数え切れないほど入院しているせいで顔見知りの看護師も多い。すれ違う看護師にナマエの容姿を伝えて見ていないか訊ねるが、有力な情報は何も得られなかった。江戸一番の大きな病院である大江戸病院を当てもなく歩き回るのは骨が折れる。実際、肋骨は折れているし下腹部も斬られている。足も腕も痛い。今更になって浪士たちに腹が立つ。こんな状態でなければもっと速く動くことができたのに。
 一階から最上階まで院内を彷徨った。残った屋上への階段をのろのろと上がっていくと、一人の男が俺の顔を見て足を止めた。白衣を着ているあたり、医者なのだろう。
 視線がかち合うと目を丸くされる。顔見知りかと思ったが、見覚えがない。しかし、そんなことはどうでもいいと男に詰め寄る。

「なあ、アンタ、若い女見なかったか? 背はこのくらいで」

 手でナマエの背丈を表現する。しかし、男は俺の話など聞かずに足早に通り過ぎようとする。その肩を掴み引き止めると、男は短い悲鳴を上げた。怯えた様に眉を顰める。

「オイ、なんか知ってんのか」
「な、なんで君がここにいる? 言っておくが私は彼女に危害を加えたりはしてないから……」
「ああん? なんの話だ」

 まじまじと男の顔を見る。男の顔を覚えるのは得意じゃない。が、ふと脳裏に蘇った景色の中に、この男の姿があった。ひどい雨の中で、しかも夜で暗かったためはっきりとは覚えていないが、ナマエがぶん殴った男だ。名前こそ知らないが、あのときのナマエの顔や声だけはよく覚えている。
 ――なんでコイツがここにいる? そうだ、確か俺はあのとき、コイツに二度とナマエに近付くなと言ったのだった。
 肩に置いた手に力が籠る。男は苦悶の表情を見せる。

「てめえ、ナマエのこと見たのか? つーか危害ってなんだよ? アイツには近付くなっつったよなぁ?」
「だから! 何もしてないしするつもりもない!」

 本当だろうな、と睨め上げると男は勢いよく何度も頷いた。

「ミョウジさんは屋上にいる、もう少し風に当たりたいと言って……」

 舌打ちをして肩を離すと、男は急いで階段を駆け下りていった。ナマエはあの男が病院にいることを知っていたのだろうか。
 気を取り直して階段を上がる。非常灯は点いているが、外が曇っているせいで薄暗い。入院着の下の腹部を摩っていると、不意に頭に風が吹き込んできた。

「びっくりした……なにしてるの?」

 ナマエは驚いた顔でこちらを見下ろしていた。後ろ手でドアが閉められると、風が止む。

「仕事じゃなかったんですか」

 嫌味をたっぷり込めて言うと、ナマエはばつが悪そうに目を伏せた。

「ごめん」
「すぐバレる嘘つきやがって」

 ナマエは重ねて「ごめん」と謝った。腹が立つ。いつも一人で歩いては勝手に傷付くナマエにも、間に合わない自分自身にも。
 どちらにも苛立ちが募り、首筋を掻く。謝ってほしいわけではなかった。

「なんかあったんだろ? 新八たちに聞いた」 
「……もう平気。それより、病室抜け出してきていいの? 怒られるよ」

 階段を降りてくるナマエ。すれ違う前にその肩に腕を回して止める。その冷たさに面食らう。一体何時間外にいたのか、まるで体温が感じられない。
 ナマエは戸惑いながら離れようとするが、女の力などたかが知れている。少し力を込めれば、ナマエは諦めたのかおとなしくなった。しかし、口では抵抗をやめない。

「離して」
「嫌だね」
「ほんとに、なんで……」

 か細くなっていく声。ナマエの指先が腕に触れる。それはひやりと冷たく、俺のほうが何でそんなに冷たいのかと訊きたいくらいだった。ナマエがもう逃げようとしないことを確信し、頭に手を添える。小さく収まりの良い頭と滑らかな髪の感触は、俺のものとは全く違う。この体に詰め込んだ孤独も苦みも、少しくらいは分けてほしいというのに、ナマエは一つだって預けようとしない。
 しばらくの間、ナマエは黙って俺の腕を掴んでいた。時折風がドアを鳴らす。屋上近くの病室は空室が多いらしく、人の気配はせず、足音も疎らだった。耳を澄ませば、鼓動の音も聞こえてきそうだった。
 指先の冷たさが腕に溶け、ナマエが口を開いたのは大分時間が経った頃だった。

「昔のことだけど」

 耳元で消えそうな声が紡がれる。雑味のない声は鼓膜に流れるように入ってくる。昔からそうだ。この声は、届いた瞬間に雪解けのように消えていく。

「自分のしたこととか、間違いとか吹っ切って、前に進んでる気でいた。でも、見ないようにしてただけで、どこにも行けてなかった」

 あの医者の男がいたのだから、それしかないとは思っていた。ナマエがこんなにも目に見えて弱るのは、ジジイのことでしかない。

「みんなに言えないことがあって、それを言わずにここにいていいのか、不安で……怖い」

 院内アナウンスが流れ始めた。アナウンスが終わるのを待って、口を開く。

「おまえだけじゃねーよ、そんなん」
「…………うん」
「生きてりゃ誰にも言えないことの一つや二つあって当たり前だろ。それを無意に晒す必要もねえし、いつか知られるんじゃないかってビクビクする必要もねえ。おまえの周りにいる連中は、そういう過去も抱えてきた今のおまえを大事に思ってんじゃねーの? それとも、おまえは周りの奴らのこと全部知ってんの? 知らなきゃ信じられないってか?」
「そんなこと……」
「一緒だよ。おまえが相手のことを思ってるのと同じくらいには、相手もおまえのこと思ってるよ。何にも心配いらねぇ。それにガキどもも真選組の連中も、ちょっとやそっとじゃ離れていかねーよ。トイレのガンコ汚れよりもガンコだししつけーからね、アイツら」

 ナマエが声を出さずに小さく笑った。顔を見られなかったのが惜しい。でも、今はそれでいい。

「少なくとも……俺は切るつもりはねえよ。もうおまえを置いてはいかねえ」
「……」
「それに、焦って前ばっか見てることもねえだろ。おまえが立ち止まったときは俺も一緒に止まるし、どうしても歩けないってときは抱えてってやるよ」
 
 ナマエがゆっくりと体を離す。細められた目が潤んでいるように見える。

「重いけど、いいの?」
「なに? 太った?」

 おどけるように言うと、ナマエは「太ってない」と反論した。柔らかくなった表情に、ようやっと安堵した。
 階段の下で俺を呼ぶ看護師の声が聞こえる。呼び声が徐々に怒声に変わってくる。心なしか床も振動している。

「やべ、戻らねーとメシ抜かれる」

 味気のない病院食でも無いよりはマシだ。いそいそと階段を降りていくと、ナマエもゆっくりと後に続く。その気配に振り向くと、さっきまで同じ高さにあった顔が、頭一つ分低いところにあった。じっと顔を見ていたが、ナマエが控えめに笑うのでつい目を逸らした。泣き顔は見たくないが、笑った顔も真正面から向けられると困る。ごまかすように頭を雑に撫でると、ナマエは首を竦めた。

「ガキどもが心配してたぞ。あとで顔見せてやれ」
「……うん」
「万事屋にも来たいときに来い。変な気兼ねも、手土産もいらねえから」

 ナマエの瞳が揺れる。眉を下げて目を伏せたあと、下唇を噛んで頷いた。






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