激しい金属音で目が覚めた。瞼を押し上げると、鉄格子の向こうに灰色の髪を髷にした老夫と、十手を持った若い男が立っていた。今程の音は男が十手で格子を叩いた音だった。天井からぶら下げられた豆電球に照らされた顔は、逆光になっていてよく見えない。
 寒気に身震いする。体温を床や壁に吸われてしまったかのようだった。
 老夫の嗄れた声が空虚な空間に反響する。

「吉原での名は空蝉と言ったか」

 豆電球の明かりに目を眇める。状況把握にそれほど時間は必要なかった。いや、はっきりとしたことはわからないが、なんとなく察しがつく。私はまた、ある日の私に足を引っ張られているのだ。それは仕方のないことだと、とうに諦めはついている。
 老夫はゆったりとした動作で手招きをした。長く眠っていたせいか、思うように動かない四肢を奮い立たせる。格子の前まで着くと、隙間から伸びてきた老夫の手が容赦なく私の髪を掴んだ。痛みに顔を歪める。

「化粧をしていない顔は初めて見るな」

 肉感的な掌、皺のある口元、目の下のシミ。覚えはないが、私はこの男と会ったことがあるのだろう。
 私の中には、二度と浮かび上がらないように沼地に沈めたものがたくさんあって、それを再び拾い上げることは自傷行為と同じだった。もう傷付かないように、誰にも心を開かずにこれまで生きてきた。一人でいれば、誰かを苦しめることもなく、自分も苦しめられることもない。それは孤独と向き合うことでもあったけれど、それが自由の対価ならば安い。
 しかし、結局落としてきた種は芽を出し、つるを伸ばして私を絡め取る。

「空蝉、おまえは私のことなど覚えていないだろう。毎日客を取っていたのだから個人の区別などろくにつくまい」

 重力に倣い垂れた目が私の体を舐め回すように見ている。唾でも吐きかけたかったが、口内が乾いている。

「二年前、火の手が回る中、貴様はあの人斬り河上万斉に連れられ逃げていった。元々おかしな女だとは思っていた。何を話していてもまるで空を掴まされているかのようだった。まさに空蝉だ」

 空蝉という名前は、私が考えたのではない。世話になる店の老婆に付けられた名前だった。私はその名前を嫌いではなかったけれど、気に入ってもいなかった。蝉の抜け殻。空っぽの自分を見透かされているような気がした。
 一層強く髪を引っ張られ、鉄格子に顔が当たる。頬骨が痛い。

「本当の名は、ミョウジナマエと言うらしいな。ずいぶん手を焼いたが、ようやっと実体を掴ませてもらったぞ」

 声色や表情こそ変わらないものの、老夫は感情的になっていた。反対に私は冷静になっていく。

「かの高杉晋助……鬼兵隊の女を断罪できる機会などそうそうない。貴様には私の踏み台になってもらう」

 足音が遠ざかっていく。暗い牢獄を照らす豆電球が明滅を繰り返しはじめる。消えそうで消えない。目障りで、足元に落ちている小石を電球目掛けて投げてみる。しかし、それは電球の脇をすり抜けていった。
 光が目に痛くて、目を逸らしても眠れる気がしなかった。それでも虚空を眺めている気力もなく、ぼうっと追い続けていた男の顔を思い出す。きっと今でも、私の知らないところで疼きを抱えているに違いない。あの人の迷惑にならなければいいけれど。





 銀時はからくり技師、平賀源外の自宅兼工場で降り頻る雪を眺めていた。沖田総悟の放ったバズーカによって破壊されたスクーターの修理に来ていたのだった。あのときは散々な目に遭った。元々の天然パーマに輪を掛けて髪は爆発し、着物はぼろぼろで、木刀も新調する羽目になった。

「銀の字、終わったぜ」

 源外が工場の奥からスクーターを押して現れる。

「余計な機能付けてねえだろうな」
「醤油……」
「いらねーから」
「冗談だ」

 源外はニッと白い歯を見せて笑った。冗談に聞こえないから質が悪い。

「金はあんのか」
「臨時収入が入ったらな」
「そりゃいつになるんだ。こっちは老い先短い人生なんだ」

 銀時はヘルメットを被り、スクーターに跨る。源外は呆れたように肩を竦める。この銀髪の男は、いい年をして毎日毎日その日暮らしをして安定とはかけ離れた生活をしている。我が息子ならば尻を叩いてやるところだ。
 エンジンが鳴る。その音は、久しく聞いていない威勢の良い赤いバイクのエンジン音を想起させた。あの赤いバイクは運転手を待ちかねている頃だろう。しかし、肝心の運転手は不在だ。
 一般には運び屋は悪質な攘夷浪士だと広められていた。運び屋の名前も出ていたが、かぶき町の住人は彼女を運び屋と呼ぶ者ばかりで、本名など意に介していない。ただ、運び屋が奉行所に捕らえられたという事実だけが街を駆け抜けた。

「あの赤色、次にいつ見られるかね」

 源外はぽつりと言った。銀時は背中でその言葉を受け止めた。
 銀時は源外と別れ、かぶき町を走った。平日の昼間には大概すれ違うか、どこかで見かける赤いバイクはどこにもいない。真っ白な街を駆け抜ける赤色は、人目を引くに違いないのに。
 スクーターを停め、往来の真ん中で声を張り上げている男から瓦版を買う。そこにはここ数日で世間を騒がせたあらゆる事件、事故の速報が載っている。運び屋の名前もある。過激派攘夷志士、鬼兵隊ミョウジナマエと出ている。
 背後に迫る人の気配に銀時は口を開く。

「おまえらが探ってたのってこういうこと?」
「……さあな」

 土方は煙草を指で挟み、煙を吐いた。隊服の上に羽織ったコートのフードには雪が溶けずに残っている。白い街に全身真っ黒い男は世界から浮いている。しかし、まっすぐに立っている。土方は銀時の一歩後ろに立ったまま、瓦版売りの男へ目を向けた。鼻の頭を赤くし、白い息を吐いている。上着で見えないように隠しているが、懐に短刀の柄が見えている。

「あれは瓦版売りじゃねえ。同心だ」

 銀時は眉を顰める。

「同心? なんで同心が」
「運び屋を貶めるために奉行所の連中が手を回している」

 銀時は、ふーん、と生返事をして寄せた眉を平行に戻す。

「まだアイツから報酬もらってないんだよね」

 僅かに微笑んでいたように見えた。しかし、すぐに表情は消え去る。
 踵を返す銀時へ土方は訊ねる。

「商売敵が減るのは大歓迎じゃなかったのか」
「ああ大歓迎だね。でも、飲み仲間が一人減るのは忍びねえのさ」

 銀時は瓦版の薄汚れた紙で大きな音を出して鼻をかんだ。丸めた紙を近場のごみ箱に雑に投げ入れる。
 うっすらと積もった雪の上に足跡が残っていく。あちらこちらで足跡は重なり、じきに雪は消えるだろう。江戸では雪は降っても驚くほど積もることはほとんどない。
 瓦版売りの男は快活に仕事をこなしている。土方はそれを一瞥し、雪上を歩き始める。落ちた灰が、雪に沈んでいった。





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