激しい物音。続く罵声。唾を飲み込み、ドアノブを捻るとあっさりとドアは開いた。耳に痛いほどの怒声が続いてくる。只事ではない雰囲気に、私は靴を脱がずに土足で室内へ踏み入った。
居間には恰幅の良い中年の男と、隅で蹲る大家さんがいた。いつもは物がきちんと納められている箪笥の引き出しが全て開け放たれていた。テレビ脇の食器棚のガラスは割れ、大家さんが大事にしていた西洋食器が粉々に割れて畳に散乱している。睨むように私を振り返った男が、地を這うような声で脅しをかける。
「なんだ、テメェ。出てけ、ここは俺の家だ」
俺の家——? 湧き上がる怒りが、私を突き動かす。ワンカップもベビーカステラも手から投げ落とし、男の胸ぐらを掴んだ。男は一瞬面食らっていたが、すぐさま私の腕を強く掴み返してくる。頭ひとつ分高いところから見下ろされる。私は噛み付くように男を睨め上げる。
「誰の家だって? このチンカス」
「や、やめなさい!」
大家さんが慌てて間に入ろうとする。しかし、伸ばした腕は男に振り払われてしまった。その拍子に、大家さんは足を縺れさせガラス片の散らばる畳に尻餅を着いた。咄嗟に駆け寄ろうとすると、腕を捕まれ私は反対側へ投げ飛ばされた。箪笥の角に後頭部をぶつけ、呻き声が出た。大家さんが私の名前を呼ぶ。
「こんなボロアパートでも、家賃は取ってんだろ。年寄りが金出し渋ってんじゃねえよ」
鈍い痛みが頭に続いている。手を回すと温かい。見ると血が付いていた。大きな舌打ちをして、腰を上げる。
「うぐァッ」
獣のような声に目を向ける。大家さんが胸を押さえ、背を丸めていた。
「大家さん?」
荒い息遣いが聞こえる。男の横をすり抜け、大家さんの元へ走る。足を踏み出すたびにガラスを踏む金属音がした。膝を着いて大家さんの背中に触れると、小刻みに震えているのがわかった。額に脂汗が浮いている。右手は胸に押し当てられ、左手は痙攣し始めていた。もはや言葉も出ない。口から出るのは不規則な呼吸と、吃音のような音だけ。視線を右往左往させ、慌てて立ち上がる。
大家さんの家には、買ったものを渡すために何度か来たことがある。室内の様子はだいたい知っている。しかし、テレビ横の台にあったはずの電話がない。ぶら下がった電話線を追うと、宙に吊られた電話機があった。引っ張り上げて受話器を取り、ボタンを押すが反応がない。ガチガチと音を立てながら、何度もボタンを押す。が、やはり何の反応もない。私は苛立ちと焦燥に任せて男を睨みつけた。
「このっ、クソ野郎!」
大家さんの急変に立ち尽くしていた男が、目を丸くして私を見る。
「電話! 携帯! 救急車!」
力任せに台を叩きつけながら単語だけを叫ぶ。しかし、男は震える大家さんを見つめるだけで動こうとしない。私はまた大きな舌打ちをして、大股で大家さんに駆け寄った。肩を覆うように触れると、その華奢な体は簡単に抱えることができた。固まっている体を抱き上げる。華奢とはいえ、やはり重い。しかし、勢いと火事場の馬鹿力というやつで、私は大家さんを抱えて家を飛び出した。
アパートを出て、路肩の車に目をつける。大家さんを一旦道路にそっと降ろし、家に戻り茫然としている男の頬を張る。ばちんと小気味良い音がした。
「ボサッとすんな! 鍵出せ!」
怒鳴りつけると、男は狼狽えながら懐から車の鍵を出した。それを引ったくり、走って外に出る。大家さんを抱えて助手席に乗せ、運転席に乗り込み、ハンドルを握ると手汗が滲んでいるのがわかった。焦りを払うように頭を横に振り、アクセルを踏み込んで乱暴にハンドルを切った。
鼓動が早い。頭がぐらぐらする。助手席の大家さんを一瞥すると、小さく丸まっている。祈るような気持ちで、私は車を走らせた。途中何度も目が眩みそうになり、そのたびに頬を張った。
必死の形相で駆け込んできた私を見る、受付のお姉さんの顔が忘れられない。支離滅裂なことを騒ぐ私は、きっと不審者以外の何者でもなかっただろう。しかし、事態をどうにか把握してもらって、大家さんを救急病棟に運ぶことはできた。ついでに、私も頭を止血された。幸い縫うほどではなかった。
真っ白い廊下は静まり返っている。無音だ。物音ひとつ聞こえない。熱かった体の芯は、徐々に冷えていく。嫌なことばかりが包帯を巻いた頭の中を巡り、まるで生きた心地がしなかった。
長椅子に座り、膝に上半身を折るように乗せている私の頭に固いものが当たった。頭を滑って床に落ちたのは、私のバイクの鍵だった。
「修理終わったってよ」
隣に人の気配がした。のろのろと顔を上げると、万事屋さんが足を組んでそこに座っていた。行く先々で会うのは、何の因果か。私は鍵を拾い、ポケットにしまった。
「何でここに?」
「源外のじーさんに住所教えていったろ。電話がねえから、修理が終わったら大家の電話に連絡くれって。でも繋がんねえし、行ったらオメー車に乗って爆走していくし。スピード違反で捕まるぞ」
「スピード違反と無免許運転と窃盗です、あと恫喝、傷害……」
「たった一日で大罪人じゃねえか」
万事屋さんが口端を上げる。何がおかしいんだ。
「つーかあの部屋。強盗でも入ったみたいだったな」
「あれは、あのチンカスが……」
「女がチンカスとか言うもんじゃねえよ。その頭もそいつか?」
「これは、大したあれじゃないんで」
万事屋さんは、ふうんと息を抜くように相槌を打ち、どかっと隣に座った。
「なぁんか、アパートの連中か知らねえけど、何人かチンピラみてぇのが集まってたけど」
「あー……たぶん、住人たちです」
大家さんに何かがあったと聞きつけ、皆駆けつけてきたのだろう。私は集中治療室の電光を見遣った。未だ光るそれに、絶望的な気分になる。
「万事屋さん、依頼してもいいですか」
「んぁ?」
「万事屋さんの武勇伝、教えてください」
「何それ」
「静か……なので」
万事屋さんは数拍置いてから「そうさなァ」と話すことを考えはじめた。彼の口から語られるのは、まるで現実味のない話ばかりだった。竜宮城に行ったとか、ゴリラの結婚式に出たとか、吉原の救世主と呼ばれているとか。ことの虚実は定かではない。万事屋とは一体なんなのか、ますますわからなくなってしまった。けれど、止まることのない話は空白の時間を埋め、私は濁流のような思考を堰き止めることができた。
話の途中で、集中治療室の電光が消えた。自動ドアが開き、中から出てきた医者に飛びつく。医者はマスクを外しながら淡々と言った。
「手術は成功です。しばらくは入院していただくことになります」
続いていく言葉は呪文のようで頭に入ってこなかった。とにかく大家さんの命があることに安堵した。医者が去ったあと、私はふらふらと長椅子に戻り、そこに倒れ込むように横になった。震える息を吐き出し、か細い声で呟く。
「よかったぁ」
日の落ちた病院前では、真っ赤なバイクが私を待っていた。
バナナにシュークリーム、ドーナツ、文芸誌に経済新聞。大家さんの病室にはいつもお見舞い品や差し入れが溢れている。しかし、いつも甘いものや読み物ばかりで面白みがない。たまには趣向を変えて塗り絵を買ってみた。若い頃、大家さんが油絵に凝っていたと聞いたことがあったからだ。さすがにキャンバスや絵の具は持っていけないので、妥協案だ。
病室に行くと、そこには銀髪の男が居座っていた。お見舞い品であるはずのカステラを口に入れている。
「何してるんです」
「何って、見舞い持ってきたんだよ」
そう言って万事屋さんはカステラを頬張った。見舞いの意味をわかっているのだろうか。顔を歪める私とは反対に、大家さんはベッドで穏やかな表情のまま、お茶を飲んでいる。
大家さんは数年前から心臓を患っており、定期的に病院に通っていたのだそうだ。住人には心配をかけまいと、一人でタクシーを呼んで病院へ行っていた。もしかしたら、私が日がな一日布団の上で眠っていたときに、大家さんはこっそりと病院へ行っていたのかもしれない。
「言っとくけど、これはアパートのチンピラに頼まれて持ってきたんだよ」
万事屋さんは指についた砂糖を舐めながら注釈を入れた。私は怪訝な顔を向ける。
「自分が病院に行っちゃ目立つからって。ほら俺、何でも屋だから。でもアイツら、おまえが運び屋って誰も知らないんじゃねえの?」
「そりゃ………そうかもしれないけど」
そもそも面識もほとんどないのだから知らなくて当然だ。しかし、私を差し置いて万事屋さんに仕事を依頼するのは解せない。私を見ていた大家さんが、徐に口を開く。
「運び屋さんのことは、ちゃんと宣伝しておいたよ」
万事屋さんを見遣ると、彼はやはりカステラを咀嚼しているだけだった。大家さんは私に笑みを見せ、ゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。
「これからも長く付き合っていきたいからね。家賃を払えなくなっちゃ困るよ」
病室の窓の外、大きなイチョウの木が見える。秋には鮮やかな黄色に染まる葉は、今はまだ、青く茂っている。季節が移ろい、繰り返されるのと同様に、私の心も移ろい、同じところを巡る。私は誰かの言葉や存在ひとつに救われ、そして、繰り返し苦渋を味わう。
家族になろうとして、仲間になろうとして、他者を求め、焦がれるたびに居場所を失ってきた。もう求めてはいけないのだ。重々言い聞かせてきたはずなのに、いざ手を差し伸べられると、どうしようもなくその手を握り返したくなってしまう。それでも踏み留まることができるのは、自分の手が薄汚れているおかげだ。
病室を出ると、万事屋さんがあとからついてきた。ふと私は先日のことを思い出し、彼を振り返る。
「そういえば、この前の依頼の代金、まだでしたね」
「依頼?」
万事屋さんは片眉を上げた。
「武勇伝話してくださいって無茶振り」
「あー、あれか」
だるそうな佇まい、語尾が落ちるような話し方。捉えどころのない雰囲気は、なんとなく、憧憬を抱いたあの人に重なる。姿形も声も全く似ていないのに。
「酒の一杯でも奢ってくれりゃいいさ。貧乏人からなけなしの金むしり取るほど困っちゃいねえし」
「貧乏人はお互いでしょう」
「それは言うな。悲しくなるだろ」
「そうですね。でも、ひとついいですか?」
「なに?」
「チャック開いてます」
「マジか」
海外には、山は山を必要としないが、人は人を必要とする、ということわざがある。
人は他者との交流の中で自分を受け入れ、人であることができる。だとしたら、人を避けて生きているうちは、一体、人は何になるのだろう。
私はとりあえず、運び屋だと答える。今は、それ以外に自分を表すものがない。
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