洗濯物をバッグに詰めていく。隣のおじさんに借りたという週刊誌を読みながら銀さんは欠伸を何度も噛み殺していたが、やがて週刊誌を閉じ、退屈そうに耳の穴をほじった。
「っとに病院も勝手だよ。ベッドが足りねーから明日退院とかさァ」
「実際アンタ元気ですもんね。ほんとその回復力、感心しますよ」
「退院したところでてめーの姉ちゃんに世話になるんだから回復したHPも減るっつの」
退院後、銀さんはうちでしばらく療養することになっている。姉上の看病の仕方については僕も知るところで、銀さんの言葉を否定することはできなかった。薙刀片手に看病する人がどこにいるだろうか。作る料理もかわいそうな卵ばかり。却って具合が悪くなることが目に見えている。しかし、万事屋にいても神楽ちゃんしかいないし、この人は目を離すとすぐに消えてしまうから、怪我をしているときくらいは無理やりにでも安静にさせておく必要がある。
ベッドサイドには熟れたりんごが置いてある。銀さんが助けた長屋の親子がお見舞いで置いていったものだ。あの長屋には、もう攘夷浪士たちは近付いていないようだった。それは安心すべきところなのだが、僕にはまだ気になることがあった。ナマエさんのことだった。
「銀さん、あれからナマエさんに会いました?」
「見舞いに来た。あ、明日退院するって言ってねえな」
銀さんは布団の中で足を動かす。なんだ、会っているのか。こっそりと拍子抜けした。
ナマエさんの様子が変だった、あの日から二日ほど経った頃。ナマエさんが万事屋にやって来た。僕と神楽ちゃんが出迎えると、ナマエさんは瓶に詰まった梅干しをいつもと変わらない笑顔で持って来てくれた。飛び上がって喜ぶ神楽ちゃんを横目に、僕がそっと大丈夫ですかと訊くと、ナマエさんは頷いた。そして、心配かけてごめんね、と笑みを見せた。予想していた通り、詳しいことは何も話してくれないままで、それが寂しくもあった。
「銀さんが退院したらあのお姉ちゃんも来ねーのか」
窓際のベッドのおじさんが競馬新聞から目を離さずに肩を竦める。
「アイツは俺に会いに来てんだからあたりめーだろ。ムサイおじさんには用ねーっつの」
銀さんがふんと鼻を鳴らす。おじさんは「へーへー」と適当な返事をした。きっとナマエさんが来れば目を輝かせているのだろう。容易に想像できる。
お邪魔しますヨー、と呑気な声と共に病室へ神楽ちゃんが入ってくる。手には万事屋を出る前にお登勢さんから預かっていた紙袋があった。銀さんがウッと顔を歪める。
「神楽、おまえ何持ってんの? 漬物くせーんだけど」
「バーさんお手製のぬか漬けアル。ダイゴに持ってけって預かったけど、ダイゴ家にいなかったネ」
「ナマエさん、仕事なんじゃないの?」
「屯所にも寄ったけど、もう帰ったって言われたアル」
神楽ちゃんは紙袋に顔を突っ込み匂いを嗅いでいる。この匂いでご飯何杯でもいけるネ、とうっとりとしている。
「どこか寄り道してるんじゃないかな。すぐに悪くなるものじゃないし、また明日にでも持っていけばいいよ」
「そうアルな」
まだ夕刻だが、雨雲が空を埋めているため既に薄暗い。僕らは着替えを置き、銀さんに別れを告げて病院を後にした。
✳︎
頭部の鈍い痛みで目が覚めた。内側から木槌で打たれているような感覚だった。息をすると、気管に入り込んできた埃で噎せる。肩が張っている。鉄柱に縄で縛られていた。
首を回して辺りの様子を窺う。連なった鉄柱、そこかしこに張り巡らされたパイプ、冷たいコンクリートの床には砂埃が溜まっている。天井の窓は薄汚れており、暗闇を叩く雨粒の音だけが聞こえる。空気が籠もっていて息苦しい。どこかの工場のようだが人気もなく、長く使われていないことがわかる。
——連れ去られた。
脳は覚醒しきっていないが、記憶は徐々に鮮明になってくる。それと同時に心臓の鼓動も速まっていく。乾いた口内で少しの唾を飲み込む。ここはどこなのか、なぜ私が拐われたのか。頭の中を整理しようとしても、うまくいかない。感情と理性が結びつかない。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
乾いた音に俯けていた顔を上げる。下卑た笑い声と共に階段を上がって来たのは数人の男だった。気が付かなかったが、私がいるのは工場の二階のようだ。
「おう、起きたか」
一番に階段を上がり終えた男が私を見遣る。全員が帯刀している。
「随分気持ちよさそうに寝てたなぁ。薬の量間違えちまったようで悪かったな」
男が嘲笑う。心の内を気取られてはいけない。私は精一杯の勇気を振り絞り、男を睨む。
「なんなんですか、あなた達」
「攘夷志士様だよ。アンタも真選組の女ならよく知ってるだろ」
刀の柄で顎を持ち上げられる。見上げた男の顔には全く覚えがない。無精髭を蓄え、鋭い目付きをしている。
「おとなしくしてりゃ悪いようにはしねえ。アンタはあくまでエサだ。鬼の副長殿を釣るためのな」
声を出そうとするが、喉が詰まって音にならない。
「真選組に潜入してたヤローが……まあ今頃生きてるかもわからねえが、アンタと土方が親しくしているところを度々見てんだよ。なんでも二人でメシにも行く仲だとか」
「……それは」
反論しようとすると柄で首を軽く押される。息が止まる。
「真実なんかどうだっていいんだよ。土方をおびき寄せることができりゃそれでいい」
どすの効いた声で凄まれる。男は私の震える目を見つめ、やがて口角を吊り上げた。柄で私の頬を二回叩く。
「アイツを殺れば真選組は瓦解する。土方を殺したあとでアンタをどうするかは、そのときの気分次第だ。まあ良い子にしていれば命くらいは助けてやるかもな」
女には色々使い道もあるしな、と男が言うと、周囲の男たちは哄笑した。反響する笑い声。綯い交ぜになった感情が頭の中や胃の中でぐるぐると回る。落ちそうになる涙を眼球に留め、きつく唇を噛み締める。涙は落とさない。こんなところで、こんな奴等の前で、泣いている場合ではない。縛られた後ろ手の中で、爪が食い込むほど拳を握った。
✳︎
夜の歓楽街が煌々とネオンの光を放っている。車は徐行運転で街を巡回する。間も無く日付を跨ごうかという時間だった。
運転席の総悟は大きな欠伸をする。舌打ち混じりに眠そうな顔を睨んだ。
「オイ、事故るんじゃねーぞ」
「安心してくだせィ。うまいこと助手席だけを潰しやすから」
「どこが安心!? ひとつも安心できねーんだけど!」
腕を組んでシートに背を凭れる。これだからコイツと見廻りに出るのは嫌なんだ。毒々しい色の明かりに目を眇めながら溜め息をつく。
「幸せが逃げますぜ」
「俺の幸せなんか微塵も願ってねえだろてめーは」
懐の携帯電話が鳴り響く。画面には山崎の名前。
「どうした」
「あ、副長。副長宛てに書簡が届いてるんですが……」
「書簡? 誰からだ」
「それが差出人の名前がなくて、切手もないんです。個人の運び屋経由で送られて来たもののようなんですが」
「そうか。戻ったら確認する」
電話を切り、懐へ戻す。総悟がいいんですかィ、と訊ねる。どうせ殺害予告とかだろ、と答える。立場上恨みは買いやすいし、いちいち気にしていられるほど暇でもない。まともに取り合っていては命がいくつあっても足りない。
目頭を揉む。総悟のことを言えたものではないが、昼間の間者の件で寝不足だ。結局仲間の居場所を訊き出すことはできず、地道な捜査を強いられることになりそうだった。
夕刻に降った雨は止んでいた。しかし夜空には雲が流れており、月は拝めなかった。
✳︎
腕がちりちりと痛む。縄から抜けようと試みて身動ぎしていたものの、全く緩む気配がない。無駄な足掻きはやめたほうがいいと思う反面、諦めたくないと折れない気持ちがまだ残っていた。しかし、心身共に疲弊し切ってしまい、項垂れて息を吐く。どのくらい時間が経ったのだろう。雨は止んで、工場内は無音状態に近かった。男たちは私が逃げられるわけがないと思っているのか、工場内にはいない。時々遠くから声が聞こえてくるので、外にいるらしい。悪いようにはしないと言った通り、今のところ大きな危害は与えられていない。
土方さんは、もう知っているのだろうか。こんなことで迷惑をかけてしまうなんて、自分の非力さに嫌気が差す。恐怖を押しつぶすには怒りに転換するしかなかった。あのときもそうだった。おじいちゃんが死んでしまうかもしれないと思ったときだ。あのときは対象が笹岡先生だったけれど、今は自分自身に矛先が向けられている。自分を殴りたくても、こんな状態では何もできない。
寒さに身震いする。時間が経つにつれて体温が奪われている。殺される前に凍死する可能性もあるのではないかと本気で考えた。
何をしてるんだ、私——。
突然の電子音に体が跳ねる。音は私の着物の袂から聞こえた。携帯——奪われてなかったのか、と自分も気が付かなかったことに今更安堵する。しかし、後ろ手で縛られているせいで画面が見られない。袂に手を埋め、手探りで画面を開く。その間も電子音は鳴り続けている。静まりかえった工場内にその音はよく響き、男たちに気が付かれる前にと焦ってしまう。指でボタンを探るが、どこが通話ボタンなのかわからない。一か八かでボタンを押すと、着信音が止まった。耳を澄ますと、声が聞こえてくる。土方さん、だろうか。
同じボタンをもう一度押し、スピーカーフォンにする。袂から手を出し、思い切って携帯電話を滑らせる。明るい画面には公衆電話の文字があった。
「オーイ、聞いてんの?」
聞こえてきた声は土方さんではない。銀時だった。
「聞こえてんなら返事しろや、オイ」
「……銀時?」
「あ、そうか。病院からかけてっから名前出ねえのか。あのさあ、明日退院することになったから。おまえもう一回来るって言ってたけど来ねえし、一応」
低く平坦な聞き慣れた声。乾いた目の奥からじわじわと涙が溜まってくる。喉が締まって、言葉が出ない。
「……銀時」
「え、なに? ちょっと声遠いんだけど、どこにいんの?」
「わかんない……」
「わかんないって、こんな時間に迷子なんて笑えねえよ。どの辺? 目印ねえの? 迎え……」
「……て」
「あ?」
怪訝な様子が電話越しでもわかる。膝の上にぽつりと水滴が落ちる。
「助けて」
消え入りそうな声が聞こえたのか聞こえていないのか、電話口からは何も答えがなかった。一度溢れ出した涙が止めどなく落ちてくる。
複数の足音が階段を駆け上がってくる。無精髭の男が険しい顔つきで私に詰め寄ると、振りかぶった平手を頭に食らった。脳が揺さぶられ、視界が眩む。鼓膜にぶつけられるかのような怒声が尚更それを助長させた。
「このクソアマ!」
後ろに立っていた男が携帯を踏み潰す。髪を掴まれ顔を上げさせられる。眼前の男は血走った目を剥いている。
「舐めたマネしてっと今すぐにでもその首掻っ切ってやるぞ。簡単なんだよ、人間一人斬るのくらいよぉ」
刃を頬に当てられる。男が素早くそれを引くと、鋭い痛みが走った。間もなくして生温い感触が頬を伝う。顔を歪める暇もなく、次には刃先が首筋に立てられた。冷たさに怖気が立つ。以前、古戸さんにも匕首を向けられたことがあったが、そのときとは違う。感じる殺気には迷いがない。あと数ミリ、ほんの少し刃を引けば命はない。唾を飲み込むこともできずに震える拳を固く握る。男はしばらく私を睨み、刃を下ろした。周りの浪士たちが「一発痛めつけるか」と口々に言うが、男はかぶりを振る。
「痛めつけんなら土方が来たあとだ。奴の目の前でやる」
男は近場にいた浪士に私の見張りを命じた。
男たちの足に壊れた携帯の部品が踏み潰されていく。土方さんがあんな奴等に負けるだなんて思っていない。真選組は攘夷浪士なんかに負けない。しかし目先の恐怖は最早どうしようもなく、胸を埋め尽くす恐怖は膨れるばかりだった。
——銀時。
声には出さずに名前を呼ぶ。擦り切れるような腕の痛み、鈍痛の続く頭。吐き出すことのできない息を、無理やり飲み込んだ。
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