旅籠屋、三ツ屋は宿場町からは外れた場所にある。辺りに観光できるような場所はないが、江戸中心部へ向かう旅人の足を休める場所として古くから愛されている。現在の主人は四代目で、妻を亡くしてからは娘と料理番の男と三人で切り盛りしている。
 
「ちょうど近々江戸へ向かうという団体客の予約が入っていましてね。手が欲しかったところなんですよ」

 三ツ屋の主人、島蔵さんは、穏やかで物腰の柔らかい中年の男性だった。兄のいる江戸へ向かう途中でひったくりに遭い、全財産を奪われてしまったという私の無茶な設定にも本気で憐れむような人だ。兄はとても厳しい人で、お金を奪われたと知れたらただでは済まないので一時的に働かせてほしいと頼むと、二つ返事で了承してくれた。
 そんな胡散臭い事情でいいのかと土方さんには再三確認したが、私のような虫も殺さないような顔ならそれで十分だと言われた。褒められた気はしなかった。

「部屋はここを使ってください。空いてる部屋がないもので、娘と同室で狭いんですが」

 館内を案内される前に、寝泊りする部屋へ通される。八畳ほどの部屋にはちゃぶ台と畳まれた布団だけが置いてある。私の言いたいことを察したように、「娘は寝るのに来るくらいですから何もないんですよ」と島蔵さんが補足した。
 手荷物を部屋の隅に置き、館内を案内すると言う島蔵さんの後を追う。背中を追いつつも、私は周囲に目を配っていた。天井、地下に繋がるような階段、部屋から聞こえる声。旅籠屋は不特定多数の人が出入りするが、江戸中心部から離れた三ツ屋で長期滞在する客はまずいない。身を隠すようなスペースさえあれば、人目につかないよう過ごすことは十分に可能だろう。
 私が土方さんに与えられた潜入期間は一ヶ月。最初の二週間は、旅籠屋の全体像、人の出入りをよく見ること。残りの二週間で、攘夷志士の潜伏場所を探す。何か鍵を見つけたときにはすぐに土方さんへ連絡すること。勝手に行動しないこと。おまえはあくまで一般人なのだから、無茶をするな、と土方さんには散々釘を刺された。しかし、剣を持っている攘夷志士に立ち向かうほど私は勇敢でも無謀でもない。
 客室、厨房、風呂場などぐるりと館内を一周したけれど、人の潜むような場所も気配もなかった。真選組に目をつけられたことに気付いて、もうここを出て行ってしまったのだろうか。でも、山崎さんは確かにここへ入っていく男を見ている。
 口数の少ない私に、主人が心配そうに腰を屈めて顔色を窺う。

「すみません、疲れてしまいましたよね?」
「あ、いえ。すみません、ぼーっとしちゃって」

 主人は眉を下げ、私の肩を優しく叩く。

「大変な目に遭われて、心配もあるでしょうが、私にできることなら力になりますからね」

 罪悪感に胸が痛むが、ここで挫けるわけにはいかない。私の仕事はこれからが本番だ。しかし、この人の良さそうな主人と、攘夷志士に交流があるとは思えない。もしも島蔵さんが攘夷志士に脅されているのなら、彼も被害者だ。司法の上では犯人蔵匿及び証拠隠滅罪という罪を負うことはわかっている。でも、司法を通すだけでは見えない真実もある。
 島蔵さんは私の心労を慮り、今日はもう休んでくれと部屋へ通した。襖が閉まると、深く息をつく。窓を開けると穏やかな風が吹き込んだきた。部屋は旅籠屋の裏側にあり、隣家とはだいぶ距離がある。視線を落とすと、掃除用の道具だろう、バケツやデッキブラシが置いてあった。
 ビリ、と脳の奥が痺れる。折れてささくれだったブラシ、降り頻る雨、安っぽい白色の蛍光灯。流れる血。
 髪を耳にかけ、そろそろと畳の上に座る。
 ――あの日のことで、未だにわからないことがある。私が先生を殴ったデッキブラシの行方と、先生が私を一切責め立てなかったことだ。先生はしばらく病院を休診した。しかし、殴った私が言うのもおかしな話だが、幸い傷は浅く、一週間後にはすぐに復帰した。周囲の人の話だと、先生は階段から転んで怪我をしたと説明していたらしい。おじいちゃんを邪険にし、不要になれば私のことも切り捨てると言っていたあの人が、なぜ事実を口にしなかったのか。
 やがて先生は病院を実弟に譲り、両親のいる大きな病院へ移っていった。もちろん連絡先なんか知らないので、今となっては真意を確かめることもできない。
 ぼんやりと部屋の隅を眺めていると、携帯電話が鳴る。頭が一気に叩き起こされ、慌てて電話に出る。

「もしもし」
「今一人か?」

 土方さんだった。窓を閉め、襖を開けて廊下を左右見渡す。人影はない。襖を閉め、一人ですと答える。

「様子はどうだ」
「特に変なところはなさそうですけど、まだ初日なのでなんとも」
「私服の隊士が不定期に外を通ることになってる。山崎も退院したら、その辺に張らせるつもりだ」
「山崎さん、大丈夫なんですか?」
「おまえは自分の心配しろ」

 煙草を吸っているのだろう。ふー、と長く息を吐く音が聞こえてくる。耳馴染みのある低い声に緊張感が緩む。落ち着いたせいか、軽口も出てくる。

「土方さん、すぐ仕事抱え込むから私のほうが心配ですよ。私がいなくても平気ですか?」
「仕事なんかどうとでもなる」
「疲れて周りに当たらないでくださいよ?土方さんは疲労が溜まると二言目には切腹だって聞いてますから」
「てめーはほんとにろくな事聞いてこねーな」

 鼻で笑われる。その後、二、三言話し、電話を切る。時刻は十八時前になっていた。夕食の用意などがあるのではないかと思い腰を上げると、部屋の入り口に女の子が立っていた。思わず動作が止まる。

「アンタがギメイ?」

 ギメイとは、私が使っている偽名だ。

「はい……あ、島蔵さんの娘さんですか?」
「チセ」
「チセさん」
「さん付けなんかしなくていいよ。敬語もいらないし」

 垂れ目の島蔵さんとは違い、意志の強そうな切れ長な目つき。毛先の跳ねた茶色い髪を揺らしながら、チセは室内へ入り押し入れを漁る。中から雑に布団を一組引っ張り出し、畳へ放った。そして壁にかけてあったエプロンを手早く身に付ける。

「あの、なにかできることありますか?」

 怪訝な顔を向けられる。

「今日は休めって言われたんじゃないの?」
「まだ動けますので」

 チセはじっと私を見つめたあと、再び押し入れを開けた。顔を突っ込み、「あったあった」と中から鶯色のエプロンを出した。それを私の胸元へ押し付け、早く着てと目で促す。
 エプロンを身に付け、足早に廊下を行くチセの後に続く。チセは振り返らず、ねえ、と私に訊ねる。

「さっき話してたのって彼氏とか?」

 言葉に詰まる。訝しむチセが足を止めて振り返る。

「電話。なんか楽しそうだったし」
「いえ、田舎の友達です」
「ふーん。そ。てか敬語いらないってば」

 チセは再び歩を進めた。一時停止した心臓の鼓動が、徐々に早まっていく。チセの背中が、だんだんと遠ざかっていた。





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