どんなものより眩しく、儚くあっという間に過ぎ去っていくその瞬間を、まるで永遠と勘違いしているかのように全速力で駆け抜けていく姿を見るのが、嫌いじゃなかった。できることならミョウジのそんな姿も見ておきたかった。あの日、目に焼き付いた晴れ渡った空に佇むミョウジともっと話をすれば良かったと、なぜか今頃思っている。
告げられた病院に足を運んだはいいものの、高杉はどこにもいなかった。雪道を歩いたせいで足先も指先も冷え切っていたが、病院の中は暖房が効いており、すぐに鼻水が出てきた。
受付のロビーには既に多くの人がおり、俺は逸る気持ちを抑え、高杉が来るまでとりあえず待つことにした。くすんだ緑色の椅子に座ってみたが尻が今にも浮きそうで、落ち着きなくスマホの画面を開く。高杉の連絡先は電話番号しか知らない。前から他の連絡手段などなかったし、そもそも連絡を取り合うようなこともなかったので当然だ。しかしラインくらいは聞いておくべきだったかともどかしくなった。
「銀八?」
名前を呼ばれ、顔を上げる。篠塚が立っていた。制服ではなく、大きめのパーカーとジャージのズボンで、すぐにはわからなかった。
「……篠塚」
平日の朝に、なぜこんなところにいるのか。それを訊こうとして、すぐに篠塚の手の甲に貼られている白い絆創膏に目が向く。
「おまえ、もしかして」
篠塚の目に、涙の膜が張っていく。それはすぐさま大きな目に雫となって溜まり、頬を流れた。袖で目元を擦りながら、今にもその場にくずおれてしまいそうな篠塚を椅子に座るよう促す。篠塚は俺の隣に座り、背を丸めて細々と話す。
「私が、悪いの。私が、もう死んでもいいって、思ってたから、あんなことに巻き込まれて、ミョウジちゃんに、怪我させて……」
ミョウジは通り魔に襲われていた女子高生を助けて重傷を負ったとニュースで言っていた。女子高生は篠塚だった。ミョウジは、もしかして襲われているのが篠塚だと気が付いたのだろうか。気が付いて、助けようとしたのだろうか。
震える肩を弱く叩く。やがて、篠塚は堰を切ったように泣き出した。周囲の人間はこちらを見るが、病院という場所なだけに事情を知らずとも何かを察して、すぐに視線を外していく。その中で、品の良さそうな四十代くらいの女が近付いてきた。篠塚の母親だった。俺は手短に自己紹介をした。
「銀魂高校で教員をしています、坂田です」
「ああ、そうですか……。すみません、ご心配をおかけしてしまって」
母親は深々と頭を下げた。頭頂部には白髪が混じっていた。
「いえ、俺……私たちも、もっと早く、しっかり生徒の安全を守るべきでした」
「そんな。今回のことは、この子が夜中に急に出かけてしまったせいなので。親として不注意でした」
母親の登場で、篠塚は涙を堪えていた。真っ赤な目は床を見つめており、時折しゃくり上げながら唇を食んでいる。
親として不注意――。母親は、篠塚がかつてバレー部の顧問と交際していたことを知っているのだろうか。いや、知っていて、わざと知らないふりをしているのか。学校の教員が亡くなったあとに塞ぎ込む娘を見て何も思うことがなかったわけはあるまい。
母親は気持ちが落ち着かないのか、額に手を当てて前髪を払い、きゅっと唇を結んでからロビーから二階へ繋がる階段を見上げた。そして徐に口を開く。
「娘を助けてくれた方、教育実習生の方だと聞きました。本当に、なんとお詫びすればいいのか……」
下ろした手を所在なさげに組んだり握ったりしながら、母親は目を伏せた。伏せた目の形が、篠塚とよく似ていた。
「…………今は、娘さんのことを第一にしてください」
罪を背負うべきなのは通り魔の犯人であって、篠塚でも、母親でもない。しかし、額面通りには受け入れられないのが人間の厄介なところで、感情は事実とは全くの別方向に動き出す。警察車両に迎えられて病院を出ていく親子の背中を見送り、上げた腰を下ろすこともできず、俺は足を進めていた。
病院の色気の無さは自然と気分を沈める。それでも足を止めることはできなかった。生暖かい空気の中、人気のない廊下を歩いていくと、廊下に設置された椅子に二人の男女が座っているのが見えた。五、六十代で、女のほうは両手で顔を覆ってさめざめと泣いているように見えた。しかし、俺がゆっくりと近付いていくと、男のほうは顔を上げ、すっくと立ち上がった。髪はほとんど白髪で顔にはほうれい線が深く刻まれているが、背筋はしゃんと伸びていた。女のほうは男が立ったあとに俺に気が付き、顔を拭いながら重そうに腰を上げた。ショートカットでやや小太りな、どこにでもいるおばさんといった雰囲気だった。
「失礼ですが」
男のほうが俺へ訊ねた。その先の言葉が出てくる前に、俺は篠塚の母親にしたときと同じように簡潔に「銀魂高校の教員の坂田です」と述べた。男は息を含めた声で「ああ」と小さく頷いた。
「ナマエの父です。ええと、ナマエの高校のときの……?」
ミョウジの両親には初めて会った。高校時代は担任でもなかったのだから当然だ。母親のほうは、ハンカチで目元を押さえている。何度も擦ったのか、目の下は赤くなっていた。
「いや……教育実習で、ナマエさんは私のクラスについていました」
「ああ、そうですか」
息の混じった声が吐かれる。立ち姿はしっかりとしているが、疲弊しているのがわかった。夜に事件が起きて、すぐに駆けつけて来たのだろうか。
俺は壁の先にある閉じられたドアを見遣った。父親も視線の先を一瞥し、表情を少し和らげる。しかし、それは笑みではなかった。
「娘はまだ意識を取り戻しません。病院の先生によると、深い刺し傷は胸だけですが、他にもいくつか刺し傷や殴打痕があるそうです。おそらく何度も暴行を加えられたのでしょう、と。……どうして無抵抗の女子供を何度も執拗に痛めつけることができるのか、私には全く理解が及びません」
淡々とした口調だったが、言葉には犯人に対する憎悪や軽蔑が滲み出ていた。もしも目の前に娘を刺した犯人が現れれば、きっと父親は躊躇なく、どんな手を使ってでも犯人を殺すのだろう。悲しい、憎い、殺したい。そんな単純な、しかし心の奥底から湧き出るものを理性や外聞という脆い枷で止められるわけがない。
それまで黙っていた母親が、先生、と俺を見上げる。丸顔で、あまりミョウジには似ていなかった。ミョウジはどちらかというと父親似のようだった。
「あの子は、実習ではどんな様子でしたか?」
「え……」
「電話では話してたけど、あの子、滅多に帰ってこないから。すみません、変なことを聞いて」
俺はうまく声が出せなかった。母親は力なく笑い、ハンカチでしきりに口元を押さえながら涙目で話し続ける。
「本当に、なんでうちの子がって思ってしまうんです。面倒臭がりで、ちょっと意地っ張りで、食い意地が張ってて、でも、本当は優しくて明るい子で、毎年母の日にはお花とか可愛い置物とかくれて、誕生日には、いの一番におめでとうって言ってくれるんです。あの子、すごく音痴なんですけど、そう、去年ね、一緒にカラオケに行ったんです。音程がめちゃくちゃでおかしくって、動画撮ったんです。先生、見ますか?」
母親はジーンズのポケットからスマホを取り出す。病院ということも忘れているのか、そこまで気が回らなくなってしまっているのか。どちらにせよ、正常な心理状態ではないことは明らかだった。隣の父親は、顔を歪めることもなく諫めるでもなく、妻の動きを見つめていた。
母親はスマホを操作していたが、手を滑らせてしまい床へ落としてしまう。静まりかえった廊下に響く大きな音。あらあら、と小さく呟き、スマホを拾うために身を屈めた母親が、膝を折ったまま動かなくなる。その背中は、小刻みに震えていた。
「少し外に出よう」
隣に屈んだ父親が優しくその背を撫でる。母親は支えられながらやっと立ち上がった。
「すみません。私たちはしばらく外します。せっかくお越しいただいたので、ナマエの顔くらいは見ていってやってください。いろんな人が来てくれたほうが、あの子も目を覚ますかもしれない」
口にしてから、そんなことは気休めに過ぎないと悟ったのか、父親はぎこちなく自嘲気味に笑みをこぼした。日の当たらない廊下の先へ消えていく夫婦へ、俺は声をかけようかとその姿が見えなくなるまで迷っていた。しかし、角を曲がったところで諦めて俯いた。本当は会話の端々で口を突っ込みたくなった。
指先を掌の中へ押し込む。開いた自分の手の中にはくっきりと爪の痕が残っていた。無機質な天井を見上げ、眉根を寄せて息を吐く。閉ざされたドアを眺め、スリッパを引き摺るようにして足を向ける。
病室のベッドの上には、俺には名前もわからない器具にたくさん括り付けられたミョウジが眠っていた。かろうじてわかるのは、呼吸器や点滴くらいだ。ビニールカーテン越しに見えるミョウジの表情は穏やかで、まるで幼い少女のようだった。
「ミョウジ」
名前を呼んでも、当然返事はない。機械音が室内を埋めている。
「おまえ、なんで篠塚を庇った?」
「答えられると思ってんのか」
不意に背後から聞こえた男の声に振り返る。高杉が立っていた。高杉が気配を絶っていたのか、それとも俺が意識を内に向けていたのか、全く気付かなかった。
「……おまえ、声くらいかけろよ」
高杉は後ろ手でドアを閉めた。横に立った高杉は、死んだように眠るミョウジをじっと見ていた。
「人殺しが人助けで死ぬとはな」
ぽつりと呟いた高杉に、「まだ死んでねえ」と異論を唱える。得体が知れず、不気味ささえ感じていた相手が、微動だにせず機械に繋がれて何とか息をしている様は異様な光景だった。俺は未だに、ミョウジが死にかけているという現実を受け止め切れていない。ミョウジと繋がるたくさんの機器の一つでも壊してしまえば、ミョウジはそのまま音もなく死んでしまうのだろうか。
「このまま死んでくれたほうがいいと思ってんだろう?」
「……」
「一人救ったところで、コイツが今まで殺した人数には追いつかねえ」
あの世に地獄と天国があるのなら、ミョウジは地獄行きだろう。いくら女子高生を助けようが、両親から愛されていようが、それは変わらない。しかし、世に出回る事実は、女子大生が身を挺して高校生を救ったということだ。ミョウジは通り魔に勇敢に立ち向かった。たとえ命を落としてしまっても、それは美談になるのだろうか。いや、命を落としてこそ、美談になるのかもしれない。
「随分と気持ち良さそうに寝てやがる」
高杉は妙に落ち着いていた。長い付き合いになる、猫と称するほどには愛着を持っていただろう女に対する言葉ではなかった。しかし、それを咎める理由は俺にはない。
「そりゃ、いい夢でも見てんじゃねえの」
「夢か」
高杉はベッド脇の丸椅子に腰掛けた。窓のない部屋は閉塞感がある。人間が三人も揃っているのに、まるで誰も呼吸をしていないかのようだった。
「寝る前と夢の中で、赤ん坊の泣き声が聞こえるって言ってた」
「……あ?」
「おまえも知ってるだろう。コイツが高校生のときに関係を持ってた担任。まあ、海の藻屑にされたみてえだが」
――援交だ借金だといい噂を聞かねえ野郎だったからな。生徒と駆け落ちしたって噂もある
服部先生の言葉が過ぎる。聞き流していたが、突然生々しさが言葉を覆っていく。
自分の口から出てくる声は、聞いたことがないほど暗く低かった。
「その男の子供を?」
「さてな。まあ両親は知らないようだし、堕ろしたとは考えにくい」
「産んだとでも?そんなん、高校生のときなら一緒に住んでる親が気付かないわけがない」
「早産だろう。ナマエは習い事にも通っていたからな。朝と夜、数時間家で過ごすだけなら気付かない親もいるだろう。親は子どものことを見ているようで知らないことが多いもんだ」
「産んでたとして、その子供はどこへ……」
顔が強張っていく。しかし、答えは自ずと出てきていた。妊娠や出産について実のある知識のない俺でも、早産で生まれた子供が未熟児と呼ばれることは知っている。ミョウジが自ら手を下さずとも、どの道その赤ん坊は息を引き取るだろう。薄汚い公衆トイレで命を無残に散らせていく赤ん坊と、小さな体を両手で持つミョウジの姿が過ぎる。それは俗に言う社会の暗部というやつだろう。意外だったのは、夢に見るほどミョウジが赤ん坊のことを心に留め置いているということだった。しかし、それは何の救済にもならない。俺は絶望を感じていた。
高杉が腰を上げると、空気の中に僅かに煙草の匂いがした。
「俺はいつも、ナマエが勝手に喋ることを聞いていただけだ。コイツが喋る以上のことを知りゃしねえし、訊こうとも思わねえ。言っただろう、理解なんざ求めてねえ。ただ、そこに在るだけのもんだ」
「コイツが死んでも、何とも思わねえと?」
「そんなことは死んでから考える」
病室を出て行こうとする高杉を呼び止める。高杉は俺を振り返る。しかし、俺の問いがあまりに唐突で要領を得ないものだったので、すぐに眉を顰めた。
「なんでだと思う」
「何がだ」
「……なんでミョウジは、篠塚を、生徒を庇ったと思う」
――なあ、ミョウジ。おまえなら通り魔に誰が襲われていようと、素通りするんじゃないのか。寧ろ通り魔を殺すくらいのことはできそうじゃねえか。意味なんかないって言ってただろう。こんなところで、なんで死にそうになっているんだ。
高杉はミョウジを一瞥した。が、その目蓋が上がることはなかった。
「情でもあったんじゃねえのか。それに突き動かされて、走った。どうせ理由なんざ、何もねえのさ」
高杉が出ていったあとの病室は、ますます生気を失っていた。薄明るい照明に照らされる俺の顔は、きっと人に見せられるようなものではなかった。幸い、ミョウジの両親はまだ戻ってこない。
ビニールカーテンを潜り、ミョウジを見下ろす。白い顔に、枕に流れる髪。静かに胸が上下している。俺の手は、ミョウジの口元を覆う呼吸器へ伸びていた。プラスチック越しに指に伝わってくる温かい吐息に、俺はゆっくりと手を下ろし、膝を床に着いてベッドに向かって頭を抱えた。耳障りな機械音が、ずっと鳴り続けていた。
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