偏ってました。脳卒中の後遺症だと思うんです
ナマエさんの声がそのまま蘇る。女は今にも泣き出しそうな表情で狼狽している。それを嘲笑うように三人の女は謝れだ弁償しろだと詰め寄っている。俺はやれやれと肩を回し関節を鳴らしながら歩み寄った。浪士を斬るよりも容易いが、面倒なことこの上ない。
「茶ァ一杯もらえやすかィ」
背後に現れた俺を三人の女が一斉に振り返った。店員の女は涙目のまま、ぽかんとして俺を見ている。
「聞こえなかったかィ。お茶。頼みまさァ」
言いながら三人の女を見下ろす。揃いも揃って白粉臭い。一人の女の着物の裾が変色している。お茶をこぼされたと言っていたが、ほんの一部だ。目くじらを立てるほどのことではない。
「……な、何よ」
女は無言で見下ろされていることに戸惑い、声を絞り出した。俺は尻ポケットから財布を取り出して適当に札を抜き取って、女の肩口に押し付けた。
「これで新しい着物でも買え。ここはメス豚の溜まり場じゃねえ」
「メ……」
女の顔色がみるみるうちに変わっていく。
「ちょっと、何よ、悪いのはこの女よ!」
噛み付くような勢いで吠える女を両脇の女がはっとして諌める。
「ねえ、コイツ真選組の……」
すると女は口を噤み、苦虫を噛み潰したような顔で俺を睨み上げた。そして札をひったくり、こんなところ二度と来るかと捨て台詞を吐いて店を出て行った。鼻にこびりつくような残り香に顔が歪み、空気を払うように手をぱたぱたと振った。
「あの……」
おずおずと女が俺へ声をかける。しかし、その先は待っても続かない。店の奥へ視線を移すが、人気はない。
「おやじはいねえのかィ」
「あ、今は、買い物に出てて……あの、お金」
「金なんかいらねえよ。どうせ使い道もねえし」
「けど……」
一度は引っ込んだ涙がまた溢れそうになっている。俺は短く溜め息を吐いた。
「しばらくタダで休ませてくれりゃいいでさァ。茶も菓子も負けてくれんなら、それでチャラってことで。だからとりあえず、茶淹れてくれ。鼻の中が香水くせえや」
女はぱちぱちと瞬きをして、目を擦って「はい」と気の抜けるような声で返事をした。不揃いな足音は店の奥へと消えていき、俺はショーケースの上に肘を着いた。レジの横には、店で出していると謳った緑茶の茶葉が売られていた。
湯呑みを茶托に乗せ、女が戻ってくる。俺は茶葉を指差した。
「これ、もらっていいですかィ。あ、この分の金は払いやす」
「え……」
「払ってこなかったって知られると怒られそうなんで」
女は暫し考え込んだあと、思い出したように表情を明るくした。やはり発音は辿々しい。
「少し前に、女性の方といらっしゃってくれましたよね」
「ああ、そうそう。でも、その人が今度来ても、今日のことは内緒でお願いしまさァ」
「どうしてです?」
「どうしても」
指先から伝わる熱。鼻を抜ける緑茶の匂い。一口啜ってみると、自然と息を吐いていた。
見ているものは違えど、同じものを食って飲む。それが、俺とあの人の丁度良い関係なのだろう。
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