今でもよく覚えている。打ち付ける雨の冷たさ、鼓膜を揺らす雨粒の音。そして、流れる血。私は本気で人を殺そうとした。後先のことなんて全く考えていなかった。考える余裕もなかったし、その必要性すら感じていなかった。
 先生には、あの日以来会っていなかった。翌日に自宅まで行ったときも、先生は顔を出さなかった。自分を殺そうとした女に会いたいわけがない。

「ミョウジさん?」

 何も言わない私に、先生が重ねて呼びかける。辛うじて私は返事をする。顔を見てしまったときに再び昏い感情に覆われてしまうのではないかと心配していたけれど、私はひどく狼狽していた。
 先生は京の病院にいると聞いていた。しかし、そういえばいつかは江戸に行くようなことも言っていたような気がする。朧げな記憶を辿っている間を埋めるようにたわいの無い挨拶をする。

「……えっと、ご無沙汰してます」
「ああ、久しぶり……」

 向こうも言葉に詰まっている。しかし、立ち去ろうとはしない。私に何か言いたいことがあるのだろうか。どうすればいいのか困窮していると、そんな状況を撃ち壊すような飄々とした声が割り込んできた。

「あれ、兄上、こんなとこにいたんですか」

 先生の後ろからひょこっと顔を出したのは、スーツを着込んだ若い男だった。背格好や顔の造形が先生に似ている。兄上、と呼んだということは、彼が先生の弟なのだろう。弟がいることは知っていたが、今は私の故郷でもある田舎の病院にいるはずではなかっただろうか。頭の中で情報が混線している。
 弟は私に向けて愛想の良い笑みを浮かべた。顔は先生に似ているけれど、表情の作り方が胡散臭いと思った。

「こんにちは。兄上のお知り合いですか?」
「ミョウジさん、私の弟です」

 答えるよりも早く、先生が私を紹介する。私はこんにちは、と頭を下げる。顔を上げると、弟の目が丸く見開かれていた。

「あなたがミョウジさん?」

 ずいと弟が距離を詰めてきて、思わずたじろぐ。彼はまじまじと私の顔を見て、感心したように息を吐いた。

「へー。兄上をぶん殴ったって聞いたからどんな女性かと思えば、こんな可愛らしい女性だったとは」

 言葉が出ない。あっけらかんとしており、遠慮のない話し方はまるでこちらの気持ちなど汲む気配がない。寧ろ、すべてをわかった上で追い討ちをかけにきているような残酷さが感じられる。

「いや、驚いたんですよ。兄上が頭にすごい怪我をしたって聞いたから。まあ、よく話を聞けば確かに兄上にも非はあったようなんですがね。あ、お祖父様のことですが。でもだからって血が出るほど殴っちゃダメでしょう。下手したら後遺症とか、最悪死んじゃってたかもしれないんですよ。医者の孫なんでしょう、あなた。もう何年も前のことですし今更騒ぐことではないんですけど、この事を今あなたの周囲にいる人が知ったらどうなるんですかね? 見た目こんなにおとなしそうな女性が殺人未遂なんて、誰も想像してないんじゃないですか?」

 冷や汗が背中を伝う。彼の言っていることは事実だった。事実であるが故に、何も言い返せない。
 彼は、私が罪の意識を持っていることに気が付いている。帰省したときに病院へ立ち寄ったせいかもしれない。あのとき、私は彼に会わなかった。しかし、受付で兄を訪ねてきた人がいて、それも院内で私のことを知っている人が見ていたなら、自ずと誰が来たのかはわかってしまうだろう。
 無言を貫く私に、弟は哀れむような視線を向ける。冷たい眼差しだった。

「そんな顔しなくても心配いりませんよ。噂流したり、そんなつまらないことはしませんから。ただ本当に興味があっただけで」

 言葉尻を聞くか否かで、先生が割って入る。

「もういいだろう、会合に遅れるぞ」
「ええ? 兄上、この人に危うく殺されかけたんですよ。なあなあにしていいんですか」
「売店」

 兄弟の会話を遮るようにわざと声を張り上げる。二人が揃って私を見る。震える唇を噛みしめ、「売店へ行かなければいけないので」と逃げるようにその場を去った。逃げてどうする、とどこかで声が聞こえる。それでも足は止まらず、売店がどこにあるのかわからないまま、とにかく前へ突き進む。どのくらい歩いたのか、やがて受付前に辿り着き、売店にも行き着いた。
 ジャンプを買い、歩調を緩めて病室へ戻る。銀時は布団の中で相変わらず横になっていた。向かいのベッドでは老齢の男性が新聞紙を広げていた。
 頭の脇にジャンプを置くと、銀時が頭を上げた。幸い、目はジャンプに向いてこちらには向かなかった。

「遅かったな。また迷子にでもなってんのかと」
「じゃあ」

 早々に病室を出ようとすると、呼び止められる。

「は? オイ、もう行くのかよ」

 背を向けたまま立ち止まる。振り返ってはいけない。顔を見たら、絆されてしまう。銀時は聡いから、私の些細な顔色の変化も気付いてしまう。

「……ごめん、仕事あるから」

 嘘だった。今日は一日休みで、このあとも予定なんてない。足早に病室を出ていく私を銀時が「オイ」と引き止める声が聞こえたけれど、聞こえない振りをした。ベッドから落ちたのか、大きな音が聞こえても振り向かなかった。
 病院を出て、高くそびえる建物を見上げる。分厚い雲が空を覆い、昼間だというのに暗い。唇を噛み締め、停留所に向かって歩き始めた。
 病院前の停留所には何人かが既に列を作っていた。数秒の思案の末、一つ先の停留所まで歩くことにした。その間に通り過ぎたバスの窓には、張り付いて景色を見る幼い男の子の姿があった。
 目に入った停留所の小屋に入る。色褪せたベンチは腰掛けると僅かに軋む。雨は降り出しそうでなかなか降らなかったけれど、間も無くして降り始めた。音のない霧雨だった。





 頭上でカラスが鳴いてはっとした。小屋の上に一羽のカラスがいるようだった。何本のバスを見送ったのかもう覚えていない。雨はさめざめと降り続いていた。携帯を家に忘れてきたので時間もわからなかった。
 道路を走っていく車が水飛沫を上げる。寒さに身震いし、手に吐息をかけてみるが気休めにもならなかった。

「ナマエさん? どうしたんですか、こんなところで」

 傘を差した新八くんが通りがかる。手には膨らんだ風呂敷を持っていた。後ろから神楽ちゃんも現れ、声を弾ませる。

「お、ダイゴ久々アルな!」

 反射的に笑みを作るが、自分でも口角が上がっていないことがわかった。二人が顔を曇らせる。

「顔が真っ青ですよ、ナマエさん。体調悪いんじゃないですか?」
「どうしたネ? 誰かになんか嫌なことされたアルか?」

 神楽ちゃんが私の手を取る。すごい冷たいヨ、と心配そうに顔を覗かれる。神楽ちゃんの手はほんのりと温かかった。

「……ごめん」
「なんで謝るアルか」

 神楽ちゃんが私の前にしゃがみ込む。その瞳は青く透き通っている。海や空をそのまま映したような眼差しは、いつ見てもきれいだ。きれいだけれど、目を伏せたくなってしまう。
 蓋をし続けていたものが、抑えきれずに溢れ出しそうになっている。締まった喉から出てきた声は弱々しかった。

「私、もうここにはいられないかもしれない」

 バスが停車する。しかし、私たちが誰も動かないと見ると、すぐにドアを閉めて走り去っていった。
 ――この事を今あなたの周囲にいる人が知ったらどうなるんですかね?
 心臓が激しく脈打っていた。どうなってしまうのだろう。みんなは、どう思うのだろう。目の前の二人は私をどう見るのだろう。真選組の女中が人を殺しかけたなんて、洒落にならない。そんなことで彼等の名前を貶める自分が許せない。そんなことになるのなら、誰かに知られる前に、もうここを離れてしまったほうがいいのだろうか。因果応報だ。誰も悪くない。悪いのは私だ。護りたかったひとも、救えないままだった。ひとを傷付けて、一番大事なひとすら救えず、なにもできなかったのは私だ。
 しばらく沈黙が続いた。が、口火を切ったのは神楽ちゃんだった。

「ダイゴ、初めて会ったとき私に言ったこと、覚えてるアルか?」

 神楽ちゃんはすっくと立ち上がる。

「ダイゴ、ここで頑張りたいって言ったアル。自分の意思でここへ来たって。自分で決めた居場所なら、離れるときも、自分の意思で決めなきゃダメネ」

 真正面に立つ神楽ちゃんは真剣な表情をしている。私のような消えそうな声ではない、しっかりと芯の通った、意志の籠もった声色だった。

「本当にいたい場所があるなら、見失っちゃいけない。簡単に手放しちゃいけないアル」

 隣に立っていた新八くんが引き継ぐ。

「ナマエさん。僕らはナマエさんのこと、正直なところよく知りません。過去に何があったのか、誰とどんな時間を過ごしてきたのか、全然知りません。でも、ナマエさんがいつも笑ってて、料理上手で、たまにお茶目な、優しい人だってことは知ってます。ナマエさんが本当にいたい場所があるなら、僕らは絶対にナマエさんの居場所も、ナマエさんのことも護ります。だって、万事屋ですよ、僕ら。なんでも言ってください。どんなものでも護り通しますから」

 雨は降り続いているけれど、曇天の隙間から太陽の光が差し込み、道路や建物を照らしていた。二人の傘の間からは、弧を描く虹が二つ並んで架かっていた。同時に二つの虹を見るのは初めてで、つい「虹出てる」と呟く。すると二人も後ろを振り向き、二本の虹に目を輝かせる。

「すごいアル! 二つ並んでるアル!」
「わー初めて見ました! 同時に二本出ることあるんですね!」

 真剣な表情とは打って変わって無邪気に喜ぶ二人の姿に、力の抜けた笑みが漏れる。今、この街で虹を見上げているだろうたくさんの人の笑顔が浮かぶ。
 銀時も、新八くんや神楽ちゃんも、どうしてこんなにも迷いなく私のことを掬い取ってくれるのだろう。いや、きっと私だけではない。たくさんのひとを護ってきたのだろう。
 両手で自分の頬を挟んで深く息を吐く。二人は無力さや不甲斐なさも、全部ひっくるめて私を見てくれる。そんな二人の気持ちを無視して、私は本当に望んだ居場所さえ手放して逃げようとしている。傷付くことを恐れて逃げてばかりでは何も変わらない。迷うことは、もうない。私が帰りたい場所は、ここにあると知っている。だったら、自分の過去や過ちと向き合わなければいけない。新八くんや神楽ちゃんに背中を押されるなんて思ってもみなかったけれど。二人が銀時のそばにいて、銀時のそばに二人がいる理由が、今更になって少しだけわかるような気がした。






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