家主は怪訝な顔をしたが、意外にもあっさりと俺を部屋へ招き入れた。ずぶ濡れの俺を無理やりシャワールームへ押し込め、自分のTシャツとスウェットを脱衣所へ置いた。さすがにパンツまで貸す気はないらしく、かと言ってノーパンでスウェットを履くわけにもいかず、俺は仕方なくパンツを限界まで絞って水気を取ってから履いた。
「高杉。ミョウジは」
シャワールームを出て、リビングのソファで寛いでいた高杉へ訊ねる。高杉は一瞥もくれず、「今日は来てねえ」と答えた。
「この時間になっても来なきゃ来ないと思うぜ。アイツに用事か」
「用事っていうか……」
雨のせいで失っていた体温は取り戻したが、ひどく疲れていた。以前来たときと同じ場所に座り、電源すら入らなくなったスマホをテーブルに置く。湿った髪をタオルで拭いていたが、水気を感じなくなり手を止めた。カーテンは開けっ放しにされており、窓を叩く雨がよく見えた。雷鳴が遠くから聞こえる。
胃の中は空だったが食欲はなかった。代わりに水を高杉に求めた。高杉は嫌々といった雰囲気でガラスコップに水を注いで持ってきた。
「何を見た?」
黙って水を飲む俺に隻眼が向く。俺はちらりと目を合わせ、コップの水面へ視線を落とした。
「ひでえ顔色だぞ。死人みてえだ」
高杉の例えはおそらくぴったりだった。しかし、俺は目に焼き付いた男の死に顔を浮かべてしまい、何も返せなかった。
死んだ人間を見るのは初めてではない。葬式では必ず最後のお別れと言って死人の顔を見る。当たり前だが、皆一様に青っ白い顔をしているが表情は穏やかで、まさに健やかに眠っているようだった。しかし、今日見た男の顔は、健やかでも穏やかでもない。見開かれた瞳は今にもこちらを向きそうで、四肢は動き出してもおかしくないように見えた。暗く、冷たい。人の死に際は、所詮そんなものなのだろうか。
「ミョウジが俺の同僚を……刺した」
殺したとは言えなかった。口にするのを躊躇ってしまうほどに、現実のその言葉は鋭利で凶暴だった。軽口で言うことはあっても、今の俺にはそれは重過ぎた。高杉は突っ立っていたが、テーブルを回り定位置へ戻った。
「見たのか」
「ガラスを持ってた。血だらけで、自分がやったって言った。女孕ませて見捨てた野郎だって」
「……へえ」
スマホは使えなくなっていたが、ここまで来る道に公衆電話が一つあった。雨夜に浮かぶ緑色に目が留まったが、素通りしてきた。
――人が殺されています
――犯人は、俺の高校に教育実習に来ている大学生の女です
――名前はミョウジナマエです
あの場ですぐに通報しなければならなかった。しかし、できなかった。
いつも笑顔を作り、飄々としているミョウジの無表情を思い出す。あの男を正義感や恨みで殺したわけではないとミョウジは言っていたが、それなら、なぜ江口を選んだのだろうか。大方、二次会から二人で抜け出してきたのだろうが、たまたまそばにいただけなのだとしたらあまりに出来過ぎている。ミョウジは最初から江口がどんなことをしていたのか知っていて、わざと二人きりになれるよう焚き付けたのではないか。人を殺す意味なんかないのだとしたら、あの男でなくてもよかったはずだ。
「……アイツ、教師になんか私怨とかあるのか?」
高杉は、ふ、と鼻で笑った。
「教師が嫌いならてめえのことも殺してるんじゃねえのか」
「じゃあ、家族のこととか、何かトラウマがあるとかは」
「アイツの両親は……確か父親は食品の会社勤めで、母親は役所だって聞いてる。一人娘で、まあ言うなれば一般家庭ってやつで育ったようだな。時々連絡を取り合ってる。仲は悪くねえようだが」
高杉がソファを離れる。雨のせいで滲む夜景を見下ろしながら「銀時」と語りかける。
「ここの最上階に住んでる人間の顔を見たことがあるか?」
眉根を寄せる。急に何を言い出すのか。
「見たことあるわけねえだろ」
「着飾った女やら豚みてえな男やら、いかにも富裕層ってツラの奴もいたり、傍目には全くそんな風には見えない奴もいるよ」
「……あ、そう」
「そいつらと、俺たち。この雨の中、段ボールで身を守っている連中。何が違うんだろうな」
「なんの話だよ」
いつもの厨二病の発作かと流すつもりだった。反射して見える高杉の顔は、いつもと同じ、すかした気に食わない顔だった。俺の顔はよく見えなかった。雨は執拗に窓を叩いている。
「稀薄な家族関係?家庭内暴力?いじめ?生まれや育った環境がこうだから、あなたはこんな人間になったんですね、なんて勝手にカテゴライズされて推し量れるほど、俺たちゃ簡素でお粗末な生き物なのか?どんなにクソみてえな親に育てられようと、友人に恵まれなかろうと、天涯孤独だろうと、まともに生きている奴はごまんといる。銀時、てめえがいい例じゃねえか。親も家族もいねえが、社会に適応し隷属して、ご立派に教師なんてやってる」
嫌味を多分に含んだ言い草だった。しかし、高杉の言う通りだった。俺は社会人としてそれなりにやっている。世間の人間は皆、それなりに生きている。
俺は物心つく頃には既に児童養護施設にいて、両親の顔も知らずに育った。元々いないものを恋しいと思う理由もなく、俺はその生活を当然のものだと思っていた。しかし、施設にいる大半は、あらゆる事情で家族と過ごせない子供だった。夜になると布団の中ですすり泣く声が聞こえてくることは何度もあった。職員の目を盗んで施設を抜け出す奴もいた。突然キレる奴もたくさんいた。そういう奴らが全員社会に馴染めずにいるかと問われればそんなことはあるはずがない。家庭から否応なく外れても、そこだけが居場所ではない。
一瞬の光。その後、すぐに地を割るような雷鳴が轟いた。高杉が振り返る。
「人が歪むのに大層な生い立ちや、絶望や不幸が必要か?」
雷鳴が続いている。再び白い光が街に落ちた。
「アイツは生まれたときから“そう”だった。それだけのことだ」
室内が暗闇に包まれる。高杉は「ブレーカーが落ちたな」と呟いた。暗闇の中、足音が脇を通り抜けていく。一分も経たないうちに、室内には明かりが戻った。しかし、俺の目の前は真っ暗だった。
「理解者なんざ、求めてねえんだよ」
「……そんなふうに切り捨てんのかよ」
「切り捨てるのとは違う。割り切るんだ。てめーらこそ、そういう奴らを異端児として社会から隔離し拒絶するだろう。残酷なもんだ、人類平等を謳っておきながらまるで別の生き物みてぇに檻の中に入れたがる」
高杉の声が背後から聞こえる。ミョウジの笑い声が耳に反響する。
「てめえにできることは、何もない」
無慈悲な一言は、雨のように俺の頭に降りかかっていた。
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