どこかが雨漏りしている。規則的に水滴の落ちる音がする。同じ姿勢でいると体が凝り固まってしまい、時折足を動かしたり掌を閉じたり開けたりする。その度に私の脇に座っている浪士はびくりと大袈裟に身構える。暗いのでよくわからないが、立ち居振る舞いの覚束なさからまだ若いように思う。私はゆっくりとその浪士に目を向ける。
「この状態じゃ何もできないよ」
だからそんなに驚かないで、という意味だったのだが、浪士は難しい顔で私を睨むだけだった。見張りを命じられた彼はその言葉通りの役目しか担っておらず、わたしに危害を加える気配はなかった。私は数秒間押し黙ったが、再度会話を試みる。黙っていると思考ばかりが巡っていくので話していたほうがいい。
「あなたはなんで攘夷志士になったの」
浪士は刀を両手に抱え、膝を立てて座り直す。答えはない。
「別に悪いことだとは思ってないよ。ただ……」
「何がわかるんだ」
唐突に放たれた声は男性と言うよりも、まだ男の子といった雰囲気だった。彼は弾かれたように言葉を紡ぎ出す。
「この国は腐ってる。侍から誇りを奪って天人に迎合して、自分たちが利用されていると知りながら抵抗することもしない。かつて国を取り戻そうと戦った侍たちの首を刎ねて、臭いものに蓋するみたいに」
少年が唐突に口を閉ざす。しかし、彼の中にも信念や確固たる想いがあることはわかった。刀を握り締める手に力が籠もっている。
「……悪いことだとは思わないけど、誰彼構わず巻き込んでしまうやり方は、良くないよ。もっと違うやり方があると思う」
「説教なら聞かねえぞ」
「説教じゃない。ただ、命を抛つようなことはしないでほしいだけ」
私の頭に浮かぶのは、やはり銀時の姿だった。少年の言う、国を取り戻すために戦ったうちの一人に銀時も入るのだろう。銀時が今生きていることは、もしかしたら限りなく奇跡に近いのかもしれない。そして、再び会えたことも。
——おまえに、会えるような男じゃなかったんだよ
再会して間もない頃に銀時は言っていた。あの言葉の真意を訊いたことはないし、私はいつも自分のことばかりで銀時自身のことについて知ろうとしたことがなかった。寄りかかり、支えてもらってばかりで、私は何もできていない。
閉口していた少年が私を一瞥する。
「アンタ、本当に土方の女なのか」
「……どう思う?」
質問に質問で返されたことが不満なのか、少年はムッとした。「似合わねー」と口を尖らせる。私は力なく苦笑した。
「殺されるかもしれないってときによく笑えるな」
「まだ、死ねないから」
電話でも銀時の声を聞くことができて良かった。折れそうだった気持ちが、再び芯を取り戻そうとしていた。
数え切れないほど、たくさんのものをもらっている。なのに、みんなに、銀時に何一つ返せないままこのまま終わっていいわけがない。しかし、こんな腕一つ伸ばせないような状態で何ができるのか。自嘲気味に笑みが漏れる。少年は一人で笑う私を不可思議そうに見ていた。
不意にトタンを叩く激しい音が鳴り響く。少年は反射的に立ち上がる。外にいたはずの男たちが次々に工場内に入ってくる。喚き声には怒りと戸惑いが見える。激しい足音と、人が揉み合う音、鈍い金属音。少年が階段の下へ降りて行こうとすると、それを遮るように二人の浪士が階段を駆け上がってきた。
「オイ!なんなんだよアイツ!」
「知らねえよ!」
狼狽する浪士たち。招かざる客が来たことはわかるが、声一つ聞こえてこない。
ガンガンとアルミ製の階段を荒々しい足音を立てながら誰かが歩いてくる。私からはまだその人影が見えない。
一度は二階へ上がってきた浪士の一人が、刀を構え階段を駆け下りる。しかし、すぐにくぐもった声と共に、階段を何度も叩く音がする。
無精髭の男が脂汗を垂らしながら私に向かって走ってくる。刀で縄を切り落とし、無理やりに立たされる。首に腕を回し引き摺られる。顔を歪める間もなく、目の前に現れたその姿に呆気に取られた。
「てめえ!この女がどうなってもいいのか!」
耳元で鼓膜が揺れるほど男が叫ぶ。しかし、私の意識は視覚に集中していた。
階段を上がってきたのは、木刀を握った銀時だった。ジャージの下に見える胸には包帯が見えている。胸だけではない、病院で見ていたときのまま、頭部にも包帯がある。暗闇の中では、その白い包帯と銀色の髪がやけにはっきりと見えた。
銀時は私の姿を認めると足を止めた。吊り上がった眉と瞳孔の開いた眼差しが見える。あまりに普段の銀時からはかけ離れている表情に、一瞬寒気が走る。本当に、銀時なのだろうか。固く閉ざされた唇は開く気配がない。
私の首に回った男の腕に力が籠る。じりじりと距離を開け、男が銀時の横に刀を構えて立っていた少年へ目配せする。それを合図に、少年が銀時へ斬りかかる。銀時は身を翻し、剣を木刀で払い少年の鳩尾へ膝を突き込んだ。少年が噎せ返りその場に蹲る。
それを見届けるか否かで、男が私を引っ張り工場の奥へ走り出す。草履が脱げ落ち、私は片足だけ高さの違う状態で引き摺られて行った。
「クソッ、なんで白夜叉が……」
走りながら男が小さな声で漏らす。白夜叉、という聞き慣れない単語が耳に残った。
足が縺れ、私は男の腕から擦れ落ちてコンクリートに転んだ。ずっと座っていたせいで体が思うように動かなかった。男は舌打ちをして私へ手を伸ばす。しかし、私と男の間に木刀が突き立てられる。コンクリートに木刀が刺さるわけもないが、床にはひびが入っていた。
「触るな」
地を這うような低い声に、男が息を呑む。
男が動けずにいると、その手を黒いブーツが踏みつけた。
「聞こえなかったか? 触るなっつったんだよ。その汚ねぇ手を退けろ」
男の嗄れた叫び声が反響する。コンクリートにめり込む勢いで反り返る手指。肉が引き裂かれ、骨が砕ける音が今にも聞こえてきそうで、呆気に取られていた私ははっとした。
「ぎん……」
最後まで名前を呼べなかった。叫び声が続いている。縋るように脹脛を掴み見上げる。向けられた氷のような眼差しは、やはり銀時とは思えなかった。それでも、掴んだ手に力を込めると、銀時は足を浮かせた。男はバタバタと後退り、赤黒くなった手の甲を震わせた。息を弾ませ、脂汗が顔中に滲んでいる。
私は腕を支えにして体を起こし、座り込む。銀時が一歩進むと、男は後退りする。
「白夜叉、なんでてめーがここにいる……そいつは、土方の女だろうが……」
「なに抜かしてやがる」
銀時が砂を踏み締める。木刀がゆらりと揺れ、真っ直ぐに伸びる。
「コイツは俺の女だ」
男は目を丸くする。しかしすぐに険しい顔付きに戻り、小刻みに震える手で刀を握り込む。そして咆哮と共に銀時へ立ち向かっていく。
男は銀時の振りかぶった木刀で打ち払われ、壁に叩きつけられた。そして雑巾のようにコンクリートの上に倒れ、白目を剥いて昏倒した。
立ち尽くす銀時の背中を見つめる。私はまだ震えの治まらない足を奮い立たせ、やっと立ち上がる。片足だけ残っていた草履を脱ぎ捨て、銀時へ歩み寄る。
「銀時」
その背中へ手を伸ばすと、銀時が突然その場に頽れた。前屈みになり片膝を着いている。前へ回り込むと、胸の包帯に血が滲んでいた。触れた手が生温かい感触と共に赤く染まる。動転する私に、銀時は不敵な笑みを向ける。
「暴れたら傷が開いただけだ」
「でも……」
「おまえこそ何かされてねえのか」
大きくかぶりを振ると、銀時は愁眉を開く。
「肩貸してくんね?」
銀時の腕を肩に回し、ふらつく足で廃工場を出る。工場の中には銀時が倒した浪士が何人も倒れていた。ざっと見て十人以上はいるだろう。
出口に近付くに連れ、冷たい空気と薄明るい光が顔を出す。工場の外には、雑草の茂った広場があった。その先には、朝靄に包まれる江戸の街が見える。ターミナルや高層ビルが靄の中からぼんやりと頭を出している。
澄んだ空気と、随分長い間見ていなかった気のする光に思わず立ち尽くす。すると、銀時がずるりとその場に倒れていく。朝露を乗せた草の上に仰向けに倒れた銀時の脇に座り、汚れた頬に触れる。私はじわりと目頭が熱くなるのを感じた。銀時は目を細め、私の頬の切り傷に触れた。形を確かめるようになぞられる。
「悪い……もっと早く来ればよかったな」
静かな声に胸が苦しくなる。目を擦る。
「バカなんじゃないの」
「……ああ?」
「バカだよ、そんな、ボロボロのくせに。私なんかのために」
両手で顔を覆う。堪え切れない涙が溢れてくる。しゃくり上げる私の手を銀時の手が掴む。広げられた視界に銀時の柔らかい笑みがあった。
「初めてだったろ。おまえが助けてって言ったの」
「……聞こえてたの?」
「おまえの声聞き逃すわけねえだろ」
銀時が上半身を起こす。私の顔を両手で挟み、喉の奥で笑いながら目尻を拭う。傷だらけなのに銀時はよく笑う。
「不細工になってんぞ」
「……誰のせいで」
「俺のせいね。わかったから泣くな」
雑に頭を撫でられる。わかってない。私の気持ちなんか全くわかってない。銀時の着流しを握って涙声で訴える。
「危ないことしないで」
「はいはい」
「心配させないで」
「おまえが言うかね」
「いなくならないで」
あの日に言えなかった言葉が長い時間を経てようやく声になった。遠ざかる足音、揺れる掌。引き止めたくて引き止めることができなかった。
銀色の髪が淡く照らされている。眩しくて優しい色。いつも私を護る、大切な人。どこにも行かないでほしいと願って、吐き出せずに飲み込んだ。あの頃の私から、私は少し弱くなってしまったのかもしれない。
「いなくならねえよ」
それでも、銀時はひどく穏やかな声で私を受け入れる。分厚い手が首の後ろに回され、胸元に頭を押さえつけられる。切れた頬が擦れて痛む。
「このくらいじゃ、俺は死なねえよ」
遠くでサイレンの音がする。靄に包まれ輪郭の曖昧な江戸の街に、朝日が差し込んでいた。
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