昔馴染みから飲み会の誘いの電話があったのはつい昨日のことだった。商売で世界中飛び回っていた男が、気紛れに日本へ帰ってきたというので声がかけられたのだ。集合時間は十九時。しかし、俺は明日から始まる教育実習の準備のため残業をしており、集合時間を大幅に過ぎて居酒屋に着いた。酔っ払いがごった返す庶民的な居酒屋の中で、一際大きな声で騒ぐ男が手を挙げる。
「こっちじゃこっち〜!遅いぜよ!」
すっかり出来上がっている姿に眉を顰める。小上がりの隅の席で壁に凭れ豪快に笑い声を上げているのは坂本辰馬。その隣で赤い顔をしているくせに泰然として腕を組んでいるのは桂小太郎。向かいの席で片膝を立てて酒を呷っているのが高杉晋助だ。全員、腐れ縁の男だ。ここに女の一人でもいれば気分も華やぐのだが、生憎誰にも親しくしている女はいない。女好きの辰馬には特定の女はいないし、ヅラは堅物で人妻好きなので言わずもがなだ。高杉に関しては見た目はそこそこなのに中二病なので意外にモテない。
上着を畳の上に放り、元々緩いネクタイを外す。空いている場所が高杉の隣だったので、どかっと座るとあからさまに嫌な顔をされた。通りがかった店員にビールを頼み、冷めた白身魚の唐揚げを摘む。
「貴様が残業するなど珍しいではないか。明日は槍でも降るのではないか」
「俺だって残業くらいするわ。てめーらが思うより忙しいんだよ先生は。疲れた体引き摺ってここまで来てやったことを感謝してほしいくらいだわ」
「誰も来てくれなんて言ってねぇ」
「あーそうですね高杉くんに誘われたわけじゃないもんね!つかおまえまた縮んだ?ちっちゃくなってない?」
「おまんら相変わらず仲が悪いのぉ」
テーブルの上にはほとんど料理が残っておらず、昼飯から何も食べていなかった俺はビールを持ってきた店員に追加注文をする。今日はどうせ辰馬の奢りになるので遠慮もいらない。だし巻き卵、鮭のチーズフライ、枝豆、串カツなど。適当に目に止まったものを頼み、デザートも欠かさずチェックする。
「そうじゃ、聞いてくれ銀八。二次会で高杉の家に行こうという話をしとったんに、この男家には来るなと言うて聞かんのじゃ」
「はあ?なんで高杉の家なんだよ、バーとかでいいだろ」
「実は陸奥に散財するなち言われてカード没収されとるんじゃ」
辰馬がぺろりと舌を出す。大の大人、しかも大男がしても全く可愛くないし、寧ろ苛立つ。そういうことだからここは割り勘だぞ、とヅラが言う。なんでそういうことを今更言うんだ。しかも俺ほとんど食ってないのに、割り勘?俺も見知った出来る部下の顔を思い出して的外れな八つ当たりをする。
文句を言いたいことは山程あったが、それよりも気になるのは高杉のことだった。辰馬は一時的に帰国しているだけなのでホテル暮らしだし、ヅラも俺も安いアパート暮らし。しかし、高杉は詳しいことは知らない――聞きたくもない――が、高層マンションに住んでいる。元々ボンボンだし、身に付けているものも見るからに高価だし、違和感はない。が、人を入れたくないとなると何か理由があると勘繰りたくなる。まさか、女とか。
「おまん、女でもできたんじゃないがか?」
俺の頭に浮かんだことを能天気な口調で辰馬が発する。高杉は手酌をしている。
「猫だ」
「猫?」
俺と辰馬の声が重なる。いつの間にかヅラは目を開けたままいびきをかいていた。
「人見知りはしねえが、他人が家に入るのを嫌がるんでな」
いやそれ、猫じゃねえだろう絶対。怪訝な視線を向ける俺とは対照的に、生粋のバカな上に酔いが回っている辰馬は間に受けている。いつから猫なんか飼い始めたのかとか、写真はないのかと興味津々だ。特別動物好きというわけでもなかったと思うが、ほとんど会うことのなくなった昔馴染みの近況をただ聞きたいだけなのだろう。
「写真はねえな」
「なんじゃあ、見たかったんに」
「しかし、何年も前から居座ってるな」
高杉も珍しく饒舌だった。わかりにくいが酔っているようだ。同じ街に住んでいても滅多に会うことのない俺たちは、こうして号令がかからないと集まることがない。互いに遠慮などするような仲じゃないが、約束して会うのなんて気色悪い。
「野良だったちゆうことか?」
「そんなところだ」
それから高杉は、その猫のことを辰馬に訊かれても答えることはなかった。急に冷静さを取り戻したのかもしれない。俺は割り勘ということに気を取られて、いまいち箸が進まなくなっていた。
結局、二次会はせずに解散することになった。件の部下がダックスフンドのような黒塗りの車で辰馬を迎えに来て、爆睡しているヅラも連れ帰っていった。次に会う約束もしないのはいつものことで、はっきりとした別れの言葉がないのもいつものことだった。
街灯や店の明かりが街を煌々と照らしている。夏が過ぎ、秋が近付いている。昼間はまだ気温が高いが朝晩は冷えるようになってきた。冷たい風に身を小さくしながら残った高杉を一瞥する。高杉はガードレールに腰掛け、携帯端末をいじっていた。海外の大手企業の最新機種のスマートフォンだ。
酒の回りが完全でない俺は、なんとなく不完全燃焼のまま帰路に着くのも癪で、高杉に訊ねる。
「さっきの猫の話、あれ嘘だろ」
「ああ?」
高杉は画面から目を逸らさずに声だけで不快感を表す。
「猫なんか飼ったら毎日写真撮るのが普通だろ」
「どこの普通だ」
「まあおまえがどんな女と付き合ってようが関係ねーけどぉ」
端末の明かりを消し、高杉は「だったら首突っ込むな」と一蹴した。
「可愛い子いたら紹介してくんない?」
「帰る」
「できれば巨乳でエロい子がいいです」
「帰る」
高杉はタクシーを止め、俺を置き去りにして帰っていった。払う予定のなかった飲み代を払ったおかげで、俺の財布の中にはタクシーに乗るだけの金がない。仕方なく歩いて駅まで向かう。途中、コンビニに寄って煙草と缶ビール、さきいかを買う。家に着く頃にはとっくに日付を跨いでいるが、中途半端に飲んでしまったので体がもっとアルコールを欲していた。
コンビニを出ると、高杉の住んでいるマンションの前を通りがかる。見上げても最上階は見えない。今頃部屋で女とよろしくやっているのかと思うと嫉妬心が芽生える。こちとら何年も彼女なんかできていない。その兆しもない。
ビニール袋の擦れる音を鳴らしながら一人虚しく夜道を歩く。教育実習生に可愛い子でもいればいいのに。
「朝から酒くせーんだよ」
後頭部に手刀を喰らう。振り返ると理事長のババアが俺を睨んでいた。
昨晩は自宅で深酒をしてしまい、泥酔状態で眠ってしまった。シャワーで酒の匂いは流してきたつもりだが、体臭から漏れているのだろう。
「教育者らしさのカケラもないね」
「職員室で煙草吸うババアに言われたくないね」
再び手刀を喰らう。勢いでデスクに額をぶつけた。向かい側に座っている服部先生は堂々とジャンプを読んでいるというのに、なぜ俺だけが叱られなければいけないのか。世の中は理不尽が溢れている。
八時を過ぎると、職員朝礼が始まる。教頭の話を聞き流しながら欠伸を噛み殺す。いつもと変わらない話の流れに、今日はイレギュラーな話題が一つあった。教育実習生が来るのだ。教頭の声かけで職員室に入ってきたのは、真新しいスーツに身を包んだ五人の大学生達。左から男が三人、女が二人。普通、教育実習生は三年生のクラスには当てられないのだが、この高校は世間から少しずれているので関係なく三年生のクラスに入る。
一人ずつ簡単な挨拶をし、担当になるクラス、担任の紹介をされる。俺は二日酔いで痛む頭を押さえていた。服部先生が一番端の子が別嬪だな、俺は好みじゃねーけど、などとこそこそと話してくるが頭痛でそれどころではない。あとで薬を飲まなければ昼まで保たない気がする。そんな体調の心配をしているうちに朝礼は終わり、各々が自分の仕事へ戻っていく。デスクの上の出席簿を持ち、重い腰を上げると「先生」と聞きなれない声がすぐそばで聞こえた。この部屋にいるのは全員が先生で、皆必ず名前を付けて呼ぶ。自分のことを呼ばれているとは思わずそのまま職員室を出ようとしていると、今度はすぐ後ろから「先生」と声がした。振り返ると、ネイビーのパンツスーツの女がいた。
「あ、俺のこと?」
「はい。お世話になります」
「……あー」
俺のクラスにも実習生が来ることは聞いていたが、二日酔いに押されて名前を聞き逃していた。そんな俺の事情など露程も知らない実習生は深々と頭を下げて顔を上げる。清潔感のあるポニーテールに、艶のある肌。大きな目。服部先生が言っていた別嬪さんとはこの子のことか。男じゃなくてラッキーだとか頭の片隅で密かにガッツポーズをしつつ、胸ポケットに付けている名札を一瞥する。実習生は生徒に名前を覚えてもらうために期間中は名札を付けることが義務付けられている。ゴシック体の文字で書かれている名前は、ミョウジナマエ。
――ミョウジ?
名札から実習生の顔へ視線を移す。実習生が既視感のある笑みを見せる。俺の雑多な記憶の引き出しの中から、一つの光景が蘇る。揺れるスカートに髪、晴れ渡った空。白いセーラー服を身に纏い、やけに大人びた笑顔をする女。思い出し始めると、あの頃のことが次々につい最近のことのように感じる。女子高生が大学生になるくらいには時が経っているというのに。
「ミョウジ?」
確かめるように呟く。ミョウジはやはり笑顔のままで、俺の白衣の胸ポケットを軽く叩いた。
「また会えましたね、先生」
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