柔らかいベッドの上でシーツを被りスマホを眺めていると、シャワールームからバスローブ姿の男が出てくる。頭髪をきれいに黒く染めているが、肌に浮かぶシミや口元の皺は年齢を感じさせる。男が腰掛けると、ベッドが沈む。

「なに見てるの?」

 シーツの上から体を撫でられる。背中から腰、尻にかけて動く掌。スマホの画面を落とし、上体を起こす。緩んでいる口元に唇を寄せると、煙草の味がした。メンソール系。嫌いな味だった。
 キスを繰り返し、服を脱ぎ、お互いの体や性器に触れ、動物のように貪る。この行為に意味などなくて、ただ、みんなほんの少しの寂しさや、満たされない気持ちを埋めるために誰かの体温に触れたがる。多分、人は生きているだけで寂しくなる生き物なんだと思う。神様は随分と人間を脆く作ったものだ。
 今日の相手はどこかの会社の役員で、何度か会っている人だったので話が早かった。ホテルの場所と時間を決めておけば、あとは気が済むまで、相手の門限が迫るまで行為に勤む。デリヘルだと時間は限られているし、何かヘマをすればすぐにその客は弾き出されるけれど、私に関してはそんなルールはない。なので、日々の鬱屈を吐き出すように自分本意なセックスの仕方をする男もいる。しかし、この人は比較的優しくてノーマルだった。ただ、その分少しだけ退屈だった。

「こんなことやめて、うちに来ないか?」

 性器をねぶっていると、男が吐息の合間にこぼす。口を離し、男を見上げる。

「こんなことって?」
「ご両親は頼れないんだろう?」

 髪を撫でられる。私は否定も肯定もせず、微笑んで再び勃起した性器を口に含んだ。湿っぽい息を吐き、間も無くして男は射精した。嫌いな味だった。

 ホテルの外は冷たい風が吹いていた。夜空には月も星もない。自動販売機で炭酸飲料を買ってプルタブを押し上げる。甘く喉で弾けるそれを勢いよく飲み、空き缶を近場のごみ箱に入れた。
 時々、私を買っておきながらこんなことはやめろと言う人がいる。勝手に私の人生を空想して、苦労人だとか不幸な育ちの子なのだと同情する。家族はいないのか、両親とはうまくいっていないのか。ええ、そうなんです、と答えれば、満足するのだろうか。
 スーパーで売っている鶏肉や豚肉と一緒だ。消費されて、代価を受け取る。私の財布に収まったその万札は、明日の焼肉代になったり、お寿司代になったりする。私は宝飾品には大して興味がないので、大体食事や洋服代、旅行にそのお金を使っている。他人から見れば汚い行いなのかもしれないが、それで十分、私には釣り合いが取れている。食べたいものを食べることができて、好きなものを買える。哀れみは腹の足しにならないし、善意は大概自己満足。昔のドラマで同情するなら金をくれ、という有名な台詞があるが、まさにその通りだと思う。とは言え、私には同情される謂れもない。私は、私で選んでここにいるというのに、どうして誰かに非難され、邪魔されなきゃいけないのか。心底疑問ではあるが、世間や他人を思い通りにしたいなどと考えたことはない。なのに世間の人々は私に手を差し伸べることがままある。理解し、許容したい。僕だけはきみを知っている、守ってあげる。とんだ自惚れ野郎ばかり。自分のことさえ理解し許容できない人間が、他人と繋がるなど土台無理なのだ。

 ぷらぷらと夜道を歩く。私は外出するときは専ら手ぶらだ。スマホと三つ折りの財布だけをポケットに入れて、手を揺らしながら歩く。ふとジャケットのポケットのスマホが鳴った。着信は母からだった。

「どうしたの、お母さん」
「あ、ナマエ?今、家?」
「ううん、飲み会の帰り」
「あんまり遊び歩いてると卒業できないよ」
「この前言ったじゃん、教育実習中だって。先生たちと付き合いがあってさぁ」

 母は二十三歳のときに父と結婚して、一年後に私を授かった。役所で勤める母と、食品メーカーの営業として日々汗水垂らして働く父。二人は一人娘の私を可愛がり、習い事も私が興味があると知ると何でもさせてくれた。しかし、金銭感覚は二人ともシビアで厳しく、誕生日やクリスマスなどの記念日でなければ、あまり欲しいものは買ってもらえなかった。それでも生活において不自由を感じたことはなく、私は満足していた。実家を離れ、一人暮らしを始めても両親との仲は良好だ。父は口下手なので連絡はしてこないけれど、母からは時々電話やラインが来る。こんな様子を知ったら、私を知っている人たちは幻滅するのだろうか。
 母からの電話の内容は、近々祖父の古希のお祝いをするので、私にも顔を出すようにというものだった。あとは、父に対する些細な愚痴だった。両親は仲が良いほうだが、二人きりで家で過ごすことが多くなり、息が詰まることもあるのだそうだ。たまには帰ってきてよ、と言う母に、私は生返事をした。
 電話を終え、ラブホテル街を抜けて路地裏へ入る。やくざ者の息のかかった風俗店や飲み屋が並ぶ狭い道を進んでいくと、肉のぶつかる音を耳が拾う。建物の隙間の路地に、見慣れた背中を見つけて声をかけた。

「かーつおさん」

 振り向いたその顔面には、額から頬にかけて傷跡がある。そして、特徴的な七三分け。辺り一帯を取り仕切る泥水次郎長の部下、溝鼠組の黒駒勝男だ。彼の周りにいたガタイのいい男達もこちらを振り返る。月明かりもなく、建物の隙間は街灯の明かりも行き届かず暗闇に近い。鋭い眼光だけが獣の目のように光っていた。
 黒駒勝男は、咥えていた煙草を地面に落として靴底で踏み潰した。「おう、おまえさんか」と平坦な口調で言う。歓迎されていないことはわかったが、私は路地を進む。

「ご無沙汰です、なにされてるんですか?」
「おん?ワシらのシマで好き勝手してた奴と遊んどるんじゃ」

 最奥にはアスファルトの上に蹲っている若い男が一人いた。口元からは唾液混じりの血を垂れ流し、膝の周りには血の付いた歯が一つ二つ落ちていた。鼻から脳へ血の匂いが巡る。

「また薬ですか?ナメられたもんですね」
「オイこのアマ、兄貴に何を」

 スキンヘッドの細身の男が唸るような声を出す。しかし、それを制するように黒駒勝男が手を挙げると、スキンヘッドは険しい表情のまま一歩引き下がる。頭の悪い忠犬のような姿に思わず笑いが漏れた。スキンヘッドは眉間の皺を深くした。それを見兼ねた黒駒勝男が腕を組んで話し出す。

「この女は高杉の囲ってる女じゃ。知っとるじゃろう、数年前から次郎長親分が懇意にしとる男よ」
「盃を交わしたわけでないんでしょう。なんであんな鼻持ちならない野郎と」
「やくざもんは暴力だけでは食ってけない。まあ、なんちゅうか、ビジネスパートナーみたいなもんやさかい、高杉を敵に回すようなことはできん。それに、この女はその辺のホステスと違う。高杉がどうこう関係なく頭のおかしい女じゃ。下手こいたら、タマ取られるで」
「タマって」
 
 スキンヘッドは冷笑した。こんな女に自分が後れを取るわけがないと言いたげだった。

「去年の冬だったか」

 黒駒勝男が口に煙草を咥えると、すかさず隣の大男がジッポライターで火を付ける。煙を吸い込み、鼻から息を吐きながら黒駒勝男は続ける。

「店の同僚の女をヤク漬けにしたバカな女がおってなぁ。彼氏に頼まれた言うて。確かその彼氏言うのが、どっかの学校の先生だった。その女と男をチャカでぶち殺したのがコイツじゃ。そんときにわかった。この女は、人を殺せる人間だってのう。やくざもんでも簡単に人を殺せる奴は多くない。それを何の躊躇いもなく虫けらを潰すみたいにやってのけるのがコイツよ」

 「それ、褒めてるんですか?」と私が訊ねると「頭がおかしい言うたじゃろうが」とすぐに返答された。私はけたけたと笑った。

「言っておくがのう、次郎長親分がおまえに何の手も出さんのは、おまえのことを買っているわけでも、高杉のお気に入りだからってわけでもない。おまえがまだ、無害やからや。一度でもワシらのルールから外れれば、海でも山でもどこへでも埋めたるからな」
「ええ、そのときは好きにしてください」

 血の匂いが充満する路地裏を抜ける。スマホを見ると、深夜一時を回ったところだった。適当なところでタクシーを止め、マンションへ向かう。
 高校卒業後に一人暮らしをするために借りたアパートは、住宅街の外れにある安い部屋だった。大学にそこそこ近くて、治安も良い。しかし、週に半分ほど帰るだけで、残りはほとんど高杉の家で寝泊りをしている。高杉の住んでいる高層マンションの部屋は、だだっ広くて物が少なくて、私と高杉が二人で暮らすには余白があり過ぎる。それでも、狭い部屋よりは居心地が良かった。
 タクシーの中で欠伸をする。運転手はラジオの音を絞り、無言で運転をしていた。夜の街を視界に映しながら、黒駒勝男の言葉を反芻していた。しかし、すぐに飽きてしまい、うたた寝をしていた。

「ただいまぁ、お腹空いたー」

 リビングでは高杉がノートパソコンを開いていた。私には一瞥もくれず、何もねえぞと素っ気なく答える。私はまっすぐにキッチンに向かい、戸棚からカップラーメンと箱に入ったままだった焦茶色の電気ケトルを取り出す。開封作業をしている私を高杉は怪訝な表情で見ていた。

「……いつの間にそんなもん買ったんだ」
「ラーメン?この前。あ、食べる?味噌もあるよ」
「いらねえ。それ、いつ買った」

 高杉は視線を電気ケトルへ向けた。

「先週かな。便利じゃん」
「鍋で沸かしゃいいだろう」
「かわいいからいいの」
「……電化製品を可愛いとは思わねえ」

 ケトルに水を注ぎ、お湯を沸かす。五分と経たないうちにカップラーメンは出来上がり、私はソファの上に正座してそれを啜る。深夜に食べるカップラーメンの美味しさは何物にも変えがたいと思う。どれだけ高級食材を胃に入れてきても、私の舌は結局カップラーメンで大満足する。安上がりだ。私自身と同じ。
 高杉はパソコンの画面と睨めっこをしていて、私には目を留めなくなっていた。私はラーメンを食べながら、所々跳ねている黒い髪の艶を眺めていた。
 高杉と初めて会ったのは、私が中学生のときで、土砂降りの雨の日だった。薄汚いホテルを出ると、破れたシャツを着て、顔を腫らした高杉が路上で倒れていた。ひどい雨で、私は彼の上に傘を差して、その顔の傷をハンカチで拭った。鋭い眼差しに反して柔らかい頬の感触があって、私はなぜだか感動した。
 古い木造アパートで一人暮らしをしていた高杉の家に通うようになるまで、そう時間はかからなかった。高杉は私を追い返すことも、私についてあれこれと訊ねる事もしなかった。代わりに私は、日々の些末なことを話した。高杉はいつも黙っていて、時折つまらなさそうに返事をするだけだった。あの頃を思えば、今は随分と話すようになった。しかし、相変わらず高杉は自分のことを話さないので、私は未だに高杉がどんな仕事をしているのか知らない。
 マンションへ引っ越すことになったとき、高杉はぽつりと言った。来るなら勝手に来い、と。その言葉通り、私は勝手にこの部屋に居座っている。
 食べ終えたカップラーメンの容器を水道で濯ぎながら、ふと思い出して訊ねてみる。

「先生と友達なの?」
「先生?」
「銀八先生」

 高杉は「腐れ縁だ」と目頭を揉む。パソコンを閉じ、ソファに凭れる。

「あんまりアイツにちょっかいかけんなよ」
「どうして?」
「負わなくてもいいもんを負うタチなんだよ、アイツは」

 何年も一緒にいると、その隻眼の色の変化に気付くようになってしまう。高杉が誰かのことを明言しているのを聞くのは初めてだった。
 銀魂高校に入学してすぐに、私は銀八先生という人物を認識した。廊下の窓から差し込む陽光に照らされた、白髪と見紛うような銀色の髪や、よれた白衣、気怠そうな歩き方はおよそ教師らしくなく、暇さえあれば少年誌を読み、煙草を吹かしている。担任になったことはないけれど、視界に映るたびに私はその姿を無意識的に追っていた。
 卒業式の日に屋上へ消えていく先生を見て、なんとなく後を追った。死んだ魚のような目がこちらを見たとき、その目を見開かせたい衝動に駆られた。おそらくその衝動は今も細く続いている。あの人の顔が歪むところを見たい。いつも飄々としたあの人の、苦しむ顔が見たい。私は加虐嗜好があるのだろう。
 高杉がソファから離れる。寝室へ向かっていくその背中を見送り、洗面所へ向かった。歯を磨いて、シャワーを手早く浴びて寝室へ行くと、高杉はベッドに横たわっていた。横に寝転び、硬い背中に寄り添う。平熱の低い高杉の体はベッドに何時間籠もっていようと布団に馴染まない。
 高杉の女、高杉のお気に入り。口を揃えて周囲は言うけれど、私と高杉はセックスをしたことはないし、肌に触れ合うこともない。私が外で不特定多数の男とセックスしているのと同じように、高杉にも女が何人かいることは察しがついている。無愛想だけれどきれいな顔をしているし、どこか憂いを帯びていて儚げな立ち姿や、低く色気を含んだ声は、誘わなくても勝手に女が吸い寄せられる。まるで甘い蜜の香りを漂わせる花だ。それに寄ってたかる女は、所詮虫。
 動かない背中に額を寄せ、髪で隠れた後ろ首を見つめる。意外に太い首は、両手で掴んでも、きっと全ては包めない。その前に、高杉なら私のことを簡単に組み伏せることができる。その一連の流れを頭の中で再生する。耳の奥で、泣き声が聞こえる。耳をつんざく動物のような泣き声。
 火を灯したら最後、駆け抜けるねずみ花火のような刹那的な衝動ではない。それは私の体内でずっと燻り続ける、熾火のようなものだった。風が吹けば燃え上がり、たちまち火の粉を散らす。火の粉の行先は、私にもわからない。知る由もない。世間が私のことなど知る由もないのと同様に、私もまた、目を瞑るのだ。





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