散々医者に説教され、看護婦長にも嫌味を言われまくり、当初の退院予定日から一週間経った頃、ようやく病院から解放された。
高く晴れた空の下、吹き付ける風にくしゃみをする。冬が近い。
「息災であったか、銀時」
病院を出て間も無く、背後から聞き慣れた声に呼び止められた。目深に笠を被ったヅラだった。その横にはエリザベスが立っている。相変わらずの不審振りだが見慣れると何の違和感もない。エリザベスはプラカードで「無事で何より」と無表情で俺を気遣った。
「これが無事に見えるか」
頭の包帯は取れたが、腹部の包帯はそのままだった。ジャージの隙間からそれを見せると、ヅラは「死なぬ限りは息災だ」と大味なことを宣った。見た目の割に妙なところが雑だが、今更突っ込む気にはならない。付き合いが長くなるほど寛容になる。いや、諦念と言ったほうが近いかもしれない。
「その様子だと、護りたかったものは無事のようだな」
ヅラは腕を組み直した。俺は自分の頭を乱雑に掻く。胸を張って無事だとは言い切れなかった。
「貴様が血相変えて俺のところへ来たときは驚いたぞ。一人で奴等の元へ乗り込んだのだろう」
一週間前のことを回顧する。偶然でもあのときナマエへ電話して良かったと心底思う。電話越しに聞こえた男の声が長屋で俺を襲った男の声とよく似ていたことも不幸中の幸いだった。病院を抜け出し、ヅラの元へ向かい、奴等の潜伏場所を聞き出した。住所不定のヅラを探し出すのは容易ではなかったが、かまっ娘倶楽部の前で客引きをしているところを偶然見つけた。
無我夢中で夜の街を走っている間、頭の中を占めていたのはナマエの押し殺した一言だった。その一言が俺を突き動かしていた。もう届かないのは御免だった。
真選組によって攘夷浪士は全員捕縛され、俺もナマエも病院へ運ばれた。事の経緯を聞いたのは、翌日になってからだった。近藤、土方が揃って俺の元を訪れ、土方は自分の恋人と勘違いされたためにナマエが狙われたのだと渋い顔で言った。見合い破談のためとは言え迂闊だった、と。気は合わない奴だが土方が悪いなどとは思っていない。道理に外れたようなことをする男じゃないことくらい、嫌になる程知っている。もっと下衆な奴なら責める事もできたが、珍しく殊勝な様を見せるものだから何も言えなかった。
「ヅラ、捕まった連中どうなったか知ってるか」
「ヅラじゃない桂だ。今頃牢獄の中だろう。その後どうなるかは知らんがな……まあ奴等も覚悟の上だろう」
「今度会ったら息の根止めてやるって伝えとけ」
「冗談でもやめておけ。あんな連中」
「冗談じゃねーよ」
ひらりと手を振ってヅラの前を去る。ヅラが眉を顰めている姿が目の端に映った。
あの日からナマエには会っていない。一晩入院してすぐに退院したと土方たちに聞いた。顔くらい見せるかと思っていたが、影すらない。それが少し不満で、気がかりだった。過ごした時間なんかそれほど長くないが、ナマエの性格ならよく知っている。おそらくあの日、俺に向けた言葉には何も嘘はない。堰を切ったように溢れたものだったのだろう。ナマエが俺を大切に思っていることなんか知っていたし、俺なんかのために泣くことだって知っていた。
手を拱いていたのが馬鹿馬鹿しく思えた。もう高慢ちきなことを言っていられない。俺のほうが、ナマエが目の届かないところにいるのが耐えられなくなっているのだ。
何度も歩いた道を進む。橋の下を流れる川面は薄く空を映していた。アパートの階段を上がり、ナマエの部屋のインターホンを鳴らす。しかし、応答はない。仕事か、出かけているのか。何となしにドアノブに手をかけると、軽い音を立ててドアは開いた。躊躇いつつも部屋を覗くと、室内はもぬけの殻だった。部屋の前の表札を見て、再度空っぽの室内を見渡す。思わずブーツのまま部屋へ上がろうとすると、背後から怒声が飛んできた。
「ちょっとアンタ! 何してんの!」
箒を持った痩せっぽちなおばさんが俺を睨んでいた。箒で肩を叩きながら詰め寄ってくる。
「内見かい? 土足厳禁だよ」
「おばさん、ここに女が住んでなかったか」
食い気味に訊ねると、訝しげに見上げられた。
「あの子の知り合いか? この前出てったよ」
「出てった? なんで」
「どうして見ず知らずのアンタに教えなきゃならんのさ。アンタ、あの子の何なんだい」
答えが出てこない。俺はアイツの何でもない。おばさんは閉口する俺に「ストーカーなら帰んな」と吐き捨て、階段を降りていく。
胸騒ぎがする。おばさんを追い越し足早に階段を降り、向かったのは真選組屯所だった。ご無沙汰してます、と手を上げる隊士を素通りし、庭木に雪囲いをしている山崎に歩み寄る。山崎は呑気な声で「あれ、旦那」と俺を振り返った。
「体もういいんですか?」
「んなことどうでもいいんだよ。ナマエは?」
ナマエの名前を聞くと山崎が顔を曇らせる。
「ああ、ナマエちゃんですか……まあ、あんなことがありましたからね」
軍手を外しながら山崎は目を伏せる。心臓が早鐘を打っている。
「副長も珍しく反省してたんですけど、ナマエちゃんの意志を尊重して……あ、旦那? どこ行くんですか?」
山崎の声も聞かずに屯所を出る。額の髪を掻き上げ、舌打ちをする。当然のように会えると思っていた。抱える覚悟も、その手を離さない自信もようやくできたのに、結局俺はまた届かなかった。土方たちはナマエの今後について何も言っていなかった。ナマエが味わった恐怖は想像に難くない。連れ去られ、拘束され、刀で脅されたのだ。危険な目に遭ってまで、ナマエがこの街に居続ける理由はない。そう思い至り、途端に体が重くなった。田舎に帰ると言い出してもおかしくない。ナマエ自身のことを考えれば、それが最善だ。
重い足を引き摺りながら街を回る。いつもと変わらない喧騒が耳を通り抜けていく。かぶき町に着く頃には昼を過ぎていたが、腹も減らない。
どうすればいい。俺の勝手な我儘でナマエをこの街に縛り付けていいわけがない。あの笑顔を護りたいのに、まさか自分でそれを壊すなんてできない。しかし、俺の知らないところで過ごしていくナマエを想像したくもない。いつか誰かがその手を取って、一緒に生きていくのか。そんなもん糞食らえと思うのに、それがナマエの掴むべき幸せなのかもしれないと身を引きたくなる。
頭の中は堂々巡りしているが、足は自然と万事屋に向いていた。スナックの前では、たまが窓拭きをしていた。もう退院されたのですか、と訊かれ、おー、と生返事を返す。引き戸へ手をかけようとしたところで、たまが俺を止める。
「銀時様、二階でお待ちになってますよ」
「あ?」
たまの視線を追うように万事屋を見上げる。二階の手摺りに手を着き、こちらを見下ろしているのはナマエだった。
「おかえり」
柔らかい日の光の下、優しい笑顔でこちらに手を振るナマエの姿に、俺は言葉を失った。
手を振っても、銀時は微動だにしなかった。ただ目を丸くしてこちらを見上げている。どうしたのだろう。首を傾げていると、弩にでも弾かれたように突然走って階段を駆け上がってきた。そしてあっという間に私の目の前まで来てしまった。その勢いに面食らっていると、きつく抱き竦められる。前のめりにかけられる体重に耐えきれず、私は尻餅を着いてしまった。手に持っていた紙袋が潰れないように何とか持ち堪えるが、それでも銀時は私を離さず、一緒になって倒れ込んで膝を着く。骨が軋むのではないかと思うような力に、恥ずかしいよりも痛みが勝り背中を叩く。
「ちょっと、痛い。痛い、銀時」
それでも力を緩めてくれない。何度か抱きしめられたことはあったけれど、こんなに目一杯力を込められたことはなかった。
「出てったんじゃねーのかよ」
肩口にかかる息が熱い。何を言わんとしているのか見当がつかない。
「朝は道端にゲロ落ちてるし、昼間は喧嘩ばっかだし、夜は酔っ払いが転がってるし、警察はチンピラ集団だし万事屋はこんなボロボロだし。こんなろくでもないとこ、嫌になったってしゃあねえよ。そりゃ愛想も尽きるわ」
銀時はつらつらと喋り続けるが、私は何を言われているのかよくわかっていなかった。
「おまえなら、こんな肥溜みてえな場所じゃなくっても、どこでだってそれなりにやっていけるだろうよ。どこ行ったって、たぶんいい男と一緒になれるんだろうけど」
低く少し掠れた声は続かなかった。信じ難いほどしおらしい姿に目を瞬かせる。どうして私は、この広い背中が強く、常にまっすぐであると思い込んでいたのだろう。
「……銀時、話しづらい」
ようやく力が緩む。二人の間にできた隙間には、まだ熱が残っている。銀時の顔を覗くと、一瞬目が合ってすぐに逸らされてしまった。ばつの悪そうな表情にどう切り出せばいいのか思案し、結局そのまま思ったことを訊ねる。
「なんか、勘違いしてる?」
怪訝な顔を向けられる。
「帰るんじゃねーの? 田舎」
「……なんで?」
「アパート引き払ったんだろ」
「引っ越したの」
「はあ?」
攘夷浪士に家が知れている可能性があると言われ、退院後すぐにアパートは引き払ってしまった。その後、転居先が決まるまで真選組屯所で寝泊りさせてもらっている。男所帯の中に女一人ということで色々と気を遣わせてしまっており、私の部屋は隊士部屋とは離れた角部屋、鍵付きになっている。身を案じてくれているのはありがたいが、まるで十代の女の子のような扱いは少し過保護なような気もする。
簡単に説明すると、深いため息と共に銀時は自分の顔を両手で覆った。
「俺の純情を返せ」
「そんなのあった?」
「おまえ時々辛辣だよね。マジでなんなの?」
指の間からじとりと睨まれる。私は紙袋を差し出した。
「退院祝い買ってきたから、神楽ちゃんたちが帰ってきたら一緒に食べよう」
「……なに?」
「どら焼き」
「なんでどら焼き?」
「だめ?」
つぶあんとこしあん、カスタード、チーズ。お登勢さんたちの分もと笑いかける。いろいろと選んでいるうちになんだか楽しくなって、ついたくさん買ってしまった。
銀時は薄く開いた唇の奥で何かを言いたげにしていた。しかし口にすることをやめて、代わりに熱い手を私の頬に伸ばす。はじめ、そこに何があるのか私はわかっていなかった。遅れてそこには刀傷があることに気が付いた。既にかさぶたになっているので、触れられても痛くはない。
「そのうち消えるよ」
「そういう問題じゃねーだろ。女が簡単に傷作るなよ」
「お嫁にいけないとか言うの?」
「俺がもらってやるよ」
銀時が事も無げに言うので固まった。何かの冗談かと思ったが、銀時はにこりともしないどころか真顔だった。
「おまえ、言ったよな」
「……なにを?」
「いなくならないでって。俺のそばにいたいって」
まだ木々の葉が青い頃。風が優しく吹いていた頃。あの日は雨が降っていた。この前は、朝日が眩しくて空気が澄んでいた。
「だったら、どこにも行くなよ」
傷に触れていた手が私の手を強く握る。空気が乾燥しているせいか、銀時の唇は乾いていた。手から熱が移ってきて、徐々に銀時の言葉が胸の奥に染みてくる。それは私の奥底にまで浸透していく。
離さないように掴んでいる手に、自分の手を重ねる。節くれだった大きな手の上では、私のそれは小さく頼りない。こんな私のことを離さないようにしてくれている人がいる。なんだか泣きそうになって、きゅっと唇を結び、震えそうになる声を絞り出す。
「他に行く場所なんかないよ。私の居場所は、ここにあるから」
江戸へ来たばかりの頃は、ただ銀時のそばにいたいだけだった。そうすることで心の内に開いた穴も、やり場のない寂しさや不安も全てが埋まるような気がしていた。でも今は、万事屋のみんなや真選組、お登勢さんたちに、ここで出会った人たちと一緒にいたいと思う。一緒に笑ったり本気で怒ったりしてくれる、そんなみんなとこれからも一緒にいたい。
肩に銀時の頭が乗る。柔らかい髪が頬に当たってくすぐったい。
「忘れんなよ、今の」
「……うん」
銀時はゆっくりと顔を上げた。少しだけ眉根を寄せて、私を見ている。赤い瞳の奥に映る私は、どんな顔をしているのだろう。徐々に近付いてくるその瞳に体が強張る。思わず身を引こうとしても手を掴まれていて逃げられない。銀時の顔が僅かに斜めに傾いて、距離が縮まってくる。
「何してるアルか」
神楽ちゃんの声が降りかかってくる。はっとして顔を上げる銀時。神楽ちゃんは冷え切った目でこちらを見下ろしていた。その横には新八くんがいて、頬を少し赤らめて咳払いをしている。
「あ、あの、そういうことはできれば家の中で、っていうか人目のつかないところで」
新八くんはしきりに眼鏡を上げながら言った。私は自分の顔が急激に熱くなるのを感じた。狼狽しながら否定を試みる。銀時もさすがに気恥ずかしいのか一緒になって弁明をしている。
「ちがうよ、違う。別になにも」
「そーだよ銀さんだってそんな外でがっつくほどケダモノじゃねえよ」
「今にもチューしそうな距離だったネ。それに銀ちゃん、いつも男はみんな狼って言ってるアル」
「言ってるけども! 銀さんは超理性的な狼だから!」
必死な弁明も聞き入れてもらえず、神楽ちゃんには肩を竦められた。
「銀ちゃんもダイゴも素直じゃないアルな。めんどくさい奴同士、お似合いアル」
引き戸を開け、万事屋へ入っていく神楽ちゃん。定春がおかえりと言うように鳴いている。
「僕らのいるときはそういうことやめてくださいよ!」
赤面した新八くんが続いていく。お腹空いたー、と神楽ちゃんの声が聞こえてくる。
私と銀時はしばらくその場で呆けていたが、やがて目を合わせ、どちらからともなく笑い合って立ち上がる。が、離れていった手が惜しくて、そっと掴む。銀時は不思議そうに振り返った。
いつかの雨の日に私が必死に探していたのは、この手を繋ぎ止める理由だった。引き止めるのではなく、こうして手を繋いで、一緒に歩いて行けるようになりたい。
何も言わない私に銀時は瞬きをして、後頭部を掻き回す。そして視線を泳がせ、観念したように私を見る。
「さっきの、本気だから」
「なにが?」
「だから、嫁とか、言ったやつ」
数拍黙ってしまった。すると銀時は眉を寄せたり口元を歪めたあと、小さく「目閉じろ」と片手をドアに着いて、唇を寄せる。私が目を閉じる前に唇が数秒重なり、そっと離れていく。
「わかるだろ」
「……え?」
「……」
面食らう私に、それが気に入らなかったのか銀時は勢いづけて体を反転させた。
「もーいい! 腹減ったしどら焼き食うぞ! あ、俺つぶあんな!」
銀時は大きく足音を鳴らしていく。銀髪の隙間から見える耳も頬も、新八くんの比にならないほど真っ赤になっていた。
万事屋の玄関を潜り歩を進めると、賑やかな声。私は冷めない熱を閉じ込めるように頬を押さえた。それでも、こぼれる笑みは隠せなかった。
この先の時間を、ここで生きていきたい。望むらくは、みんなのそばで。あなたの隣で、笑っていられたら、いい。
やがて実となり花となれ・死んで花実が咲くものか 終
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