布団の中で携帯電話を開いては閉じてを繰り返す。画面を開くたびに煌々とした明かりが目を刺激する。古戸さんのことを土方さんへ言うべきか、言わざるべきか考えていた。報告したほうがいいことはわかっている。でも、それをしてしまったら、三ツ屋はどうなってしまうのだろう。
潜入は情に流されてはいけない。なのに、私は感情に揺さぶられ、流されている。目的を見失っている。私は三ツ屋へ潜入し、潜伏している攘夷志士を探し出すことが仕事だったはずだ。違法薬物を買っていた橋立はあれから現れていない。しかし、薬は古戸さんの手に渡っていた。あれはただの睡眠薬などではない。発熱もないのに、異常な息切れ、動悸の症状は、薬物依存からくるものだろう。
布団から起き上がる。隣の布団はこんもりと盛り上がっている。島蔵さんに連れられて帰ってきたチセの表情は暗然たるものだった。部屋へ戻ると、チセは一切口を開かず、布団に潜り込んでしまった。私が声をかけても反応はなく、やがて夜が耽ると完全に眠りについてしまっていた。
チセを連れ帰ってきたときの、困ったように笑う島蔵さんの顔が悲痛で仕方がなかった。
三ツ屋を抜け出し、虫の鳴き声が響く暗闇を歩く。家屋も疎らな田舎道は生まれ育った場所を彷彿とさせる。涼やかな風が心地良い。
三ツ屋が遠くに見える、ケヤキの木の下まで歩いた。夜空へ向かって枝を広げる姿は雄大だが、夜に見ると不気味さも感じる。夜風に吹かれ、葉が擦れて音を立てていた。
時刻は十一時を回ったところだ。私が黙していても事態は好転しないし、一人で考えることに限界を感じていた。携帯電話に土方さんの電話番号を表示させる。起きているかはわからない。でも、このまま夜を明かすことはできなかった。
発信ボタンを押す。少し間を置いて呼び出し音が鳴る。しかし、右耳に鳴る着信音が、左耳からも聞こえてきた。音の出所へ目を向けると、暗闇から隊服姿の土方さんが現れた。ぽかんと口を開けたまま、電話を切る。
「土方さん?」
「見廻りのついでに立ち寄っただけだ。それより、なんでこんな夜中に出歩いてんだ」
ポケットに手を突っ込んだまま歩み寄ってくる土方さん。夜風が煙草の匂いを連れてくる。不機嫌そうな低い声が、危ないだろうが、と私を叱る。時々声は聞いていたものの、実際に顔を見ると一気に張り詰めた緊張の糸が緩む。自分で思っているよりも、慣れない生活に疲弊してしまっていたのかもしれない。
「聞いてんのか」
「……聞いてます」
江戸の市中をパトロールするのが見廻りの仕事だ。しかし夜中にこんな江戸の外れまで来ることがないことは私でもわかる。頬が緩んでしまう。
「なに笑ってんだ」
「すみません、なんだか久しぶりに土方さんの顔見たので、安心しました」
土方さんの表情が険しくなる。私は、これまで見たことや聞いたことを話した。主観を混えないように事実だけを伝えるように努めた。土方さんは煙草を吹かしながら、私の話を黙って聞いていた。人気のない夜道には、虫の声と、どこからともなく聞こえてくる獣の鳴き声だけが響く。その中で聞こえる私自身の声は、ちんけで弱々しく思えた。
「薬の運び人は橋立で、実際の使用者は古戸ということか」
土方さんの言葉に頷く。
「古戸さんは、薬を使わなければ耐えられないと言っていました。あと、もう誰も手をかけたくないとも……私に匕首を向けたときも迷いがありました」
「匕首?」
一層険しくなる目付きに、しまった、と後悔した。案の定、土方さんはどういうことだと私を問い詰める。逃げ果せることができないことを悟った私は、あくまでも傷一つついてないことを強調し、古戸さんに刃を向けられ経緯を説明した。
「てめーは……だから嫌だったんだよ」
土方さんは忌々しげに落ちた灰を靴底で踏み潰した。結局、私は据えられたお灸をふっ飛ばしてしまったようだ。
「でも怪我もしてないですし、古戸さんは私を殺す気なんてなかったんです」
「それはおまえを殺せば三ツ屋にいられなくなるからだろうが」
「やっぱりそう思いますか?」
「おまえの話をまとめりゃそうなるだろ……」
苛立たしげだった声が尻すぼみになる。土方さんの視線が逸れ、指に挟んだ煙草を咥える。土方さんは何かを考え込むように途端に口を閉ざしてしまった。私は首を傾げる。
ふと、顔を三ツ屋のほうへ向ける。真っ赤な塵が、夜空に舞い上がる様が見えた。私は目を疑った。息を飲み、土方さんを叩く。
「土方さん」
土方さんが怪訝な顔で振り返る。私が指差す先を見た土方さんの目が、見る見るうちに丸くなる。
三ツ屋が燃えていた。赤い炎が建物を浸食し、風に乗って火の粉を散らしている。僅かだけれど、人影も見える。隣近所に家はぽつりぽつりとあるだけだが、三ツ屋はその中でも一際大きい建物だ。異変に気付いた人間がいてもおかしくない。
私の足は勝手に走り出していた。土方さんも電話をかけながら走り始める。電話先は屯所のようだった。火事だ、人を呼べ、消防へ連絡しろ、と聞こえる。足がもつれそうになると、土方さんに腕を掴まれる。いつの間にか土方さんが前を走っていて、私は引っ張られていた。力強く真っ直ぐな走りが私をぐんぐん前へ連れて行く。
三ツ屋の前には人だかりができていた。消防車はまだ来ない。人混みを掻き分けていくと、屋根も壁も、無残に焼け爛れていく三ツ屋の姿が目の前に広がった。土方さんは声を張り上げて野次馬を追い払っている。その中には、島蔵さんも古戸さんもチセもいない。私は居ても立ってもいられなくなり、炎の中へ突っ込んでいった。土方さんの声が聞こえたけれど、聞こえない振りをした。
館内は至る所が形を崩し始めていた。火の手はそこかしこに回り、朦々と煙を上げている。身体中が熱気に包まれ、足を止めそうになる。奮い立たせるように私は自分の頬を思い切り張った。薄い寝巻きの袖を力任せに引き千切る。破れた布を口元に当て、毎日歩いた廊下を進む。
炎で目が眩む。じわじわと眼球の表面に涙の膜ができる。煙を吸い込まないよう、口元を強く押さえながら身を低くして歩いた。パチパチと耳元で火の粉が弾ける音がする。三ツ屋が燃えてしまう。みんなの大切な場所が無くなってしまう。焦燥で心が震える。
寝泊まりしている部屋の前に、壁に凭れたチセがいた。布団からは出たようだが、途中で力尽きてしまったようだ。
「チセ!チセ!」
目を閉じているチセの肩を思い切り揺さぶる。チセは呻きながら目をゆっくりと開けた。炎と煙のせいか、朦朧とした様子で私のことをぼんやりと見つめる。
「チセ、しっかりして。立てる?」
「なんで来たの?」
チセの脱力した手が腫れ上がっている。その手に触れると、チセがびくりと体を震わせた。私はチセの腕を自分の肩に回し、立ち上がろうとする。
「火傷してる、早く冷やさなきゃ」
「そんなん、どーでもいい!」
突き飛ばされ、床に転がる。反動でチセは尻餅をつく。定まらない視界を晴らすように目を擦る。
「チセ……?」
「もう戻れない」
「え?」
「フーさんは私達のために、二度としないって誓った人殺しをした」
突然の告白に頭が追いつかない。古戸さんが人を殺した。誰を?
「もう戻れない。あの頃には戻れない」
「待ってチセ。落ち着いて」
しゃくりあげて泣きだすチセの腕を掴む。廊下の先は炎に包まれ、もう進むことはできなさそうだった。来た道を引き返すしかない。島蔵さんや古戸さんの所在はわからないままだが、ここでチセを置いていくなんてできるわけもなかった。
「戻れないんなら、このままでいい」
腕を掴んだ手から力が抜ける。チセは涙声で、胸中を垂れ流すように言葉を落としていく。
「全部無くなれば、もうこんな思い、私もフーさんもしなくていい。全部無くしたい」
「それはできないよ」
パキパキと柱が音を鳴らす。美しい褐色だった柱は黒く染まろうとしていた。背中に迫る炎に圧迫される。体が既に燃えているのではないかと錯覚するほど熱い。
全部壊したい、無くしたい。それは、チセが今も大事なものをちゃんと持っているからこその望みだ。失う前に、自分から手放そうとしている。でも、手放したところで振り出しには戻れやしない。大切なものを失うことが怖いのも、終わることが嫌だと思うのも当たり前のことだ。でも、永遠などどこにもなくて、終わりはすぐ隣にある。だからこそ、私たちは今を積み重ねていくしかないのだ。
「全部無くしても変わらない。どうしたって消せないよ。だって苦しくても悲しくても、私たちは生きてる。生きていかなきゃいけない」
頬を濡らすチセを抱きしめる。炎の熱さと、チセの体温は似ても似つかない。人の体は優しい温かさを持っている。優しさも温かさも、私は随分前に教えてもらった。シワだらけの手や、刀傷の残る腕に。ぶっきらぼうで不器用だけれど、それはとても優しく温かかった。
チセが腕の中で嗚咽を漏らす。私は怒りや憎しみに駆られ人を傷付けた。しかしチセは、真正面から大切な人に向き合った。そして自身の非力さに打ちひしがれた。チセは私なんかよりずっと強い。
「なにがわかんの、アンタに……」
言葉に反して伸びた掌は私の背中へ回され、強くしがみつく。その手がまだ意志を持っていることに、私のほうが救われたような気がした。押し潰されそうなときに、誰かがそばにいてくれるだけで救われることもある。私がそうであったように。
「ナマエさん!」
顔を上げる。炎の中を掻い潜り、沖田さんが駆けてきた。その顔を見た途端に呼吸が乱れてしまい、煙を思い切り吸い込んでしまう。噎せ返る私をチセが心配そうに呼ぶ。
「ギメイ!」
腕で口元を覆い、心配いらないと首を振る。傍にしゃがみ込んだ沖田さんの腕を掴む。
「沖田さん、チセを」
「何言ってんですかィ、アンタだって」
「チセは火傷もしてるし煙も相当吸ってるはずです。早く出ないと」
「アンタも連れてく」
「私は自分で走れます」
語気が強くなる。沖田さんは一瞬顔を顰めたものの、「すぐに戻りまさァ」と言ってチセを背負い、来た道を引き返して行った。チセは私の名前を呼び続けていた。戻ったら、本当の名前を教えないといけない。
沖田さんとチセの姿が見えなくなってから、ようやく立ち上がる。熱さと煙で頭が朦朧とする。走れると言い張ったけれど、走れば酸素を全て奪われてしまいそうで、のろのろと壁伝いに歩くことしかできない。そのうちに、外からサイレンの音が聞こえてくる。島蔵さん達はどうしただろうか。
背後で何かが崩れていく音がして振り返る。燃えていた柱が立っていられなくなり、ゆっくりと倒れてきていた。朦朧とした頭では状況の理解に時間がかかり、私はただ倒れてくる柱を眺めていた。頭上に柱が落ちてくる、そう気が付いたとき、私を引っ張り下げ、目の前に黒い隊服が現れた。落ちてくるはずだった柱は両断され床に沈んだ。
こめかみに汗を垂らした土方さんが私を睨む。
「てめーはバカか!火の中突っ込んでくアホがどこにいるんだよ!」
「土方さ……」
「考えなしに突っ走りやがって!」
罵倒が鼓膜から刺さってくる。土方さんはまだまだ言いたいことがありそうだったが、全てを大きな舌打ちに込め、刀を鞘に納めた。そして私の膝裏に手を回し、軽々と掬い上げる。戸惑う私の言葉に土方さんは全く耳を貸してくれない。
「土方さん、私自分で」
「舌噛むから黙ってろ」
土方さんは炎を難なく避け、館内を突き進む。迷いのない足取りは、潜ってきた死線の数々を窺わせる。思い上がるな、と私を叱責した土方さんの言葉の意味を改めて痛感する。できることがあるならやりたいのだと、そう思うこと自体がやはり思い上がりだった。私はなんて無力で弱い。
外へ出ると、消防車が放水を始めたところだった。先ほどよりも野次馬は増えているが、真選組が規制線を張っている。地面に下ろされると、僅かに足元がぐらつくが、すぐに芯を立て直す。空気がやけに澄んでいるように感じられた。
「みんなは……」
チセや島蔵さん、古戸さんの姿が見えない。土方さんを見上げると、顎に伝う汗を拭いながら答える。
「全員無事だ。救急車で病院に運ばれた。それよりてめーは自分の心配を」
私は安堵の息をつく。それと同時に、足の力が抜けてへたり込む。乾いた土の上に着いた手は汗ばんでいた。
「よかった……」
四方八方から放水を浴び、炎は徐々にではあるが勢いが弱まっていた。土方さんは続けようとした言葉を押し留め、炎を見つめた。
「おまえがいなきゃ、あの娘はあそこで死んでた。おまえが助けたんだ」
よくやった、と土方さんが私の頭に手を置く。唇が震える。謝りたいことがたくさんある。
「土方さん、私……」
「だが無茶はするなっつー約束は破りやがったからな。あとで説教だ」
失笑が漏れる。やがて来た救急車に私は乗せられ、付き添いで乗り込んできた沖田さんにまで「アンタはバカだ」と言われる始末だった。確かに私はバカなんだろう。いつも飄々としている沖田さんに、見たことがないほど苦い顔をさせてしまったのだから。
三ツ屋の鎮火の報を聞いたのは、その翌朝だった。
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