教育実習の二週間が終わる。教室でミョウジが生徒から寄せ書きを受け取っている様は、まるドラマのワンシーンのようだった。生徒の中には、たった二週間の付き合いしかないというのに涙ぐんでいる女子もいた。一体どこからそんな感慨が湧いてくるのか理解できない。俺はむしろ清々しているくらいだった。やっとミョウジと離れることができる。これで俺が余計なことで頭を悩ませる必要もなくなる。
 色紙を抱えて教室を出たミョウジの横顔は晴れやかだった。自然な形で上がっている口角は、ミョウジにとってこの二週間が充実した日々であったことを窺わせる。学校でのミョウジは勤勉で礼儀正しく、適度に愛想も良く、生徒からはもちろん教員からも慕われていた。お節介な中年のおばさん先生からは、銀八先生は女好きだから気をつけなさいよと言われていた。俺は内心で襲われたのはこっちだ、と苦虫を噛み潰していた。

 教育実習開始のときに飲み会をした同じ居酒屋に、実習生と教員が集まっていた。週末ということもあり店内は混み合っており、料理が出てくるまでには時間がかかっているが酒は進んでいた。賑やかな店内の空気に飲まれて、皆声は大きくなり明け透けになってくる。俺は端の席を陣取り、実習生には近付かずにひたすら酒を呷っていた。つまみもほとんど口に入れていなかったせいで、すぐにトイレに行きたくなった。

「大丈夫か?」

 月詠が覚束ない足取りの俺を心配そうに見上げる。俺は「平気平気」とひらりと手を振り、人が満遍なく座っているテーブルの間を抜け、トイレへ入った。下品な落書きのされたトイレの壁を見ながら溜め息を吐く。二週間前、この居酒屋の帰りに俺はミョウジに声をかけてしまった。あのとき、もしもミョウジのことを放っておけば、こんな風にはならなかった。ミョウジが人殺しだとか金で男と寝るような女だとか、そんなことを露知らず、ただの教員と教育実習生で終わることができた。が、今更過去を振り返ったところで全て後の祭だ。
 用を足し、手を洗ってトイレを出る。暖簾を潜ると、トイレの前にはミョウジが立っていた。オレンジ色の電球に照らされたミョウジの目が俺を見る。

「お疲れ様です」
「ああ……」
「酔ってます?顔が赤いですよ」

 ミョウジの手が俺の頬に触れる。ひやりとした指先の感触に、思わず後退りする。高杉の部屋で感じた感触を生々しく思い出す。ミョウジはくすりと笑った。

「そんなに警戒しなくていいじゃないですか」
「前科があんだろうが」

 いくつもの空ジョッキを持った店員が急ぎ足で目の前を通り過ぎていく。それを見送り、ミョウジを避けて席へ戻ろうとすると、先生、と呼び止められる。

「実習、お世話になりました。ありがとうございました」

 恭しく頭を下げるミョウジに面食らってしまう。顔を上げたミョウジの表情は、そこら辺にいる若い女と変わりない。何か言おうと思うが、頭が回らない。

「おまえさぁ、その……」
「なんですか?」
「生徒のこと、どう思った?」

 ミョウジはきょとんとした。教育実習生のことなんて、生徒たちの長い人生においてはほんの一瞬のことで、いつかは忘れ去られてしまう。それでも一度でも交流を持ってしまったのなら、俺は教え子たちの悲しむ顔や落胆した顔は見たくない。信頼や思慕を裏切るようなことをミョウジにはしてほしくなかった。既に生徒たちの中にある、美人で優しい教育実習生という偶像は俺の中では破綻しているのだが――。まだ間に合うなら、ミョウジには道を正してほしかった。
 何かしらの返事がすぐに返ってくると思っていたが、予想に反してミョウジは頭を捻っていた。俺は妙な質問をしてしまったことに後悔しつつ、いつも当意即妙なミョウジが悩んでいるので、それを撤回することもしなかった。
 しばらく考え込んだあと、ミョウジは平凡なことを言った。

「いい子ばっかりだと思いますよ」
「いい子?」
「楽しかったですよ」

 緩やかな曲線を描く目と、きゅっと上がった口角。それを少し緩め、「先生のクラスの子は幸せ者ですね」とミョウジは暖簾を潜りトイレへ入った。
 狭い教室に並んだ机と椅子。そこへ次々に座っていく生徒の顔を思い浮かべる。誰も彼も俺のことを銀八と呼び、全く先生と呼ぼうとしない、生意気な奴ばかりだ。あいつらが担任が俺で良かったと思うことが、この先に一度でもあるだろうか。あの頃は良かったと思う日がいつかは来るのだろうか。一瞬の触れ合いにしか過ぎない教育実習生と同じように、高校時代の担任のことなどそのうちに忘れるだろうに。
 酒席に戻ると、俺が座っていた場所には実習生の男がおり、酒乱と化した月詠にヘッドロックをキメられていた。誰かに勧められて酒を飲んでしまったのだろう。間に入っていけば俺が標的にされるので、実習生には申し訳ないが適当に空席を見つけて腰掛ける。隣にいた実習生は地味な印象の女子で、「私はミョウジさんと違って花がない」と真っ赤になった顔で愚痴をこぼしていた。どうやら校内でのミョウジの人気と自分の不人気さをずっと憂いていたらしい。酒との付き合い方もまだよく知らないようで、注がれるままに飲んでいて恥も外聞も忘れてしまっているのだろう。俺はそいつの愚痴を聞き流しながら、ミョウジを花と評するのは適さないと考えていた。花というより、食虫植物に近い気がした。
 飲み会が終わり店を出ると、ミョウジは酔っ払いを掻き分けて俺の前までやってくる。

「先生の授業、聞けて楽しかったです。高校生のときは先生の授業、受けられなかったから」
「……そうだっけ?」
「いい思い出になりました。お世話になりました」

 ミョウジが頭を下げる。礼ならさっきも聞いたと言うと、ミョウジはやはり微笑んだ。
 その後、ミョウジは二次会組と共に街へ消えていった。俺は毎度だが乗り気にはなれず帰路に着くことにした。呆気ない別れだった。
 夜風に吹かれていると、徐々に頭が冴えてくる。俺はミョウジの言葉の意味を考えあぐねていた。
 本人が言う通り、野放しにしておくことは社会にとって良くないことなのだろう。ほんの少しの間の付き合いだったが、ミョウジの人間性がどこか崩壊していることを知るには十分だった。味わった嫌悪感は未だに拭えていない。しかし、俺にはミョウジにできれば自分で道を正してほしい。猫を被っていることは重々わかったが、生徒たちの前で見せていた顔が全て嘘だとは思いたくはない。どんなに人間が落ちていこうと、腐ろうと、何度でも立ち上がることはできるはずだ。綺麗事だと揶揄されても、そう信じたい。
 妙な縁だが、ミョウジのそばには高杉もいる。腐れ縁で長い付き合いになるので、高杉のことはどんな人間か知っている。来る者拒まず、去る者追わずのスタンスを取っているが、高杉は容易に他人に自分の境界線を踏み越えさせる奴ではない。そんな警戒心の強い男が、ミョウジのことはそばに置いている。ミョウジが何をしているのか知らないはずはない。希望的観測に過ぎないが、高杉ならミョウジのことを止めることができるのではないか。
 冷えた指先を温めるためにズボンのポケットに手を突っ込む。すると、あるはずのものがないことに気が付いた。スマホがない。尻ポケットにも手を入れてみるが、やはりなかった。深く溜め息を吐いて、来た道を引き返した。
 
 ラストオーダーの時間をとうに過ぎた店内は閑散としていた。三人組の中年の男がテーブル席でくだを巻いている以外には客の姿はなかった。てきぱきと動き回っていた店員が俺の姿を認めると「もう閉めるんですけど」と迷惑そうな顔で言った。しかしスマホを忘れたことを話すと、店員はハッとしてレジ奥から俺のスマホを持ってきた。個人情報だけでなく、持ち主のすべてを映し出すような小さな機械が手に戻ってきたことに安堵する。
 余計な時間を食ってしまった。大通りを駅まで歩けば二十分くらいだが、裏道や小道を通ればもっと早く着く。終電の時間も迫っていたので、俺は大通りを逸れて狭い道へ入った。うねった道を建物の隙間を縫うように歩いていく。裏路地は控えめに明かりを灯している小料理屋や、年季の入った風俗店、何の商売をしているのか、深夜になっても電気の付いた事務所があった。この辺りは極道者がバックにつく店ばかりで、普段は滅多に通らない。いや、表で堂々と営業している店の中にだって、極道者の息がかかっている店はある。この世界は表と裏で微妙な均衡を保ちながら成り立っている。厄介なのは、どっちつかずで表と裏を行き来するような奴だ。そんな存在が、均衡を崩すこともある。
 強烈な匂いに足が止まった。少し先に中華料理屋があるのでそこから漂う匂いかと思ったが、もっと近い場所から感じる。様々な匂いが混じり、形容し難い、食べ物が腐ったようなひどい匂いだった。
 頭上のスナックの看板が白い光を放っている。止めた足をゆっくりと動かし、匂いの出所を探る。スナックの脇の小道からそれは漏れていた。
 スナックの室外機が永続的に音を立てている。俺はそこに立っているネイビーのスーツの背に見覚えがあり、声をかけた。

「ミョウジ?」

 ゆっくりと振り向いたミョウジが、先生、とほんの僅かに口角を上げた。ミョウジの足元には黒い液体が溜まっていた。そして手には銀色の刃が握られていた。ナイフや包丁ではない。ガラスの破片のように歪で鋭利だった。その手からは血が流れていた。ミョウジの奥には、壁に背を預ける形で座り込んでいる男がいた。骨が辛うじて頭を支えているが、まるで力が入っておらず、顔は斜め上を見上げていた。地面の液体は、男の腹から流れ出ている血だった。
 愕然としていた。しかし、脳よりも先に五感が働き、俺は蹲ってその場で嘔吐した。酒も焼き鳥も胃液と混じってすべて吐き出した。口からよだれが伝い、アスファルトに糸を引く。肩で息をする俺の隣にミョウジがしゃがみ込む。握ったガラスの破片が、ぎらりと俺を睨んでいた。

「警察、呼んでもいいですよ」

 静かな声色でミョウジは言い、俺の背を摩った。脂汗が額に滲む。砂利の付いた拳で口を雑に拭う。

「おまえがやったのか」
「ええ」
「…………なんで」 

 ミョウジは困ったように笑った。訊かれていることの返答に、と言うより、どうしてそんなことを訊くのかわからないといった様子だった。

「先生、顔。見て」

 ミョウジの指差す先へ視線を移す。脳は見るなと警告を出しているのに抗えない。ぴくりとも動かない男の顔は、同僚と似ていた。暗い上に生気も無いが、あれは実習が始まったときの飲み会の後、ミョウジの腰に手を回して歩いていた、あの江口だった。それに気が付いた瞬間に総毛立つ。空になったはずの胃から何かが迫り上がってくる。俺は吐瀉物の上に更に胃液を吐いた。ミョウジはずっと背中を摩っている。

「あの人、ここら辺を仕切ってる溝鼠組……って知ってます?その組で子飼いにしてる女に手を出して、孕ませた挙句、女を見捨てたんです。春には転勤が決まってたんでしょ?逃げるつもりだったんですよ。組の人も替えの利く女のために男を探すことはしないでしょうし、あと数ヶ月見ないふりをしていれば済むと思ってたんでしょうね」

 現実に吐いているときに反吐の出るような話をするな――という言葉は、息の切れ間に消えていった。

「疑われるのはあの男の子供を今もお腹に抱えてる女です。妊娠してしまって堕ろす勇気もなく、組からは見放されて商売もできない。頼る者もいない彼女は、きっと殺してもいない男を自分が殺したと言って、安全な刑務所へ入るでしょうね。赤ちゃんが生まれても、数年は何も考えなくても生きていける」

 やっとの思いでミョウジの手を振り払う。歯を食いしばり、睨む。

「ふざけんな……その女のために、やったってのか!」
「違いますよ。彼女に頼まれたわけじゃありません。そもそも彼女は私のことなんて全く知りません。話したこともない。ただ、私はそういう話を聞いただけですから」

 ミョウジは振り払われた手を下ろし、軽快な足取りで江口の脇へ立った。その横顔は、まるで虫でも見下ろすかのように無表情だった。

「私がやりたくてやったんです。別に殺すつもりはなかったんですけど、なんだか急に風が吹いて」
「風……?意味がわかるように説明しろや」
「あはは!」

 唐突に笑い出したミョウジに怯む。

「先生、なんか勘違いしてませんか?」

 ミョウジの手からガラスが落ちる。鋭い音を立てて、それはアスファルトに打ち付けられた。

「理解とか、そんなのいりません。論理とか道徳とか、そんなものよりも、意識よりもずうっと手前にあるんです。それが突然私の体を動かすんです。誰にだってあるでしょう?嫌いな人を殺したいとか悲しくて死にたいとか。そんな感情を抑えきれないことってあるでしょ、先生にだって」

 咄嗟に一緒にするなと叫びたくなる。が、声にならない。スナックから笑い声が漏れてくる。
 ぽつりと頭に雨粒が落ちてくる。ミョウジは夜空を見上げ、俺へ目を戻してパンプスのヒールを鳴らしながら距離を詰めてくる。切れた掌で俺の頬を撫でる。その指先には居酒屋で感じた冷たさはなく、人間らしい温かみがあった。血を擦り付けるようにミョウジは俺の頬を撫でたあと、ゆっくりと笑みを作った。雨に混じって血が唇を掠めていく。鉄の味がした。

「また、会えるといいですね」

 ヒールの音が遠ざかっていく。雨は徐々に勢いを増していき、アスファルトを穿つようだった。俺は流れてくる血や吐瀉物を見ていたが、やがて腰を上げた。ポケットのスマホは使い物にならなくなっていた。





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