勝男さんが倉庫のシャッターを開けると、薄暗い庫内には大小様々な段ボールが積まれていた。私はバインダーに挟んだ資料とそれぞれの荷物の宛先を確認し、手に革製の手袋を嵌めた。適当な荷物をバイクの荷台に括り付ける。勝男さんは口に咥えた楊枝を歯で挟み、ゆらゆらと上下に揺らしていた。
 先日の爆弾魔のように土壇場で仕事を請け負うこともままあるが、急ぎでない荷物は勝男さんから借りている倉庫に納められる。配達日に合わせて荷物を持ち出し、それを運ぶ。江戸へ出てきたばかりの頃には何日も仕事がないことも多かったが、今では一日全く仕事がないなんてことは無くなった。それは目立つ赤いバイクのおかげでもあり、きな臭い仕事も多いが私の名前を売ってくれた勝男さんのおかげでもある。正直なところ彼のことはあまり得意ではないが、恩義がある。

「ひと月後、でかい仕事がある」

 シャッターの鍵を投げられ、それを受け取る。勝男さんは「茶斗蘭星は知ってるやろ」と細い目を向ける。茶斗蘭星といえば江戸で幅を利かせている虎のような天人だ。仕事で一度会ったことがある。

「どうもにおう。奴ら、春雨とつるんでるかもしれん。ヘマしたらあかんで」

 春雨――。一瞬の息苦しさを飲み込む。

「……御意」

 一週間先のことを考えると気が重いが、今は目の前の仕事をしなければいけない。
 ハンドルを握り込む。冷たい秋風が落ち葉を散らしていた。






 一軒目――

 大きな屋敷には恒道舘道場と看板が出ていた。剣術道場のようだが、人気はない。廃刀令のご時世、剣術を習うために門を叩く者は稀有だろう。だだっ広い敷地に足を踏み入れ玄関から声をかけると、間も無くしてポニーテールの美少女が現れた。白い肌に大きな瞳、桃色の着物がよく似合っている。

「こんにちは、運び屋です」
「あら、新ちゃん何か頼んでたかしら」

 私は自分の身長と同じ大きさの長方形の箱を差し出した。美少女は首を傾げていたが、着物の袖から覗く華奢な腕でそれを受け取った。大きいが重くはないので、彼女は箱を上から下まで眺めている。「あの、これ中身って」と美少女が私に向き直る。伝票や荷札がないことを訝しがったのだろう。すると、激しい足音が屋敷内に響き渡る。

「姉上ェェェェ! それ、あの僕の! 僕の荷物です!」

 廊下を横滑りしながら現れたのは眼鏡姿の少年だった。少年は慌てて姉から箱を奪おうとするが、姉は手を離さなかった。まだ十代に見えるが、立派な男の子の弟に全く力負けしていない。弟は顔を引き攣らせながら震える手で箱を掴んでいる。反対に、姉は余裕の笑みを浮かべている。

「あ、姉上? 手を離してください」
「新ちゃんこそ、なにをそんなに焦っているの? 私が見たらまずいものなの?」
「まずいことなくなくなくないですよ!」
「なくなくなくないなら手を離したら?」
「姉上そろそろ買い物に行く時間でしょう! 早く行かないと卵の安売りが終わっちゃいますよ!」
「安心してくださいお妙さん! 卵ならこの勲が買ってきました!」

 突如、姉と弟の間にガタイのいい男が現れる。卵のパックが入っているらしいビニール袋を掲げ、自慢げにしている。が、二人は男の登場に暫し硬直し、姉のほうがぎらりと目を鬼のように光らせる。そして問答無用で弟の手を振り払い、箱をバットのように振りかぶって男を殴り飛ばした。

「おのれは何を平然と不法侵入しとるんじゃぁぁぁ!」

 その拍子に箱は破れ、中に入っていたクッションが飛び出した。男と一緒に空を飛んだそのクッションには、際どい水着姿のアイドル、寺門通の写真がプリントされていた。お通ちゃーん! と地面に落ちたそのクッションを一目散に少年は拾いに走る。前面は惜しげもなく胸が見えていたし、背面はほとんど裸なんじゃないかと思うほどお尻も見えていた。思春期の少年のささやかな羞恥心に、不思議と穏やかな気持ちになった。




 二軒目――

 柳生家と言えば、先祖代々将軍家に剣術を指南してきた名家だ。剣術など全く興味はないが、荘厳なお屋敷は目を奪われるものがあった。紅葉の季節、舞い踊るもみじやイチョウの葉によってそれは趣を増している。
 手入れの行き届いた庭を眺めながら歩いていると、糸目の男が私を出迎えた。どうやら私が来る前から庭先で待機していたらしく、肩には落ち葉が乗っていた。

「こんにちは、運び屋です」
「ああ、待ってましたよ」

 お荷物です、と段ボールを渡す。糸目は満足げな表情でそれを受け取った。その背後の屋敷の廊下を隻眼の青年が通る。小柄だが凛々しい顔付きをしており、一目で柳生家の人間だとわかった。

「東城、客人か?」
「ああ、若! ちょうど良いところに」

 青年は怪訝な顔をしているが、糸目は嬉々として段ボールを開け始めた。中から出てきたのはフリルやリボンをふんだんにあしらったワンピース。所謂、ゴスロリ衣装だった。青年がすっと表情を消していく。

「荷物の中身がわかってしまうと若にすぐに燃やされてしまうと思い、運び屋に依頼したのですよ! ささ、早速着替えてみましょう!」
「東城、何度も言うが僕はこういう服は着ない」
「そんなこと言わずに! 絶対似合うから! 絶対可愛いですぞ若!」
「くどい!」

 鞘に収まったままの刀を振りかぶり、青年は糸目を殴り飛ばした。
 ――あれ、デジャヴ?
 落ち葉と共に舞う男の淡い髪色が眩しかった。
 



 三軒目――

 届け先はとある茶屋の前だった。バイクに跨ったまま辺りを見回していると、ふと喉に冷たい感触が当たる。

「動かないで」

 息を呑む。背後から聞こえた女の声はどすが効いていて、私の体は動きを止めた。全く気配がなかった。
 昼過ぎの茶屋には客足がなく、店員も引っ込んでいるのか誰もいなかった。私は瞬時に何かの罠だったのかと様々な可能性を考えたが、答えは出ない。女は首に当てた刃物を引くことはしなかった。

「ブツは持ってきたの」

 ああ、そっち方面の人だったか。私は悟り、顎を僅かに動かして頷く。
 女は刃物を下ろし、出しなさい、と冷たく言い放った。私は荷台から縦長の段ボールを下ろし、女へ渡した。女はラベンダー色の長い髪をしていた。笠の下から赤い眼鏡の縁が見える。
 女は段ボールの上部のテープを剥がし、中身を引っ張り出した。それは私の知り合いでもある万事屋さんを模したビニールの人形だった。ぎょっとする私とは反対に、女は恍惚とした様子で頬を染めて宝物のようにそれを抱きしめた。

「オーダーメイドした甲斐があったわ。これでいつでも銀さんと一緒ね」

 万事屋さんの恋人だろうか。しかし恋人なら、わざわざ人形なんて作らないか。それに万事屋さんに恋人がいるなんて聞いたことがない。
 目を点にしていると、急に女が私をきっと睨む。

「そうだ。あなた、時々銀さんとしゃべってるわよね」
「えっ?」
「一緒にお酒も飲んだりする仲みたいだけど自惚れないでちょうだい。銀さんはね、あなたみたいな女、全っ然興味ないんだから。あなたなんかただの飲み仲間としか思われてないんだから」
「……私もそうとしか思ってませんけど」

 女の言っていることがよくわからずに困惑しつつ答える。すると女は突然絶叫した。 

「あーっ! 何なのその余裕綽々アピール! あなた銀さんのドSプレイに耐えられるの!? 私はどんなハードプレイも楽しめるわ! 銀さんが望めばどんな辱めだって受けるわ! あなたには無理でしょ!? 無理って言いなさい、無理って言いなさいぃぃぃ!」
「ちょ、こわ! 何この人怖い!」

 鬼気迫る女から逃げるようにしてバイクを走らせる。万事屋さんがちゃらんぽらんだから、あの人の周りにはおかしな人が集まるのだろう。背中に叫び声を浴びながら次の配達先へ向かった。




 四軒目――

 バイクを花屋の前に停めさせてもらい、私はピンクの薔薇やガーベラでまとめられた花束を持って目的地へ向かっていた。花束なんか持ったことがなかったので、いまいちどのくらい力を込めて持てばいいのかわからなかった。あんまり強く握るとすぐに枯れてしまうような気がして、私は腫れ物を扱うようにそっとそれを持っている。しかし、届け先になっている場所はそんな私の柔らかな配慮とは離れた場所だった。
 かまっ娘倶楽部。有象無象が行き交うかぶき町の中でもディープな世界。前を通ったことはあるが、店内に入ったことはない。私は花束を腕で抱えて携帯電話を開き届け先を確認する。届け先に間違いないが、何かが間違っているような気がする。

「あらぁ、まだ開店前よぉ」

 私に声をかけたのは、顎の長いおかっぱ頭の女――と言っておく――だった。

「こちらの従業員の方ですか?」
「そうよ。あら、そのお花」

 彼女は私の抱える花束に目を留めた。そして「てるくんね」と頬を緩めた。私は「てるくん?」と繰り返す。依頼主のことを知らないというのは利点であるが、不便なこともある。

「でもあの子、まだ帰ってこないのよ。もうそろそろ帰ると思うんだけど」

 彼女はその長い顎に人差し指を着き、悩ましげに腕を組んだ。てるくん、あの子、という言葉からてるくんとは彼女にとって庇護するべき立場の人物なのではないかと思った。
 不意にかまっ娘倶楽部の入り口が開く。現れたのは艶やかな着物姿の青髭を残した大男だった。その姿をオカマと称するには生易しすぎる。

「バ……」

 私は出掛かった言葉を既の所で飲み込む。べちんと掌で口元を押さえるが、私を見下ろす大男は耳聡かった。

「今バケモノって言おうとしたわね」
「とんでもない」

 大袈裟に首を横に振ると、大男はふんと鼻を鳴らした。着物の上からでも筋骨隆々な肉体がわかる。かぶき町四天王の一人、西郷特盛だ。会ったことはなかったが、かぶき町で四天王の名を知らずには生きていられない。幕府だの将軍だのといった雲の上の存在よりも、この町では圧倒的に四天王の名が大きく力を持っている。

「アゴ美、アンタ買い出しに何時間かかってんのよ」
「あずみよママ! さっきいい男にナンパされちゃって」
「寝言は寝て言いな。夢見てる暇あるならちゃっちゃと仕事なさい」

 吐き捨てられ、アゴ美と呼ばれた彼女は本当なのにぃと体をくねらせた。そこへ一人の少年がやってくる。大男はパッと顔を明るくした。アゴ美はあっと眉根に皺を寄せた。

「あら、てる彦おかえり」
「ただいま……っあ!」

 少年は私を見て、と言うより花束を見て声を上げた。そして、おろおろと狼狽し始める。大男は首を傾げていたが、アゴ美は少年に目配せをしていた。濃いアイシャドウを塗った目で何度もウィンクをしている。やがて少年は意を決したように強く頷き、私の前へつかつかと歩み寄ってきて、花束を受け取った。そして、その花束を抱えて大男の前へ立つ。

「と……母ちゃん、これ、いつもありがとう」

 大男は差し出されるがままに花束を受け取ったが、きょとんとしていた。

「今日、母の日? 父の日?」
「どっちでも母ちゃんには同じだろ」 
「ママ、てるくんはいつも頑張ってるママにって、お小遣い貯めてプレゼントしてくれたのよ」

 アゴ美が口を挟む。すると大男は見る見るうちに目に涙を溜め、少年をその太い腕で抱きすくめた。

「てるくぅぅん! アンタって子はぁぁぁ!」
「か、母ちゃん苦し……」

 少年が腕の中で呻いている。アゴ美は涙ぐみながら鼻水を啜っていた。




 五軒目――?

「姉ちゃん、いいバイクに乗ってるね」

 公園のベンチで一休みしていると、サングラスをかけたおじさんに声をかけられた。夕暮れ時になり冷たい風が吹いているというのに、羽織に薄い肌着一枚で寒々しい格好をしている。私は甘い缶コーヒーのプルタブを押し上げ、一口飲み込む。乾いた喉にそれはゆっくりと染みていき、胃に落ちていった。
 おじさんは私が了承する前に、私の隣に座った。

「よく言われます」
「やっぱり? しかしゴツいのに乗ってるねぇ」

 おじさんは懐から煙草を取り出して火を付けた。夕日に照らされた火種はすぐに色を失い、煙になって断ち消える。

「荷運びするのに華奢じゃあ困ります」
「もしかして飛脚?」
「運び屋です。ご入用の際はどうぞご贔屓に」

 ジャケットの胸ポケットから名刺を引っ張り出しておじさんへ渡す。おじさんは煙草を唇に挟み、しげしげとそれを眺めた。

「運び屋っていうと、なんか怪しい感じがするけど」
「偏見です。私は健全な運び屋です」
「じゃあ人間を運ぶなんてことはしないんだ?」

 夕焼けが男の顔半分に影を作っている。サングラスの下に見える目には生気がない。名刺を渡したあとに気が付く。おそらくこの人に支払い能力はない。今にも首でも吊りそうな雰囲気がある。私は内心でしくじったなあと思いながら、しかし一応は男の問いに答える。

「お金次第ですかね」

 冗談半分、本気半分。指でお金のマークを作って見せると、男は苦笑した。

「金ならさぁ、あとでいくらでも払うから……俺を明るい未来に運んでってくれない?」
「あ、そういうのやってないんで」

 コーヒーを飲み干し、項垂れるおじさんを置いて公園を出た。



 六軒目――

 日はすっかり落ち、街には人工的な明かりが灯り始める。眩い光が辺りを照らしているが、私のバイクのヘッドライトの明かりは少し頼りなかった。そろそろ交換時期だろう。
 バイクをスナックお登勢の脇に停車する。一升瓶の酒の入った箱を荷台から下ろし、引き戸を開けた。

「こんばんはー」

 煙草を吹かしていたお登勢さんが「ああ、来たね」と私を迎える。カウンター席には万事屋さんが一人酒を呷っているだけで、お客は他にいない。私は箱をお登勢さんの前に置き、万事屋さんの隣に座った。流れるように従業員のからくり家政婦、たまさんがおしぼりと水を持ってくる。もう一人の従業員、キャサリンは私のことも万事屋さんのことも客として見ておらず、テレビを眺めていた。昭和歌謡が延々と流れている。

「今の今まで仕事かい?」

 お登勢さんが酒の入った箱を開けながら訊ねる。中身の酒はお登勢さんが懇意にしている酒屋の新酒で、市場に出回る前にと依頼があり運んできたものだ。私はたまさんにビールを頼み、「ええまあ」と答えた。

「繁盛してるねぇ。どっかの家賃も払わない天然パーマとは大違いだよ」

 一升瓶を掲げ猪口を差し出されるが、私は首を横に振った。お登勢さんにと預かったものを私が真っ先に飲むわけにはいかない。お登勢さんは猪口を下げようとしたが、万事屋さんが手を伸ばす。その手をお登勢さんに叩かれ、万事屋さんは大袈裟に顔を顰めた。

「俺は真っ当に生きてるんだよ。真っ当に生きてりゃ家賃二ヶ月や三ヶ月払えなくなって当然だろうが」
「真っ当に生きてりゃ家賃溜め込まねーよ! てめーその酒代倍にしてツケといてやっからな!」

 万事屋さんは既にほろ酔い状態だった。私はビールを受け取ってぐいと呷る。労働後のビールは格別美味しい。最後に妙なおじさんに会ってしまって微妙な心持ちだったが、全てが洗い流される。
 今日、万事屋さんのビニールの人形を抱きしめていた女に会いました、と言いたくなったが、口を噤む。仕事のことは言えないし、何よりあの女の異様な気迫は恐ろしかった。
 背筋に悪寒が走る。背後を振り返るが、人気はない。

「なに? 急に振り返んなよ」
「なんか良くない気配が……」
「え、やめてくんないそういうの。いや怖くはないけど、気持ち悪いじゃん」

 万事屋さんは青褪めた顔で乾いた笑いをこぼす。私は気を取り直してビールを飲んだ。
 店内にぽつりぽつりとお客が入り始める頃になると、ほろ酔いだった万事屋さんの目はだいぶ虚ろになり、私も意識がぼやけてきた。たまさんは忙しなく動き回り、キャサリンはお客と熟女の魅力について口論を交わしていた。

「万事屋さんって仕事どのくらいあるんですか?」

 素朴な疑問をぶつけると、万事屋さんは頬杖を着いてつまらなそうに答えた。

「今は閑散期なだけで、普段はもーバンバン依頼が来るよ。そりゃもう電話鳴りっぱなしよ」
「へえ。意外に頼りにされてるんですね。こんな死んだ目の魚……あれ?」
「いやそれ違うね。それだと銀さん魚になっちゃうね。死んだ魚の目ね」

 あ、自分で言っちゃった、と万事屋さんが呟く。いざというときにはきらめくと言うその目が、実際にきらめいている様を私は見たことがない。
 喧騒は時間の経過を忘れさせ、気付けば日付が変わっていた。万事屋さんがカウンターでいびきをかいて寝始めたので、私は店を出た。寒さに手がかじかみ、外していた手袋をしてバイクを押してのろのろと帰路に着いた。ひんやりと冷たい空気が火照った肌に心地良く、鼻歌を歌いながら歩く。どこかで聞いた、古い悲恋の歌。どこで聞いたんだっけ。
 後ろから車のライトが近付いてくる。道の端に寄ったが、車は徐行運転で私のすぐ脇まで近付いてきた。赤提灯の御用という文字が目に入る。

「よう、運び屋」

 聞き覚えのある低い声。助手席から顔を出したのは、黒髪、瞳孔の開いた瞳のチンピラ警察、土方十四郎だった。きっと素面なら一目散に逃げるところだが、酔っ払いの私は舌足らずな口調で呑気に挨拶をした。

「あれ、お勤めご苦労様ですー」
「酒くさ! てめー飲み過ぎだろ」

 土方十四郎は顔を顰めた。足を止めた私に合わせてパトカーも停車する。運転席には私が爆弾を渡した地味顔の隊士が座っていた。私はまた呑気な調子で「何か用ですか?」と訊ねた。足元がふらつき、開いた窓枠に手を着けると、私の吐息にまた顔を顰められる。

「そっちから話しかけといてその態度どうなんですかぁ」

 土方は舌打ちをして、苛立ちを抑えるように短く大きな溜め息を吐いた。

「てめーのこと、いろいろと調べさせてもらった。この前のじゃあ何の調べもつかなかったからな」
「あー爆弾ですか? だからあれは冤罪ですってば」
「おまえ、良家の生まれのお嬢様らしいじゃねえか」

 私はゆっくりと瞬きをした。頭の奥で意識を張り詰める。

「その辺じゃ結構有名な家だそうだな。おまえの名前はすぐに出てきたよ。しかし両親に決められた許嫁との結婚が嫌で、惚れた男と駆け落ちして行方知れずになってるとか。よくある話でつまらなかったぜ」
「……バカだと思ってるでしょ」

 顔だけで笑顔を作り、首を傾げる。

「おまえの両親に訊いたら今では後悔してるって虫のいいことを言ってたぜ。帰ってきてほしいらしいが、帰る気はないんだろう」
「そうですねえ。クズみたいな家でしたから」
「親と揉めたときに、手の甲を切ったと言っていたな。それも気にしていたぜ、おまえの親父さん」

 切れ長な目が窓枠に着いた私の手に移る。手袋をしているのでその下は見えない。

「父親が娘を傷物にしたんですから、後悔くらいじゃ安い……」
「その傷をつけたのは母親だ」

 容赦無く刺さる低い声。目の前の男は無表情だった。私も多分、表情がなかったと思う。
 土方は繰り返す。その傷をつけたのは、母親だと。そして、冷たい笑みを浮かべた。

「その手、傷なんかないんじゃねえか」
「酔っ払いに取り調べですか」

 私は苦笑した。素面でない相手に、そのやり方は些か卑怯だ。

「てめーの免許証の写真を両親に見せた。娘じゃないと言っていた」

 土方は懐から私の運転免許証のコピーを出した。取り調べを受けたときのものだ。
 火照っていた体が徐々に冷えていく。体温は奪われていくのに、脳の奥で歯車が熱い火花を散らしている。目の前がちかちかと光って眩暈がする。赤い、提灯の色。赤い、自由の色。私はあの日、自由になったはずだった。

「顔を変えるのは簡単だが、傷を完全に消すなんてできやしない」

 突き刺すような力を持つ眼差しが私を貫く。呼吸が浅くなっていくのを感じた。しかし、足は微動だにしない。ここで立ち去ったらどうなってしまうのだろう。
 窓枠に置いていた手が離れる。それは横から現れた銀髪の外力によってのものであり、私自身の意思ではなかった。目の前を塞いだ白い着流しの背中は、私に負けず劣らずアルコール臭を撒き散らしている。その匂いに、土方は声を荒らげた。

「くっさ! てめーも酒臭えな!」
「ああん? 開口一番それかよ。失敬なやつだな」

 万事屋さんは私の前に立ち塞がり、パトカーに頭突きする勢いで前のめりによろけた。運転席の地味顔の隊士が「旦那ぁ」と困ったように言っている。知り合いらしい。
 舌打ちをした土方に押しやられ、万事屋さんが後退りする。その背中を支え、銀色の髪を見上げる。

「万事屋さん、なんで」
「なんでって、ババアに叩き起こされたんだよ。女一人で夜道歩かせんなって。そういやおまえも女だったもんなぁ」

 面倒そうに首を掻きながら万事屋さんは言った。吐く息が酒臭い。その匂いをまともに嗅いでしまい、私は途端に体に溜め込んでいたビールが体内を駆けずり回るのを感じた。冷や汗が毛穴から溢れ出す。間も無くして吐き気が這い上がってくる。口元を押さえ、うっと呻いてパトカーに背を向ける。

「え? オイ、吐く? ここで吐くなよ、オイって!」

 冷え始めていたはずの体が熱い。パトカーは溜め息と共に夜道に消えていった。
 私の視界の端に映る赤は、街灯のない道でぽつねんとそこに置き去りにされていた。 





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