頭の片隅には、これは仕事であると意識はあった。けれど本心から、私は古戸さんのことを知りたいと思っていた。かつて攘夷志士であった人が、自分を救ってくれた人のため、恩義に報いるために料理人になったというのに今でも攘夷志士と拘っている。懐に隠し持っていた匕首は何のためのものだったのか。
 古戸さんは、あのとき私が何らかの情報を知ってしまったと思っている。そして、それを島蔵さんやチセには言わないでくれと言った。島蔵さんたちは古戸さんが今でも攘夷志士と繋がりがあることを知らないのだ。

「今日の味噌汁、しょっぱくなかったか?」

 庭の掃き掃除をしているチセが訊ねる。私は窓拭きをしていた手を止め、賄いで出た味噌汁の味を思い起こす。賄いはお客さんに提供した料理の残り物をいただいているのだけれど、すべて古戸さんの作ったものだ。

「そう言われてみれば、そうかな?」
「曖昧だなぁ」

 呆れたようにチセは肩を竦めた。

「でもまだ暑いし、塩分補給と思えば丁度良いんじゃない?」
「そういう問題じゃないんだよ」

 長い夏は確かに終わりに近付いていた。しかし、蝉は相変わらずけたたましく鳴いているし、日中の日差しは眩しい。歩いて江戸へ向かう人達にとっては、多少の塩分は必要だろう。屯所では薄味のものよりも濃い味付けが好まれるので、私自身の舌も彼らに近付いているのだろう。昔はおじいちゃんの体調のために薄めの味付けを心がけていたのに。いつまで経っても治らない習慣もあれば、風化していくものある。私は、どちらに偏っているのだろう。
 チセは掃き掃除を再開する。私にはわからないけれど、長年古戸さんの料理を食べているチセには違いがわかるのだろう。以前も煮物の味が違うと言っていた。
 
「古戸さん、なにかあったのかな?」

 窓越しにチセの顔を窺う。チセは箒を動かしていた手を止めた。

「ねえ、ギメイはさ」
「うん?」
「人が間違ったことをしているって知ったら、止めるべきだと思う?」

 茶髪に透ける眉はきつく寄せられ、まっすぐな瞳が私を見つめている。胸を突くような眼差しだった。
 私は間違いを起こした経験のある人間だった。間違いを犯さない人はいない。人は誰しも間違い、正解を探し続けながら生きていく。そこに答えはなくても、きっと探し続けてしまう。けれど、その道すがら、間違ったとしても手を差し伸べてくれる人がいることはとても幸福なことだ。
 銀時のぼんやりとした目や、好き勝手に跳ねた銀髪、広い背中を思い出す。しばらく会っていないだけなのに、顔を思い出すと会いたくなってしまう。今頃、何をしているのだろう。
 
「……わからない。でも、その人は、止めてもらってよかったと思うんじゃないかな」

 チセは数拍置いて「うん」と頷いた。チセの指す間違ったことをしている人とは、古戸さんのことだろう。チセは古戸さんが攘夷志士と繋がっていることを知っているのだろうか。





 橋立が現れたことは土方さんに伝えていない。大きな動きがあったわけではないし、古戸さんの、私へ刃を突き立てたときの苦しげな様子がどうにも気になる。あれは私を殺すことを躊躇い、迷っているように見えた。橋立と会っていることが、それほどまでに他人に知られたくないことだった。そして、他人に知られるよりも、島蔵さんたちに知られることを恐れている。恩人を裏切るような行為だと承知しているのだ。承知していても、止められない何かがある。

「ギメイさん」

 一瞬反応が遅れた。ハッとして振り返ると、島蔵さんが手招きをしていた。首を傾げながら歩み寄ると、受付のバックヤードへ招かれた。

「これ、貰い物なんだけれどね。お兄さんのところに行くときに手土産にどうかな」

 島蔵さんが箱の蓋を開けると、中には彩りの鮮やかなゼリーが並んでいた。目にも涼やかで、とてもきれいだ。しかし、十個以上は入っている。

「こんなに頂けません」
「私たちじゃ食べきれないし、もらってくれると助かるよ」

 緩やかに下がった目尻にまた罪悪感が蘇る。厨房に置かせてもらうといいよ、と言われ、意固地になって断るのもおかしいので、お礼を言って箱を受け取る。人に信じられることを辛いと思うのは初めてだ。

「チセや古戸さんとは仲良くやれているかい?」
「はい。良くしてもらってます」
「チセはぶっきらぼうなところがあるからねぇ」
「でもいい子じゃないですか。頼りになるし」
「今でこそあんなだけどねぇ。昔は気が弱くて泣き虫で、よく友達にいじめられて帰ってきてたんだよ」

 私は目を丸くする。今の竹を割ったような性格のチセからは想像ができない。意地悪なんてされようものなら、逆に相手を打ちのめしてしまいそうなのに。

「昔は夫婦二人でこの三ツ屋を回していてね、忙しさにかまけてチセの相手なんてろくにしてあげられなかった。そんなときに、フーさんが来てね」

 島蔵さんは過去を懐かしむように目を細める。

「最初はフーさんもチセも互いに人見知りというか、近付こうとしなかったんだけれど、あるときチセがわんわん泣いて寺子屋から帰ってきて。しかし私も妻も、仕込みに忙しくってね。でも、あんまりにも泣くもんだからフーさんがチセを宥めていたのさ。でも子どものあやし方なんてフーさん知らないもんだから、チセをおぶって河原まで散歩しに行ってねぇ。日が暮れるまで帰ってこなかったなあ。やっと帰ってきたと思ったら、チセはすっかり泣き止んでいて、それどころかフーさんと手を繋いできゃっきゃ言いながら笑ってて。あのときは驚いたなぁ。その日の朝まで二人とも全く会話もしていなかったのに。それからチセはフーさんフーさんってすっかり懐いてね。妻が亡くなったときも、フーさんの隣でずうっと泣いてたよ」

 妻――。話題に上がることがなかったのであまり気にしていなかったが、昔は夫婦でこの場所を護っていたのだ。確か事前調査だと、島蔵さんの奥さんは病で亡くなった。

「……奥さんがそれまでは料理を?」
「ああ。妻が亡くなる少し前かな。フーさんが自分が料理人になると言い出した。包丁なんか持ったことないくせに」

 島蔵さんはくつくつと笑う。その光景が鮮明に思い出せるのだろう。今の鮮やかな包丁捌きからは想像ができないが、おっかなびっくり包丁を握る姿が島蔵さんの頭には未だに残っているのだ。

「素敵ですね」

 微笑むと、島蔵さんも表情を弛緩させたまま頷く。古戸さんだけではない。この家族の在り方が、とても優しい。温かな時間の流れがそこにあったことを感じられる。しかし、今ここに流れている時間のことを思うと、素直に安堵できない。不純物の一部である私が慮ることではないのかもしれないけれど。

「ダンナぁ!」

 バタバタと足音を立て、男が受付へ駆けてくる。島蔵さんが暖簾を潜り顔を出すと、男は「厨房でなんかすごい声がするんだ」と息を切らして告げる。男は昨晩から宿泊している旅人だった。私は匕首を抜いたときの古戸さんを脳裏に浮かべ、背筋に冷や汗を垂らす。島蔵さんも先ほどまでの穏やかな表情を消し、眉根を寄せる。
 島蔵さんと厨房へ走る。厨房の床には、割れた皿が散乱していた。しかし人影はなかった。唖然とする島蔵さん。私も呆気にとられながらも厨房へ足を踏み入れる。

「入るな」

 声の先を見ると、床に力なく座り込む古戸さんの姿があった。ゆらりと持ち上げたその顔には、ひどい隈がある。島蔵さんも続いて厨房へ入る。火にかけたままの大鍋が湯を沸かしていた。蓋の隙間から漏れる蒸気が換気扇に吸い込まれていく。
 島蔵さんは割れた皿を避け、古戸さんの脇に膝を着いた。古戸さんの目が揺れていた。あのときと同じように。

「フーさん、顔色が悪い。今日はもう休みなさい」
「でも、まだ……」
「何も心配しなくていい」

 大鍋の蓋が蒸気でカタカタと震えている。島蔵さんはゆっくりと古戸さんの肩を叩く。古戸さんは項垂れ、頭を抱えた。島蔵さんが私を振り返る。

「ギメイさん、フーさんを部屋まで連れて行ってくれるかい。私はチセを探してくるよ」

 島蔵さんは古戸さんの腕を引き上げる。ふらつく足で立ち上がった古戸さんへ肩を貸そうとすると、必要ないと言わんばかりに手を振り払われた。島蔵さんと目配せし、よろよろと厨房を出ていく古戸さんの後を追った。体調が悪いことは誰の目に見ても明白だった。青褪めた顔に、重い足取り。呼吸は浅く、目も虚ろ。雪崩れ込むように部屋に入った古戸さんは、勢いそのままに布団に倒れ込んだ。虚ろな目が私を捉え、眉根を寄せる。

「出て行ってくれ」
「……具合の悪い人を置いていけません」

 室内は空気が淀んでいる。ずっと換気をしていないのだろうか、古い家屋のように埃っぽい。部屋の奥にある窓を開けると、突風が吹き込んできた。照明の紐が激しく揺れる。半分ほど窓を閉め、振り返る。古戸さんは微動だにしていなかった。
 うつ伏せになっている古戸さんの体を仰向けにし、汗ばんだ額に掌を当てる。熱は高くない。
 汗を拭うため、目に入った仕事用の前掛けなどが入っている籠の中からタオルを引っ張り出す。すると、タオルと一緒にジップロックに入った白い粉末が落ちてきた。小麦粉や病院で処方される粉薬の類ではないことはすぐにわかった。
 恐る恐るそれを手に取るが、古戸さんの手によってすぐに奪われる。苦しげに呼吸を繰り返す古戸さんだが、上半身を起こして私を睨んでいた。しかしすぐに脱力し、布団に倒れ込んでしまった。布団から細かい埃が舞い上がり、陽の光に照らされている。

「笑ってくれ……もう、こんなものに頼らなければ眠れもしない」

 掠れた声。私は言葉を失う。

「アンタ、ただの田舎の娘じゃないんだろう」
「……」
「これでも、元は侍だったのさ。なんとなく匂う。どこの間者かは知らんが、俺はもう誰も手にかけたくはない」

 掲げた古戸さんの手から粉が零れ落ちてくる。まるで砂時計のようだった。
 粉は布団の上に散らばり、腕を振り下ろされると埃と一緒に舞い上がった。
 古戸さんは震える手を布団に着き、畳の上へ移動し正座する。そして額を畳に擦り付ける。

「頼む。もう少し、ここにいさせてくれ」
「古戸さん」
「俺はまだ……まだ……」
「やめてください、古戸さん」

 肩を掴んで無理やり頭を起こす。

「……薬のこと、チセや島蔵さんには言いません」
「チセは、知っていた」
「え?」
「料理の味がおかしいのは、薬のせいで俺の舌がおかしくなっているからだ。やめろと言われて喧嘩になった。でも俺には、もうそれがないと耐えられない」
「耐えられないって、何に……」
「……なんだろうな」

 生気のない瞳に映る私の顔は、なんとも情けない。窓から吹き込む風が、あらゆるものを部屋の外へ追い出していった。





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