三〇八号室――銀さんのいる病室から、厳しい顔付きの中年看護婦が出て行った。僕と神楽ちゃんは顔を見合わせる。
病室に入ると、ベッドの上では銀さんが不貞腐れたようにむくれて横になっていた。神楽ちゃんは銀さんに汚物を見るような目を向ける。
「銀ちゃん、何やらかしたアルか? まさかナースのケツ触ったアルか? 銀ちゃんナース好きって言ってたから……」
「ふざけんな。いくらナースでもあんなババア、御免こうむるぜ」
銀さんはふんと鼻を鳴らした。僕は箪笥に着替えを詰め込んでいく。
「どうせまたわがまま言って暴れたんでしょう。傷が開きますよ。桂さんが通り掛からなかったら今頃どうなってたか……」
今回の依頼は、以前も行ったことのある長屋に住む大家族の子守だった。前回と同じようにご飯を作って、子どもたちと一緒に遊ぶ。子どもの体力についていけずに疲弊することは目に見えていたが、とても平和なものだった。しかし、僕と神楽ちゃんが子どもたちと食事の買い出しに行っている間に事は起きた。
家に残っていた子どもが以前から長屋の周辺を出入りしていた浪人に絡まれ、それを庇った銀さんが大怪我を負ったのだ。普段の銀さんなら、どんな相手だろうと一太刀も食らうことなく呆気なく制することができただろう。しかし、敵の数が多かった。銀さんは女の子一人、赤ん坊一人を護ることに必死になっており、相手の攻撃をまともに受けてしまった。そこへたまたま通りかかった桂さんが助太刀に入り、浪人たちは去り、銀さんは病院へ運ばれた。
浪人たちは元々は桂さんと同じ攘夷党の仲間だった。しかし、桂さんが穏健派に移ったことを快く思わず、仲違いをして分裂してしまったのだそうだ。しかし、一度は志を同じくして共に語り合った仲だ。桂さんは何度も彼等に危険な行為はやめろと説得に行っていた。が、桂さんの説得も虚しく、今回のようなことが起きてしまった。
「女子どもに手を上げるような者を武士とは呼ばん。奴等はもう道を違ってしまった」
あの日、桂さんは腕組みをし、いつもの仰々しい口調で言った。同じ攘夷志士と言えど、一枚岩ではない。
「あれ、ジャンプ。買ってきたんですか?」
ベッドサイドにはりんごとジャンプが置いてあった。僕はビニール袋に入れていたジャンプとそれを見比べた。同じ表紙だ。銀さんが暇だからジャンプを買ってこいと言ったくせに。
「あー、ナマエが買ってきた」
銀さんはジャンプを一瞥した。僕は首を傾げる。
「ナマエさん、来てたんですか?」
「さっき会ったアルよ」
「仕事って言ってたからな。帰ったんだろ」
「仕事? 今、病院まで一緒に来たネ」
あっけらかんとした神楽ちゃんの言葉に、銀さんの眉がぴくりと動く。神楽ちゃんはりんごを手に取り、そのままかじりついた。
「でも入ってすぐに別れたネ。真っ青だったし、どっか行くならついてくって言ったのに、一人で大丈夫って言って」
神楽ちゃんが話し終える前に、銀さんは跳ね上がるようにベッドから体を起こした。勢いにスプリングが鳴る。全身包帯で巻かれているというのに、その動きは平時と変わらなかった。
スリッパに足を引っかけ、病室を出て行こうとする銀さんを咄嗟に引き止める。
「ちょっと銀さん!」
「どこ行ったか知らねえのか」
僕と神楽ちゃんは揃って首を横に振る。銀さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。ナマエさんは僕らと別れたあと、受付に向かった。その後は、僕らとは反対方向に歩いていった。様子がおかしかったし、一緒に行くと言ったが、大丈夫だと言って一人で行ってしまったのだ。
外で会ったときのナマエさんは、今にも崩れ落ちてしまいそうな見た事のない表情をしていた。僕らの知るナマエさんは、いつも笑っていて、穏やかで優しく、滅多なことでは取り乱すことがない。だから、初めて見る姿に何かがあったのだとは悟ったが、何があったのかはさっぱりわからなかった。僕らはナマエさんのことを何も知らない。それを今更になって知った。
「ナマエさんを探しに行くなら僕らも行きます」
「三人で探したほうが早いアル」
神楽ちゃんは先んじて病室を出ようとしたが、銀さんが「いや」とそれを止める。足を止めた神楽ちゃんは、怪訝そうに振り返った。銀さんは数拍置いてから口を開く。
「おまえらは長屋に戻れ。あの連中が戻ってこないか見てこい」
そう言い残し、腹部の傷を押さえながら銀さんは病室を出ていった。見慣れた背中は広く大きい。僕らはその背中を追いかけようとして、しかしどちらも実際に追うことはしなかった。銀さんの言う通り、長屋のほうも心配だ。浪士たちは散り散りになっていったが、腹癒せに引き返してこないとも限らない。
銀さんは早々に廊下を抜け、階段へ消えていった。僕らには、旧知の仲だという二人の間のことはわからない。銀さんもナマエさんも、自分のことを多くは語らない。しかし、きっと銀さんは、僕らの知らないナマエさんを知っている。
「銀さんもナマエさんも、なんで一人で行っちゃうんだろうね」
廊下を歩きながら、独り言のようにこぼす。歯痒い思いをしている僕らの気持ちを置いて、勝手に行ってしまう。それは二人の優しさなのかもしれないが、僕らはそんなものはいらない。優しくなんかしてもらえなくったっていいのだ。ただ、僕らは――。
「バカアルな、あの二人は」
神楽ちゃんが吐き捨てるように言った。端的で率直過ぎる。しかし、神楽ちゃんは銀さんのこともナマエさんのことも、とても大切に思っている。二人に頼ってもらえないことや、何も話してもらえないことをもどかしく思っているが故の暴言なのだ。
「迷惑も心配も、かけて当たり前アル。私たちがそのくらいでへこたれるわけないのに」
神楽ちゃんは拳を作り、唇を噛み締める。
「……二人が戻ってきたら、一言言わないとね」
「一言じゃ足りないヨ。説教アル」
僕は苦笑した。背中を向けられたって、正面へ回り込んでやるくらいの気概がなければ、あの人たちと一緒にはいられない。
並んだ虹は消え、曇天の隙間からは日の光が漏れていた。屋上の湿ったアスファルトの上には、風で飛ばされてきたのか金色のイチョウの葉がそこかしこに落ちている。
手摺りに肘を置いていた笹岡先生がこちらを振り返る。横から吹き付ける風を耳にかけ、先生の隣に並ぶ。眼下には江戸の街並みが見える。ビル群が立ち並ぶ中心街、古い家屋の集まった住宅地。改めて見ると、ちぐはぐな光景だった。
あまり時間がないと言いながらも、会って話がしたいと言ったら先生は時間を空けてくれたようだった。「弟さんは?」と訊ねると、医師の会合に行ったと先生は答えた。今日はそのために田舎から来たらしい。私は内心ほっとした。
「弟が出しゃばった真似をして、申し訳なかったね」
先生は落ち着いた声色で言った。記憶にある声音と変わらない。
「いえ……本当のことですから」
「アイツの言ったことは気にしなくていいですよ。あれは単なる意地悪というか」
口籠る先生に苦笑する。以前の私なら、先生の前で笑うことなどできなかっただろう。
「意地悪ですか」
「いや、きみにとってはそれで済まないことですね。申し訳ない」
再度謝る先生に、気まずくなってしまう。先生はこんなに腰の低い人だっただろうか。
「謝るのは私のほうです。あのときの怪我、ちゃんと治りましたか?」
「ああ……深い傷じゃなかったから」
先生は自身の後頭部を撫でた。私は唇を噛み、頭を下げた。
「あのときは、すみませんでした」
ドア越しに先生に言った言葉は覚えている。折り合いをつけるだの、そうしないと前に進めないだの、大層なことを言ったと今では恥ずかしいくらいだ。私は前に進んだつもりでいただけで、結局は今でもあの頃のままで、全く前になど進めていなかった。過去の過ちを咀嚼できないまま飲み込み、見ないふりをしていただけだった。時間だけが過ぎ、それは奥底に澱のように溜まっていた。
自分の爪先が見える。風で流れてくるイチョウ。肌寒い風が、ずっと吹いている。
「ミョウジさんを縛るものは、もう何もありません」
ゆっくりと顔を上げる。先生は記憶を呼び起こすように、しっかりとした口調で話す。
「あの夜の、翌朝。折れたブラシを回収しました」
不思議だったのだ。デッキブラシが見当たらなかったから。雨で流れるようなものでもない。まさか先生が持っていたとは思わなかった。
私はもうひとつ、疑問だったことを訊ねた。
「怪我のこと、階段から転んだって言ってたって……どうして本当のことを言わなかったんですか?」
先生は少しだけ私を見た。瞬きのたびに目の位置が変わる。言葉を慎重に選んでいる様が見て取れた。
「君を脅す証拠になると思って持っていました。でも、君はすぐに謝りに来ました。そして私のことは許せないとはっきりと言いました。それでも、前へ行くのだと言っていました。どう説明すればいいのかわかりませんが、その言葉が忘れられず……」
一度唾を飲み込み、先生は続ける。
「私はそれまで比較的恵まれた環境で生きていましたが、人からあれほど真っ直ぐ、嘘のない感情をぶつけられたことはありませんでした。器用貧乏というか、大概のことはうまくできたし、対人関係でも苦労はしませんでした。だから、自分が片田舎で留まる男ではないと驕りがあったし、能動的に過ぎる日々を退屈にも思っていました。医者でありながら人の命を天秤にかけ、自尊心と我欲に目が眩んで……。それが、あの日、君に殴られ怒鳴られたあと、初めて、私は間違ったのかもしれないと怖くなりました」
「……」
「あんなにも誰かを失うことを恐れ、傷付くあなたを見て、なんでなのか、他人なのにとても苦しくなったんです」
「……先生には、大切な人はいないんですか?」
わかりません、と先生は言った。自嘲気味に浮かべた笑みはすぐに消えていった。
「失ったことのある人にしかわからないのかもしれません」
本当に大切なものは、手に持っているときよりも、失ってからのほうが気付きやすい。なぜ、あれほど愛していたものを、もっと大事にすることができなかったのだろう。愛していたからこそ後悔も募るばかりで、今でも昔の夢を見る。過去には逆立ちしたって戻れやしないのに。
部屋の引き出しに入れた数枚の写真を思い浮かべる。終わってしまった日々を、私はそこへ大切にしまい込んだ。戻れなくても、消えることはない。そう信じている。
「デッキブラシは処分してあります。ですから、弟が何を言おうと私には証言する術がありません」
先生が一笑する。今度は、憑物が落ちたような穏やかな笑みだった。そして、一瞬表情を固くし、私に向き直ると、深々と頭を下げた。
「お爺さまを助けようともせず、本当に、申し訳ありませんでした」
「先生、顔を」
慌てて顔を上げてもらうよう肩に触れると、先生は頭を下げたまま首を横に振った。
「あなたに、先生なんて呼ばれるべきではありません」
おじいちゃんは、最後の最後まで自分が病院へ行ったことを言わなかった。ましてや、笹岡先生への恨み言も一言も言わなかった。おじいちゃんはそういうひとだった。決して誰かを悪く言わない。裏表がなくて誰からも好かれて、そして、誰であろうと懐に受け入れた。
白衣が風で靡いている。私はきつく拳を握り込む。言葉が出てこない。悲しいのか嬉しいのか、どちらともつかない。ただ、胸の奥が痞えて苦しい。おじいちゃんが許したひとを、どうして私が糾弾できるだろうか。いや、許すことも許されようとすることも、どちらも傲慢だ。ただひとりの人間として向き合えることができたら、それだけでいい。頭ではわかっているのに、うまくできない。私はやはり、まだおじいちゃんのようにはなれない。
「……先生は、医者です」
やっとのことで紡いだ言葉に、先生が徐に顔を上げた。
「私はここへ来て、自分の非力さを痛いほど知りました。厚意や善意だけでは、人は救えません。でも先生は、その手で、たくさんの人を救うことができます。先生を必要としてくれる人が、たくさんいます」
「……」
「だから……これからも、先生で、いてください」
私が伸ばした手を先生は一瞥し、ゆっくりと握る。そして、眉を下げ、困ったような笑顔を見せた。それはまるで、今すぐにも泣き出しそうに見えた。
←
top