「銀ちゃん」
社長椅子でジャンプを読み耽っていた銀さんに神楽ちゃんが詰め寄る。僕は視界の端にそれを映していたが、掃除機をかけ続ける。
「ダイゴが置いていったごはん、もう全部なくなっちゃったヨ」
「おまえがペース配分考えずに食うからだろバカタレ」
銀さんはジャンプを見たまま吐き捨てた。神楽ちゃんは唇を尖らせる。
「だって、そこにあったら全部食べてしまうネ」
「犬かオメーは」
自分の足で冷蔵庫へ行き、扉を開けてしまうあたり犬よりも厄介だ。居間から和室へ移動していくと、定春がくうくうと寝息を立てていた。ちょっとごめんよ、と声をかけて退いてもらおうとするが動く気配がない。仕方なく周囲を掃除して終わった。
掃除機の電源を切り、ふと窓の外を見ると雨が降っていた。姉上、洗濯物取り込んでくれたかな。
神楽ちゃんはソファにどかりと座ってつまらなさそうにテレビを付けた。雨が降っていては遊びに行く気もないらしい。ザッピングをして刑事ドラマの再放送に目を留める。
「ダイゴ、早く来ないかな」
神楽ちゃんはすっかりナマエさんに懐いていた。女の子同士――ナマエさんは大人の女性だが――が仲睦まじくしているのは微笑ましい。
「神楽ちゃん、ナマエさんのこと好きなんですね」
机を挟んで銀さんに言うと「餌付けされてるだけだろ」と返された。相変わらず視線は紙面に注がれている。
ナマエさんは、穏やかでしなやかな人だった。僕らが好き勝手に騒いでいるときも傍らで楽しそうに笑っている。品があって優しくて、しかし飾ったところがなく、非の打ち所がない。怒ったり誰かを憎んだり、そんな負の感情とは縁遠いように見える。どうしてそんな女性が銀さんと昔からの知り合いなのか何度考えても疑問である。
「銀ちゃんだって、ダイゴのこと気にしてるアル」
「はあ?」
「バレてないとでも思ったアルか?銀ちゃん、いつも座るときはダイゴのとなりを取るネ」
銀さんがやっとジャンプを下ろした。神楽ちゃんは、みんなで食事を取るときの席順のことを言っているのだろう。確かに、僕にも思い当たる節があった。銀さんは当然のような顔でナマエさんの横に座る。
「それは空いてんのがそこしかねーから……」
「フゥン?」
「何この子、超ニヤニヤしてんだけど。ムカつくんですけど」
「銀さん、意識してないんですか?」
「意識ってなに?意識するほどのこと?別に俺はどこに座ってもいいですけど?」
「じゃあ今度はダイゴのとなりは私が座るネ」
「おーそうしろそうしろ」
背凭れに深く背を預けて銀さんは鼻を鳴らした。いいのかなあ、と思いつつ、野暮なことは言わない。
第一、おかしいのだ。銀さんが特定の女性を頻繁に家に上げるなんて。まだ明るいうちから送っていくなんて。お互いに、その目で姿を追っては、視線がぶつかりそうになると何てことない顔で目を逸らす。
二人にかつて何があったのか根掘り葉掘り訊き出す気はないが、やはり勘繰ってしまう。別れた恋人ではないと言っていたけれど、それに近しい微妙な空気を僕も神楽ちゃんも感じ取っていた。実際、二人は恋人同士などではなかったのだろう。それでも、僕らは男女間に於ける問題なんて色恋沙汰でしか想像ができない。もっと違う、別の何かがあるんだろうか。
スパン、と音を立てて押し入れの襖が開いた。中から現れたのは元御庭番衆であり銀さんのストーカー、さっちゃんさんだった。
「じゃあ銀さんのとなりは空くわけね?銀さんのとなりは私の特等席ってことでファイナルアンサー?」
「ストーカーは帰れでファイナルアンサー」
日常と化したストーカーの登場に銀さんは目もくれない。しかし、さっちゃんさんは邪険にされても意に介さず、寧ろ喜ぶ性癖なので頬を染めている。
「そうやって私の愛を確かめているのね。私がいない間にどこの馬の骨とも知れない女を連れ込んでるのは知ってたわ」
「その言い方やめてくんない?」
「私という女がいながら、家に別の女を連れ込んで真っ昼間からあんなことやこんなことしてるんでしょう。いいわ、興奮するじゃない……」
「おーい誰か大きめの金槌持ってきて。このバカの頭ぶん殴って」
「でも銀さん、あんなふわふわしたいかにも男ウケしそうな女のどこがいいの?」
「オイさっちゃん!ダイゴのこと悪く言うなヨ!」
テレビを眺めていた神楽ちゃんが振り返る。それには僕も同調した。
「そうですよ、ナマエさんはそんな人じゃありません」
「ダイゴは料理上手でごはん作ってくれるし、酢昆布奢ってくれるネ!」
「神楽ちゃん食べ物以外にも何か言ったげて!」
火に油だっただろうか。さっちゃんさんは嘲り、腕を組んだ。
「もので釣るなんて浅ましいわ!ああいう貞淑気取ってる女に限って腹黒くて我が強いのよ!」
音もなく銀さんが立ち上がった。そしてつかつかとさっちゃんさんの前に突き進む。突然目の前に迫った銀さんに、意外に押しに弱いさっちゃんさんは戸惑っている。普段遠慮もなしに付き纏っているくせに、いざ相手から歩み寄られるとどうしていいのかわからないようだ。
「え?え?」と狼狽しているさっちゃんさんの前で銀さんは立ち止まり、人差し指を中指を突き立てて、彼女の眼鏡のレンズを突き抜ける目潰しをした。断末魔が響く。そして、銀さんは何も言わずに居間を出ていってしまった。
僕と神楽ちゃんはぽかんとしていた。銀さんが暴走するさっちゃんさんを力ずくで止めるのはいつものことだ。しかし、去っていく背中や足取りには、どこか冷たい苛立ちが滲んでいる。
銀さんを追っていくと、ちょうど玄関でブーツを履いていた。雨はまだ降り止まない。
「銀さん、さっちゃんさんは悪気があったわけじゃ……」
「わかってるよ」
落ち着いた声色に胸を撫で下ろす。しかし、続いた声は切実だった。
「知ったような口利かれんのが気に入らねえだけだ」
傘を一本抜き取り、銀さんは出ていってしまった。どこ行くんですか、と訊ねると、パチンコ、と単語が返ってきた。
心配そうな顔でこちらを窺っていた神楽ちゃんを振り返る。僕は苦笑いをした。
「パチンコだって」
「……怒ってたアル」
「うん」
「ダイゴ、早く来るといいアルな」
部屋の中では、さっちゃんさんが虫の息で蹲っていた。とりあえず、銀さんの前でナマエさんのことを悪く言うのはやめてもらわなければいけない。でも、きっとさっちゃんさんだって、ナマエさんと対面してしまえばそんな毒気も抜かれるに違いない。あの人は敵意も丸く削いでしまうような、そんな人のような気がするのだ。
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