広々とした宴会場で酒を酌み交わし団欒する人々の間を縫い、空いた皿を下げる。宴会も佳境に入ると最早自分の席についている人も少なく、皆好き勝手に集まっては騒いでいる。畳に膝を着いて皿を集めていると、肩を叩かれる。振り向くと赤ら顔の若い男が笑みを浮かべていた。
「おねーさんも一緒に飲もうよ」
こうしてお客からお酒を勧められるのは初めてではない。旅籠屋で働き始めて二週間が経つが、複数人で来る男性客は大概、お酒を注いでくれる相手を求める。江戸へ着けば飲み屋も女性のいるお店も数多くあるが、道中には茶屋はあってもそういった娯楽施設はない。
男にお猪口を差し出されるが、私は愛想笑いを見せる。
「すみません、仕事中なので」
「えーノリ悪いなー。いいじゃん一杯くらい」
「じゃあ、手が塞がってるので、また後で来ますね」
「約束だよ」
会釈をして宴会場を出る。襖をそっと閉めると、険しい顔のチセが仁王立ちしていた。
「ここはスナックでもキャバクラでもない」
「……はい」
「また後で、なんて言ったらネチネチ誘われるよ。アンタただでさえチョロそうだし」
「チョロ……?」
社交辞令だったのだが、思わぬ自分への評価に少し面食らう。私はそんなに簡単な人間に見えるのだろうか。確かに見た目だけなら平々凡々だけれど、そう容易く折れるようにはできていないつもりだ。
チセは私が下げてきた倍の量の皿をお盆に乗せて厨房へ向かう。華奢な腕で、陶器の重い皿をいくつも持つ様には頭が下がる。
主人である島蔵さんは接客対応や事務処理に忙しく、雑用や給仕などはほとんどチセが請け負っている。料理番も一人しかいないため、時には調理の補助にも入る。私は一日中チセの後に続き、時には厳しく叱咤されながら日々を慌ただしく過ごしている。私がここへ来て褒められたことといえば、キャベツの千切りが上手いということくらいだ。
「これ片付けたら、幹事にお積もり訊いてきて。私、裏に行って酒取ってくる」
「はい」
チセは物言いがはっきりしているが、その分指示も的確で私を迷わせる余地がない。年下の女の子ではあるけれど、とても頼り甲斐がある。
厨房では、料理人の古戸さんが黙々と卵をボウルに割り入れていた。明日の朝食の用意だろう。私が厨房へ入っても一瞥もくれることがない。
古戸さんは三ツ屋で提供される料理のほとんどを一人で調理する一流の料理人だ。寡黙で感情を表に出すことがなく、私にとっては近寄りがたい存在だった。年齢は島蔵さんとあまり変わらないようだが、固く結ばれた口元に見える皺や表情の乏しさから、島蔵さんよりも年齢は上に見える。
お皿を洗い終え、手を拭う。宴会場は冷房が効いているが、動いていると暑い。冷たい麦茶を注ぎながら、機械のように一定のリズムで卵を割っている古戸さんを見遣る。古戸さんはいつも私が起きるよりも早く起きて仕事をしていて、遅く仕事を終える。一体いつ寝ているのか心配になる。が、それを口にすることも憚られるほど纏っている空気は重い。しかし、こちらから交流を絶ってしまえば、絶対に向こうから近付いてくれることはない。私は意を決してコップを古戸さんの視界に入るように差し出す。手の動きがようやく止まった。
「お茶どうぞ」
古戸さんはコップを見つめ、私を一瞥する。間があったので、余計なことをしてしまったかと手を引っ込めようとすると、小さな声で「すまない」と言って古戸さんはコップを受け取った。血管の浮いた手の甲には、一部だけ肌の色が違う古傷があった。
「チセの分も置いておくので、戻ってきたら渡してください」
「ああ」
古戸さんはコップを置いて頷いた。厨房を出た私は、ほっと胸を撫で下ろした。
旅籠屋の館内図を広げる。仕事終わり、チセはすぐにお風呂に入る。その間に部屋でこっそりと三ツ屋の館内図を紙に描き起こしていた。気になるところには印を付けるつもりだったけれど、今のところ館内図はまっさらなままだ。日々の仕事に追われて、館内を探る時間がないというのが正直なところだが、それでは潜入の意味がない。自分で望んできたのに、土方さんに怒られてしまう。
そういえば、土方さんからの連絡が途絶えている。潜入後、時折電話やメールで連絡が来ていたのだけれど、ここ数日は全く音沙汰ない。気になって懐に手を入れる。しかし、携帯電話はない。鞄の中にもない。記憶を辿ると、厨房でお皿を洗っているときに濡れないように外へ出してしまったような気がする。
サーっと血の気が引く。もしも誰かに携帯電話を見られてしまったらまずい。電話が鳴ってしまうと、ディスプレイに名前が表示される。古戸さんやチセが電話に出るとは考えられないけれど、万が一ということもある。私は急いで厨房へ向かった。
時刻は深夜十一時を回っていたけれど、厨房には明かりがついていた。まだ古戸さんがいるのだろう。
「いつもと違う」
踏み入れようとした足が止まる。チセがいる。恐る恐る覗いてみると、チセと古戸さんが向かい合って立っていた。チセは持っていた箸を乱暴にシンクの上に置いた。見覚えのある青い皿も置いてある。今日、宴会で出した煮しめのお皿だ。
チセは厳しい口調で古戸さんを責め立てる。
「味が違う。酔っ払い相手ならわかんないかもしれないけど、私にはとても美味しいとは思えない」
古戸さんは何も言わない。ただ俯いている。
「自分でわかんないの?だったらもう、料理人じゃない」
「チセ!」
黙っていられなくなったのは私だった。二人は目を丸くしている。続ける言葉を考えていなかった私は、唾を飲み込んで間を取り、チセに詰め寄る。
「そんな言い方ないと思う」
チセは眉間に皺を寄せる。
「アンタに何がわかるの?ついこの前から来たばっかりのアンタに何がわかんの」
「わからないけど、でも」
「わかんないなら口出さないで!」
バン、とシンクを叩くチセ。そして、眉根を寄せたまま、足音を大きく立てて厨房を後にする。古戸さんはチセの背を横目で見送り、冷蔵庫に凭れた。表情は窺えない。
「……ごめんなさい、余計なこと」
頭を下げる。思わず飛び出してしまったけれど、本当に余計なことをしてしまった。私は偽名を使い、嘘をついてここにいる。私の心などここで介入させるべきではなかった。
顔を上げると、古戸さんは片手で顔を覆い、額を擦った。
「いや、アンタが謝る必要はない。アイツの言う通りだ」
細波のように少し揺れた声。自分から突っ込んでおいて、私には古戸さんを慰めることも、チセのように怒ることもできない。何もできず瞬きを繰り返していると、古戸さんは洗い場を指差した。指差された先には私の携帯電話が置いてあった。
「アンタの携帯、置いてある。それを取りに来たんだろ」
「……はい」
「それ持って、部屋戻ってくれ。チセはあんなだが、本当は気が小さいんだ。今頃、アンタに怒鳴ったこと後悔してる」
まるで娘を陰で見守る父親だ。私は携帯電話を持って、厨房を出た。
部屋へ戻ると、チセは窓辺に座っていた。何をするでもなく、外を眺めている。名前を呼ぶと私を見て、気まずそうに視線を逸らす。いつも溌剌としているチセからはおよそ想像できない。古戸さんの、チセが気が小さいという言葉にも半信半疑だったのだが、その通りなのかもしれない。
少し距離を置き、ちゃぶ台の前に座る。
「チセ、ごめん。何も知らない私が口を出すことじゃなかった」
「……別に。私も言い過ぎた」
「それは私に?古戸さんに?」
チセは答えあぐねて、どっちも、とか細い声で紡いだ。いたずらを叱られた幼い子どものようで微笑ましくなってしまう。しかし、チセは窓の外を見ていたので、私が微笑んでいたことには気が付いていなかった。
チセは暗闇を眺めていた視線を私へ移す。
「フーさん、怒ってた?」
「フーさんって、古戸さん?」
頷くチセ。あの寡黙な職人が、そんなあだ名で呼ばれていることは意外だった。
「怒ってなかったよ。チセのこと心配してた」
「……いつまでも子ども扱いしやがって」
チセは小さく舌打ちをする。古戸さんがチセを娘のように見ているのと同様に、チセもまた、古戸さんを父親のように見ている。反抗期のようなものなのだろうか。私自身にはそういった時期がなかったので、あまりよくわからない。おじいちゃんとはたまに喧嘩もしたけれど、引きずることもなかった。
「古戸さんは、三ツ屋でずっと働いてるの?」
「……フーさんは、親父が拾ってきた」
「拾った?」
「行き場もない浪人だったんだ。親父は人が良いからそういう奴をすぐに拾ってくる。料理人になったのは、親父に恩を返すために……」
浪人という単語に引っかかる。古戸さんの手の甲の古傷。包丁で切るにしては不自然な場所だった。しかし話の流れから、焦点をそこへ当てるのは不自然だ。訊き直すことはことはできなかった。
「なのに……」
長い髪を夜風が揺らしている。チセは口を噤み、閉口してしまった。
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