恵まれた環境で育った人間は、きれいな手をしている。惜しげもなく与えられる愛を享受し、それを疎ましく思うことができる。しかし、良家の育ちの彼女を見たとき、私が抱いたのは羨望や嫉妬ではなく、絶望と諦めだった。人はどれだけ裕福でも、衣食住に困ることがなくても、思うままに生きていくことができないのだと知った。人生山あり谷あり。けれど、私はずっと谷の底へ落ち続けているようだ。取っ掛かりに手をかけては自ら崩して落ちていく。
明滅を繰り返していた電球はいつの間にか消えていた。窓のない牢は暗闇に包まれ、時間もわからない。
時折使用人が食事を運んでくる。しかし、私は手を付けなかった。使用人は口をきかない私に溜め息を吐いて、いつも乾いたパンを下げていった。
時間の経過も気にならなくなってきた頃、また足音が聞こえてくる。しかし、今までのものよりも遅い足取り。終いには、躓いたのか「うぉっ」と喫驚している。顔を上げてじっとその人影を待っていると、懐中電灯の明かりが私の顔へ向けられた。目が眩む。
「よお、極悪攘夷志士さん」
明かりが少し下に向くと、ぼんやりとそこにいる人物の姿が浮かび上がる。万事屋さん、と乾いた口で漏らすと、愉快そうに笑われた。
「オメー、ひっでえ顔」
聞き覚えのある台詞だった。しかし、向けられた表情は全く違う。投獄されている人間に向ける顔とは思えない。そういえば、この人は自他共に認めるサディストだった。
髪は乱れっぱなしで、飲まず食わずでいたせいで顔色も悪いはずだ。目の前で嘔吐したこともある仲なので、今更どんなに汚い顔を晒しても構わない。なのに、私はまっすぐに万事屋さんを見られずにいた。長い間暗闇にいて、眠ることもできず、自分の埋めていたものと向き合わざるを得なくなってしまったせいだろう。ちゃちな灯りでもわかるほど特徴的な銀髪を直視できない。
「警備がザルで助かったわ。すんなり入れたぜ」
万事屋さんは歯を見せて不敵に笑い、鍵束を掲げた。擦れて鳴る金属音が耳につく。
冷たい地べたにあぐらをかいて座り込み、万事屋さんは連なった鍵を漁り始めた。錆びた南京錠にひとつひとつ鍵を差し込んでみては、違うな、とぶつぶつ言っている。
私は徐に口を開いた。呼吸の仕方さえぎこちなく、咽せそうになるのを飲み込んで耐えた。
「ここで死にます」
「まだこないだの金もらってねーんだけど」
「本気です。舌を噛み千切って死んでもいい」
金属音が鳴り止む。万事屋さんは手を止め、私を一瞥し、再び手を動かし始めた。金属が擦れる音が耳障りだ。
「本気と書いてマジと読むってか?」
「キャッシュカード、私の家の箪笥の上にあります。私が死んだら持っていってください」
「うるせえよ」
「暗証番号は九二八六」
「うるせえって言ってんだろ」
語気が強まると同時に、格子から伸びた手が私の襟刳を掴む。釣り上がった目は射抜くような光を宿していた。
「死にたきゃ死ねよ。勝手にくたばりやがれ」
腹の底から捻り出すような声。決して大きくはないが、溢れ出る憤りは隠しきれていない。今までどんなに馬鹿にしようと、無礼を働こうと、万事屋さんが本気で怒ったことはなかった。驚きで目を丸くする。
「だがてめーが助けたもんはどうする? 残された奴はどうなる?」
「…………私はなにも……」
「なんであのガキを助けた?」
淀みを知らない大きな瞳。華奢な体。縋るように私を掴む、掌。
「てめーは甘いんだよ。死ぬなら未練残すな」
手が離れていく。私はへなへなとその場に座り込んだ。この世に自分という存在を残すことに、何の価値もないと思っていた。私がこの世を去るとき、この世の誰も私のことなど知らなくていいと思っていた。なのに、少年の泣き顔が浮かんでしまった。あの子が傷付くところは見たくない。自分から突き放したくせに。
体を反転させ、鉄格子に広い背中が預けられる。一瞬荒らげた口調は静閑なものに変わっていた。
「詮索する気はねえよ。俺だって似たようなもんだ。それでも、汚かろうと、てめーのルール曲げずにやってんだ。おまえだってそうだろ。泥水すすってどんなに汚れようと生きてきたんだろうが。散々足掻いて喘いでボロッボロで、それでも生きてきたんだろうが」
この人は、私のなにを知っているのだろう。何も話したことなどないのに、それはまるで、私の道程を解しているかのような口振りだった。
「俺は嫌いじゃなかったぜ。真っ赤なバイクが走り回ってんの見るの。揃いも揃ってバカ面下げて、肩並べて安い酒飲んで、くだらねえ話すんのも、割とな」
床に着いた膝が痛い。右手で額を覆い、左手は固く握り込んだ。物音一つしない牢の中で、私が漏らす息の音がか細く響く。
「俺が知ってんのは、そういうバカな酒飲みの、自由にバイク乗り回してる運び屋だ」
江戸で人混みに紛れて暮らしていくことを決めた。自分の足には限界があることをうんざりするほど知ってしまった私は、街を駆け抜ける無骨でしなやかなバイクに目を奪われた。あれに乗って風を切って走ったら、どんなに気持ちが良いだろう。
そうして手に入れた相棒は、想像よりも私をずっと遠くへ運んでくれた。海は越えられないけれど、宇宙は飛べないけれど、どこへでも行ける。そう教えてくれた。そして、走り回っているうちに顔見知りは増え、運び屋と呼ばれることが当たり前になっていた。
「銀さん、見張りが来るわ」
黒服の忍が階段から音もなく現れた。顔を半分隠しているが、赤い眼鏡と藤色の長い髪は見覚えがあった。万事屋さんはすっくと立ち上がり、鍵束を手の中で弄んだ。
「この先どうするかは、てめーで決めろ。また走りたいなら、その涙は拭いてから来い。てめーの不細工なツラなんざ、誰も拝みたくねえからな」
懐中電灯を拾い上げ、万事屋さんは階段を上がっていった。暗闇の中、女の声が私に向けられる。
「勘違いしないで。私は銀さんに頼まれて仕方なく来ただけなんだから。あなたのことなんか、助けたいわけじゃないわ。あとね、銀さんに不細工って言われて喜んでるんじゃないわよ。私なんてブスとかメスブタとかもっとひどいことまでっあん!」
階段を上がった万事屋さんが女にドロップキックを喰らわせる。「気色わりー声出すな」と万事屋さんは気絶した女を引き摺っていった。
乾ききった目の奥から、生温かい涙がこぼれていった。
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