XX年前

 ひどい雨が降っていた。玄関に立てかけた傘から規則的に水滴が落ちている。沈んだ背中が風呂場へ消えるのを見送り、ひとまず部屋に戻り着替える。安い電気が室内を照らしているが、屋根を叩く雨音も相まって仄暗く感じる。
 襖が開いたかと思うと、ジジイがつかつかと歩み寄ってきた。その表情を窺う前に背後へ回られ、ヘッドロックを決められる。

「ワシは傘を二本持たせたはずだがなァァァ!」
「ちょっジジイてめ! 死ぬ死ぬ死ぬ! 絞まってる絞まってるゥゥゥ」
「シメてんだから当然じゃろうがこの天パが!」

 ジジイはふんと鼻を鳴らして首から離れた。酸素を肺一杯に取り込み、胸を撫で下ろす。細腕のくせに力だけはある。
 畳を捲り、ジジイは床下から一升瓶を取り出した。その慣れた手つきに面食らう。俺の部屋にまで酒を隠しているとは知らなかった。ごく自然な動きを見るあたり、まだ他にも隠してあるのかもしれない。
 ジジイは酒を掲げ、付き合えと一言残して部屋を出て行った。断る隙も与えられない。
 頭を拭いたタオルを首にかけたまま、居間へ入る。ジジイは一人で先に猪口を傾けていた。定位置となった場所に腰掛けると、空いた猪口に酒を注がれる。それを呷ると、喉から胃にかけてじわりと熱くなった。冷えた体の芯に熱が染み渡っていく。

「傘はどうした」
「壊れた」

 ジジイは手酌した酒を飲み、深く息を吐いた。

「なにも訊かねえほうがいいのかねぇ」

 もどかしさをそのまま表したようにジジイは自分の頭を掻き毟る。孫の前では平静を装っていたが、内心、気が気ではないのだろう。

「ナマエのあんな子どもみたいな顔、久しく見てなかったな」

 しみじみと呟く。悪さをして叱られることを覚悟しているような、後ろめたさを抱えた子どものような表情に見えたのだろう。問い詰められれば、ありのままのことを打ち明けなければいけないのだろうかと危惧していたが、ジジイは何も訊かなかった。家族のいない俺には空想や理想を浮かべることしかできないが、家族でも知らないほうがいいこともある。ナマエが自分のために人を殺そうとしたことなど、伝えるべきではない。犯した行為の危うさはナマエ自身が一番よくわかるはずだ。

「置いてけぼりばっか食らってたくせに、まさか自分がてめーの一番大事なもん置いていくことになるなんざ……お笑い種じゃねぇか」

 ジジイは嘲るように笑みをこぼす。俺は猪口を手の中で転がした。天井の明かりが反射して、酒の水面が光っている。
 一升瓶の中身はほとんど減っていないが、徐々に頭の奥がぼんやりしてくる。アルコール度数が高いのかもしれない。しかし、ジジイは顔色一つ変えずに酒を呷いでいる。

「ナマエの花嫁姿見たかったなぁ」
「はあ?」

 顔色が変わらないだけで酔っているようだ。普段なら絶対に口にしないようなことを宣っている。俺は乾いた笑いを漏らした。

「半端な男にはやれねーんだろ?」
「ナマエには苦労も忘れるくらい、いい男を捕まえてもらわにゃならん」
「アイツならすぐにいい男見つけるんじゃねーの」

 適当に返すと、突然ジジイがちゃぶ台を叩いた。

「そんなもんワシが許さん!」
「オイ言ってること滅茶苦茶だよ。ついにボケたか」
「少なくともキサマのような捻り曲がった頭の奴にはやらん! くるくるパーが子どもに遺伝する!」
「くるくるパーで悪かったな!」

 酔っ払い同士の応酬が始まると、風呂場から物音がした。ナマエが風呂から上がったらしい。ジジイは慌てて酒を持って押し入れに入ったが、予想に反してナマエは真っ直ぐに自室へ戻ったようだった。静まり返った家の中に雨音だけが響く。
 押し入れから出てきたジジイが眉尻を掻く。

「調子狂う……」

 帰り道、ナマエは一言も発さなかった。心境の細かなところはわからないが、相当堪えていることは想像に容易い。俺はかける言葉もなく、ただ手を引くことしかできなかった。自分の無力さが歯痒かった。
 ジジイは酒瓶と猪口を回収し、おまえも早く風呂入れ、と襖を開けた。アルコールの匂いが漏れ出ていく代わりに、湿った匂いがぬるい風とともに吹き込んでくる。ジジイはこちらに背を向けたまま、独り言のように語る。

「条件なんぞ言いだしゃきりがないがなぁ。結局は、アイツが望んだ場所で、笑って過ごせるなら、他はどうでもいいのよ」
「……」
「どんな友達でも、家族でも、どんな男の隣でも構わねぇのよ」

 ジジイは振り返る。力の抜けた穏やかな双眸は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも見えた。

「遺言か?」
「ほざけ。ワシャまだ死なん」

 口角が上がる。皺だらけの顔には、はっきりと笑みが浮かんだ。
 夜通し降り続いた雨は、朝日が昇る頃には上がっていた。朝露に濡れた青葉を部屋の中から眺めながら、包丁がまな板を叩く音を聞く。
 ジジイはナマエが歩んできた道を苦労と言ったが、当の本人は苦労を苦労とも思っていないだろう。おそらくナマエは、苦労しようが辛かろうが、大切なもののそばにいる道を迷いなく選ぶ。どれだけ苦しくても、それが幸せだと笑うような女だ。簡単に手放せるなら、あれほど本気で怒ったり泣いたりはしない。
 ナマエの愚直なまでのまっすぐさに触れ、自分のことを顧みる。俺は、ここで何をしているのだろうか。松下村塾の坂田銀時でも、戦場を駆ける白夜叉でもない。ただの怪我人として、ここにいる。何でもない俺ができることは、何だろうか。考えてみたが、なにも思い浮かばなかった。
 冷たく華奢な手の感触が、今も残っている。
 届くはずのない硝煙の匂いが鼻をつく。砂埃が目に沁みる。もう、出ていかなければいけない。護るべきものが、そこにある。






top

ALICE+