物心つく頃には既に父親はおらず、私は母と二人暮らしだった。それをおかしなことと思わなかったのは、周囲が私たち親子を遠巻きにしていたせいもあるのだと思う。他人と接触しないということは、平和ではあった。
 冬になると、音もなく雪は降り積もった。粒の大きな雪は降り始めると止むことを知らず、世界から景色を奪っていく。窓の外を見る見るうちに埋めていく、白、白、白。
 石油ストーブの前に座っている母の、赤い半纏を覚えている。華奢な体には大きすぎる半纏。少し背を丸めて、餅を焼いていた。
「どこか、遠くに行きたいね」
 声は覚えていない。ただ、そう言っていたのを覚えている。私は、雪が降ってるから今度にしようと答えた。
 思えば、母は狭い田舎でお荷物の娘を抱え、ずっと息が詰まるような想いで暮らしていたのだ。なにものからも解放され、自由になりたかったのかもしれない。

 母が消息を絶ったのは私が八歳のときだった。湿っぽい雪が降る日、母は買い物に行ってくると言って家を出ていった。しかし、待てども待てども、母は帰ってこなかった。幼かった私は母の言葉を信じていたけれど、三日三晩経っても、ついぞ帰ってくることはなかった。
 異変を感じた村人は私を哀れんだ。子どもに罪はない。繰り返し繰り返し、村人たちが囁く。しかし、村の誰も私を預かろうとする者はいなかった。その代わり、母の筋を辿り親戚を探し出した。父親などいないものだと思い込んでいたけれど、父親は山を挟んだ離れた村にいた。そこで父親は妻と、妻の両親らと暮らしていた。
 どういう経緯で私が生まれたのかは知らない。母は別れた女なのか、妾だったのか。父親にとって私が招かれざる客であることは誰の目にも明白だったが、血を分けた娘に素知らぬ顔をできるほど非情ではなかった。尤も、当時の私があまりにみすぼらしい格好をしていたのも無碍にできなかった理由の一つだろう。
 歓迎はされなかったし、家の者からは日常的に陰口を叩かれていた。しかし、表面上はそれなりに人として扱われていた。一番私を忌み嫌っていであろう義母も、貼り付けた笑顔を崩すことはなかった。雑用係、家に住み着いた鼠とでも思えば、平心でいられたのだろう。
 父親の家へ移って数年経った頃、夫婦の間には男の子が産まれた。待望の子供だった。
 そうすると、私への扱いが途端に悪くなるのは必然だった。血は繋がっているとはいえ、私はなんの取り柄もない穀潰し。少しでも役に立ちたいと家事の手伝いをしようとすれば邪険にされ、義理の弟の顔を見にいくと部屋に入るなと追い払われた。
 ——穀潰し。
 ——きみは、産まれるべきじゃなかったよ。
 父親にまでそう言われた。子供のできない自分に不安を抱えていた義母も、次第に私に対して冷酷になっていった。
 ある年の義弟の誕生日。滅多に食べることのできない、苺の乗ったショートケーキにはしゃぐ義弟の姿が目に焼きついている。無論、私には与えられない。
 明かりの灯る部屋。夜半、家族の賑やかな声を聞きながら、私は家の裏で見つけた蛇苺を一粒食べた。ほとんど味のしない、赤く熟れた実。渇いた体には、気休めにもならない。
 こんなことなら、ずっと母の帰りを待っていればよかった。何度そう思ったか知れない。

 十四歳のときだ。夕刻だというのにひどい眠気に襲われ、気が付いた時には真っ暗闇にいた。足元が揺れ、猿ぐつわを嵌められていた。暴れ回ると弾みで目隠しが外れ、ぬかるんだ土の上に転がった。眼下には崖が広がっていた。思わず後退りをすると、見知らぬ男の足に背中が当たった。顔を上げると私を取り囲むように数人の男が立っていた。
 男たちは私の目を見て、なかなかいい素材だの、すぐに客も取れるようになるだのと話していた。
 困惑と恐怖で震える私に、男は丁寧に状況を説明してくれた。つまり、家の者が私を遊郭へ売り飛ばしたのだ。心がばらばらになって砕けた気がした。
 逃げ出そうとした。しかし、抵抗も虚しく、私は男たちに捕まってしまった。駕籠に押し込められようとしたとき、一人の男が鮮血を撒き散らして倒れた。それを皮切りに次々に男が倒れていく。私の目には月夜に舞う赤い血が焼き付いた。そして、そこに立っていた隻眼に釘付けになった。
 その人は、赤く染まる刀身を払い、顔に飛び散った血を拭った。そして地面に膝を着き、猿ぐつわを外してくれた。

「帰る場所がないんだろう」

 直球で虚飾のない言葉は、すとんと私の胸に落ちた。私には帰る場所がない。逃げ出したところで、どこへ行こうと言うのか。

「この世はどこへ行っても地獄だ」

 まだ生気の消え切らない濁った目玉。鋭利に研がれた刃。目の前に広がっていく血の海。月明かりに照らされる、澱みのない、赤。あの半纏より、苺より、美しく濃い、赤。

「だったらとびきり気持ちが良くて、胸糞悪い地獄を優雅におよいでやろうじゃねぇか」

 月へ向けて歩いていくその背中を、土の上に広がった血を蹴り上げて追いかけた。理由などなく、強烈に惹かれていた。それまでの人生で感じたことがないほど、体中がざわめき立つような感覚。私は、この人についていきたい。
 背中に追いつき、その人の手から血の付いた刀を引き抜いた。初めて握った刀は重かった。しかし、そんな些細な驚きはおくびにも出さず、私は結った髪を引き切った。散っていく髪は、もう自分のものではない。
 地面に転がっている男たちの懐から、金の入った袋を抜き取る。私の売値はこんなものかと拍子抜けするほどだった。悔しいのか悲しいのかわからない。やけになって、駕籠を崖の底へ蹴り飛ばした。

「私も行きたい」





 停泊している船に帰るのは、いつも明け方だった。与えられた部屋で一人、私は自分の体を抱き抱えるようにして蹲っていた。脂汗が止まらなかった。
 さざめく波の音に混じって引き戸が開く。睨むように振り返ると、薄暗い部屋に断りもなく足を踏み入れてきたのは河上万斉だった。鬼兵隊幹部の中でも武闘派で、頭も切れる。彼が信頼を置く一人だった。

「ひどい顔でござる」
「化粧……崩れてるんで」

 吐く息が震えている。爪を立てて自分の腕を掴み、深呼吸をしてから壁に背を預けて座った。サングラスの奥にある瞳が私を見据えている。

「限界ではござらんか」

 夜が開けて日が昇り、私は船に帰ると自分の体を引き裂きたい衝動に駆られる。体を這いずる手や、滴る汗を思い出すたび吐き気がする。大群の虫が足元から這い上ってくるような感覚。夜の間は酒の力や薬の効果もあり耐えられているが、酔いが醒めてしまうと冷静な自分が顔を出し、私を葬り去ろうとするのだ。
 万斉は部屋に入ったものの、一定の距離を置いていた。野生動物だとでも思われているのだろうか。

「主もわかっているだろう。いつまでもそんなことが続けられるわけがない」
「私には他にできることがない」

 万斉のように剣の腕もない、また子のように銃も扱えない。頭も悪く、何をやってもうまくいかない。唯一の武器は、女であることだけだった。あの人のそばにいられるのなら、どんな手を使っても構わない。頼まれたわけでも、もちろん強要されたわけでもなく、私は自ら諜報員として遊女になりすました。幕府に恨みを持つ女が多くいる店を探し出し、自らが攘夷志士であると伝えて客を回してもらった。指名されないことも多かったが、想像していたよりも容易く客は取れた。容易くなかったのは、繋がらない自分の心と体だった。
 売り飛ばされた先にある未来をなぞっているようで馬鹿みたいだと我ながら思った。けれど、大義名分があるのならそれは意義のあることだった。そう、これは意味のあること。言い聞かせ続けた。

「晋助が知らないとでも思っているのか」

 指先が反応する。おそらく彼は私のしていることには見て見ぬふりをしているだけで、気付いている。何も言わないのは、私がどこで何をしていようと関心がないせいだろう。気まぐれで助けた女が勝手にしていることだ。そもそも、彼には私を助けたという意識もないだろう。目に入ったごみを取るような感覚だったのかもしれない。
 万斉だけは明確に私が何をしているのかを知っていた。私が妙な動きをしていることにいち早く気付き、少し前から諭すように部屋へやってくる。鬼兵隊に入ったばかりの頃から何かと私の世話を焼いていたので、負い目を感じているのだろう。
 万斉は人斬りと呼ばれているが、一人間としてよくできた男だった。彼に信頼されている万斉に、私は嫉妬さえしていた。いっそのこと、私も男だったらよかった。卑しい女に生まれたばかりに、こんなに惨めなのではないとわかってはいるけれど、羨むものも憎むものも多過ぎた。
 万斉の足が近付いてくる。その足が真横に来たところで、私はびくりと体を竦めた。万斉は窓を閉めただけだった。

「海風は体に障る」

 私の怯えを目に留めているだろうけれど、それに触れようとはしなかった。そういうところが、また嫌だった。

「近くまた宇宙へ行かねばならん。お主は自分のことを考えていろ」

 船を降りろ。暗にそう言われている。周りから否定され続けていると、卑屈になってくる。人の言葉を肯定的に、額面通りに捉えることなど、もはやできなかった。

「考えることなんてない」
「少しは冷静になれ。お主は一瞬の閃光に目を焼かれているだけでござろう。目を閉ざし、今も現実を見ようとしていない。壊れた兵を連れていくほど拙者らは慈悲深いわけではない」
「頭数にも入れてないくせに」

 肉体も精神も疲弊しきっていた。ままならないことばかりで、自暴自棄になっていたことは否めない。いつも悪いのは私だった。
 万斉は踵を返して部屋を出ていく。脱力した私はその場に寝転んだ。日が経つにつれて、体が少しずつ壊死していっている。腕も足もそのうち腐り落ちて、私はどこにも行けなくなる。

 それから一週間ほど経った頃、私の潜っていた店は攘夷浪士の押し入りに遭い、火事になった。同僚の中に攘夷浪士と繋がっている女がいたのだ。女と懇意にしていた浪士は鬼兵隊のことを快く思っておらず、私のことを出し抜いて鬼兵隊よりも一歩先んじることが目的の一つだった。
 燃える店の中、私の手を引いたのは万斉だった。私の知らないところで網は張られていたのだ。
 やはり私は、どこへ行っても人の足を引っ張る役立たずだった。自分に辟易とするのも飽き飽きなのに、そんな自分を変えることもできない。それなら、もう、誰とも関わらないほうがいいのだ。母と二人で暮らしていたときのように外界との接触を絶ってしまえばいい。
 私の気持ちを知ってか知らずか、そのときは思っていたより早く訪れた。

「船を降りろ」

 煙管から煙が立ち昇っていた。彼は私の顔を見ずに言った。

「おまえの稼いだ金は持っていけ。俺たちには必要のないもんだ」

 幾重にも重なった着物が重たい。塗りたくった化粧は私の表情筋の動きを奪い、伸びた爪は虚しく畳を引っ掻いた。
 あの人についていくということが、より深い地獄へ進むことだと知っていた。知っていて尚、同じ場所にいたいと望んだはずなのに。私が見ているものなんて、あの人の潰れた目に閉じ込めた地獄なんかよりも、ずっと生温いはずなのに。私は、泳ぐどころか息継ぎさえできずに溺れている。
 船を降りて、宛てもなく歩いた。人気を避けるように山道をひたすら進んでいくと、着物の裾は擦り切れて泥だらけになり、鬱蒼と茂った木々の枝で腕や顔に傷ができた。私の足はすぐに棒切れのようになり、歩くこともできなくなった。
 ——どこか、遠くに行きたいね。
 母の言葉が蘇る。母は、遠くへ行けたのだろうか。ねえ、お母さん。私は、どこにも行けないよ。




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