「土方さーん、入りやすぜ」
「総悟か」
襖が開くと、早々に資料を手渡された。
「古戸は確かに攘夷戦争に出てやした」
資料へざっと目を通すが、古戸に大きな活躍はなかったようだ。攘夷戦争では伝説と謳われている化け物級の英雄が何人かいる。それに比べれば、いくら腕が立っても名が残らないのは仕方のないことだ。
総悟は旅籠屋に近付いてはいない。しかし、ナマエからの書簡をたまたま受け取ったのが総悟だったために、わざわざ調査資料を探してきたのだ。普段もそのくらい熱心に仕事をしてくれれば文句はないのだが。
書簡によると、古戸は旅籠屋の主人がどこかで拾ってきた浪人で、今は料理人として旅籠屋で寝泊りしながら働いている。寡黙で仕事一筋といった男で、ナマエとはほとんど話すことがないらしい。下手に距離を詰めようとすると怪しまれる。普段のナマエは距離感を誤るほど人に近付くことはないので心配いらないが、今は使命感から下手なことをするかもしれない。一度忠告しておいたほうがいいだろう。
夕日の差し込む部屋で紫煙がゆらゆらと揺れる。机に置かれた茶は既に冷め切っている。隊士の運んできた茶は渋くて飲む気にはなれなかった。舌がナマエの淹れる茶の味を覚えてしまっている。
総悟はあぐらをかき、刀を脇に置いた。
「館内に怪しい場所もなく、その古戸って男にも今のところ怪しい動きはないようでさァ」
「しかし、干物屋に出入りしていた男は確かに三ツ屋に入っていったんだろう。その男は」
「古戸とは別人の橋立という男。確かに橋立も攘夷戦争にいた男だが古戸よりも格下……繋がりはあるんでしょうが、こっちも大した活動はしていないようで。ナマエさんも橋立の姿は見ていないようでさァ」
やはり外れか。古戸は刀を手放し攘夷から足を遠ざけ、橋立は攘夷を嘯くだけのチンピラか。ただ、薬を買っていたことが気になる。橋立が薬を買っていたとして、なぜ旅籠屋にわざわざ持っていく必要があるのか。古戸に渡しているのか。古戸を通して別の何かに?
灰皿へ煙草を押し付ける。総悟はどこから出したのか、紙パックのグレープジュースを飲んでいた。
「橋立についてなんですがねィ。奴は少人数だがある攘夷浪士のグループにいたようですぜ」
「何?」
「ただ、他の仲間は全員死んでやす」
「……河川敷の事件か?」
総悟がとストローを鳴らす。
ひと月ほど前になる。とある河川敷で、攘夷浪士と見られる遺体が複数見つかった。いずれも刀で一刺しで仕留められている。しかし、一体だけ殴打痕のある遺体があった。おそらく犯人は一人を殴り、その男から奪った刀で他の男を全員殺した。戦闘慣れした手練れの犯行だ。しかし、遺体の放置されていた河川敷には人通りがなく、目撃者はいなかった。犯人が使ったと思われる刀は川に放られており、指紋も残されていなかったため、未だに手がかりも犯人も見つかっていない。小規模な攘夷浪士グループだったため、当時はメンバーの顔も名前もわかっていなかった。しかし、橋立がグループの一員だったなら、橋立が犯人の可能性が濃くなる。
「しかし、俺も写真でしか橋立の顔は見てやせんが、そんな腕の立つ男には見えなかったですぜ」
「ツラで剣振るわけじゃねーだろ」
「面構えの話でさァ」
ズゴゴ、と音を鳴らしながら総悟がジュースを飲み干す。面構えはいまいちでも、剣の腕の立つ奴はいる。死んだ魚の目をしてるくせに、やたら強い奴もいる。
「土方さん、ナマエさんとは連絡とってるんで?」
「潜入中にそうそう連絡は取れねーだろ」
「前に電話してた」
潰した紙パックを総悟はゴミ箱へ投げ入れた。
「潜入とは無闇に連絡取らない。基本中の基本じゃねーですかィ。気色わりーんだよ死ね土方」
「おまえが死ね」
「てめーが死ね」
橋立が旅籠屋へ出入りする理由は定かではないが、用心するに越したことはない。もしも橋立が河川敷の攘夷浪士全員を討ち取った男なのだとしたら、何らかの仲間割れがあったことは明白だ。そこへ元攘夷浪士の古戸がどう関わってくるのか。
携帯電話を開く。ナマエはまだ仕事中だろう。注意喚起だけはしておくためにメールを打つ。横から覗き込んできた総悟が「キメェ」と呟く。顔面を叩こうとしたが、呆気なく避けられてしまった。
蚊取り線香の煙も消えた頃に、布団から起き上がる。隣で寝ているチセの背中が規則正しく上下している。音を立てないように部屋を出て、そっと襖を閉めた。
土方さんからのメールには、古戸さんが確かに攘夷志士だったこと、そして薬を旅籠屋へ運んでいたのは橋立という攘夷志士ということ。二人に何らかの繋がりがあると見られることなどが書き連ねられていた。橋立は危険なので、もしも姿を見たらすぐに連絡するようにと指示があった。そして、古戸さんに怪しい動きがあった場合も同様だ。橋立の顔は、潜入前に写真で見ている。やや童顔だが、恰幅の良い男だった。
廊下を摺り足で歩き、厨房を覗く。照明が落としてあることを確認し、古戸さんの部屋へ向かう。古戸さんの部屋は客室の並びの最も奥まったところにある。今日は泊まり客は少なく、廊下は静まり返っていた。
古戸さんの部屋の前で足を止める。耳を澄ませてみるけれど、物音一つ聞こえてこない。うるさい心臓を押さえながら、恐る恐る襖を数センチ開ける。しかし、部屋には人影がない。月明かりに照らされた室内には布団や箪笥、仕事用の前かけなどが雑に仕舞われた籠、机があるだけで、とても殺風景だった。
厨房にもいない、部屋にもいない。お風呂も既に火を落としてある。その場に居続けることもできないので、私は部屋に戻ることにした。役に立ちたいと言ってここまで来ているのに、全く役に立てていない。山崎さんなら、もっと上手く立ち回れるのだろう。溜め息をつくのも憚られるほどの静寂が広がっていた。
足元を見ながら歩いていると、視界の隅を何かが走った。目を凝らしてみると、ネズミがいた。丸い背中がちょろちょろと動いている。驚きはしたが、ゴキブリなどではなくて良かった。胸を撫で下ろしていると、不意にドン、と壁を叩く音がした。ネズミが一目散に駆けていく。音のした部屋は物置だった。しかし、室内で聞こえた音にしては遠い。
引き戸に手をかけると、鍵はかかっておらず、あっさりと開いた。壁の両際には段ボールや電気ストーブが置かれている。足を踏み入れると、人の声が窓の外から漏れてきた。しかし、何を言っているのかはっきりと聞き取れない。窓にそっと近付くと、壁に向かって話す男の顔が見えた。古戸さんだった。
古戸さんは、壁に押さえつけた誰かと話していた。しかし私が近付くと同時に、古戸さんの前にいた人影は去っていってしまった。月明かりに照らされた横顔は、写真で見た橋立だった。
橋立は足早に去っていき、私は慌てて携帯電話を取り出す。しかし、手が滑り、携帯を落としてしまった。その音に反応した古戸さんが、私へ視線を突き刺す。その眼光に携帯電話を拾おうとした手がびくりと跳ねる。いつも見ている、伏せた暗い瞳ではなかった。
古戸さんが走ってその場を離れる。私は急いで携帯を拾い上げ、物置を飛び出す。が、あっという間に古戸さんは館内に入ってきて、私の腕を掴み物置へ引きずり戻す。乱雑に床に倒され、両腕を掴まれ拘束される。馬乗りになった古戸さんが険しい表情で私を問い詰める。締め付けられる腕が痛い。
「見たのか」
顔が歪み、唾を飲み込む。
「いつから見ていた?聞いていた?」
「っなにも」
「答えろ」
焦点の合わない眼球が揺れている。古戸さんは荒い呼吸を繰り返している。
答えないのではない。心臓が、声が震えて答えられないのだ。痺れを切らした古戸さんは私の手首を片手でまとめて掴み、自身の懐から匕首を取り出した。鞘を振り飛ばし、刃を私の首に充てがう。冷たい感触に喉が空気を漏らす。しかし、震えているのは私だけではなかった。匕首を握る古戸さんの手も小刻みに震えている。
「……古戸さん……」
古戸さんは、ぎゅっと眉間に皺を寄せると、刃を私の首から離した。のろのろと退き、力なくその場にあぐらを描いた。項垂れるように丸まった体には、先程までの覇気はない。
体を起こし、そっとその背中に触れる。薄い着物はじっとりと汗ばんでいた。動悸はまだ治らないが、古戸さんのほうが辛そうに見えた。
「大丈夫ですか……?」
「……今の今まで、自分を殺そうとしていた相手にかける言葉じゃないな」
「……」
「何も言わないでくれ。ただ、見たことも聞いたことも、チセにも島蔵さんにも言わないでくれ」
「あの……」
「すまない」
古戸さんは立ち上がり、匕首を鞘に納めて物置を出て行ってしまった。
私はしばらくその場に座り込んだまま動けなかった。古戸さんは、私を殺そうとしていた。あの刃があとほんの少し動いていたら、私は死んでいた。
自分の首をそっと撫でる。舐めていたかもしれない。この仕事の危うさを全く理解していなかった。
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