窓の外ではちらちらと雪が降っていた。隙間風に身震いし、充電器に挿したままの携帯電話を手繰り寄せる。部屋には時計がないので、私はいつも携帯電話で時間を確認する。八時四十七分。枕に顔を埋め、渋々体を起こした。今日の仕事は気が重い。
 アパートを出て、バイクに跨る。窓から手を振る老齢の男性――大家さんに手を振り返し、ヘルメットを被ってエンジンをかけた。
 雪が止む頃には目的の場所へ到着した。郊外にある人気のない遊園地だ。敷地の外には枯れ木が無造作に立ち並び、奥には煤けたビルも見える。灰色の空の下、観覧車が物悲しく回っていた。
 寒さをものともせず駆けていく子供を目で追いかける。少ないが、一応は客足もあった。私はメリーゴーランドの前、三つ並んだベンチの真ん中を見遣り、待ち人が来ていないことを確認した。笑顔の眩しいホットドッグ屋のお兄さんにマスタード多めでホットドッグを頼む。受け取ったホットドッグにかぶりつく。鼻の奥がつんとして噎せた。

「運び屋だな」

 反射で振り向いた私の間抜けな顔は想像に容易い。背後に立っていたのは茶斗蘭星人だった。頭はまるきり獣だが、体躯は立派な人間だ。

「信頼のおける運び屋と聞いていたが、どこにでもいる地球人じゃねえか」

 私は頬張ったホットドッグを急いで飲み込む。向けられる品定めするような目。咳払いをひとつして、口元を拭った。

「仕事はします」
「当然だ。これを頼む」

 黒いスーツケースを渡される。それはずしりと重く、思わず腕が下がる。届け先は江戸中心部の高層ビルの地下フロント。ただの商業ビルと記憶していたが、地下があるとは知らなかった。荷物の重みといい、穏やかでない仕事とは察したものの、私は黙って仕事を遂行するしかない。無駄話はせず、荷台にケースを括り付けた。

 遊園地を離れ、江戸の街へ入る。巡回中だろう真選組のパトカーが見え、私は直進するところを迂回した。
 面倒な連中に目をつけられてしまった。ヘルメットの中で苦虫を噛み潰す。こんな一介の運び屋を本腰を入れて調べ上げるほど、警察は暇なのだろうか。ほかにもっとやるべきことがあるだろう。ハンドルを握る手に力が入る。しかし、元は私が撒いた種だ。昔からそうだ。私は詰めが甘い。
 大通りを外れ、街中の小道に入っていく。狭い道路を走っていくと、不意に目の前に猫が飛び出してきた。はっとしてハンドルを握り、急ブレーキをかける。猫は一瞬足を止めたが走り去り、無事だった。しかし、その拍子に荷台からスーツケースが離れてしまい、地面を勢いよく滑っていってしまった。
 バイクを道の端に停め、転がったスーツケースを立て直す。嫌な音がしたのでもしかしたらと思ったが、案の定、鍵部分がひしゃげている。僅かに開いた隙間から、呻き声のようなものが漏れた。私は息を呑んだ。
 荷物の中身を見ることはご法度だ。けれど、いずれにしてもケースを動かせば、鍵は外れてしまうだろう。
 動物? 人間? 前者であることを祈る。せめて意思疎通のできないものであってくれ――。
 恐る恐る鍵部分に指を引っ掛ける。中に納められていたのは六、七歳の少年だった。

「う……」

 少年は狭い空間で膝を折り、背中を丸めていた。想像できていたとは言え、目の当たりにすると言葉が出てこない。蓋を開けっ放しにしたまま愕然としていると、近所の住人が物音を聞きつけて屋内から姿を現した。考える前に蓋を閉め、スーツケースを抱え込んで路地裏に逃げ込んだ。中身を知ってしまうと、それは尚更重たく感じた。





 京の冬は芯から冷えるような寒さだった。小窓の外では雪が降っており、山崎は来たばかりなのに帰りの電車の心配をしていた。
 囲炉裏のある部屋に通され、旦那は無愛想にお茶を置いて店のほうへ戻っていった。遅れて丸顔の女が現れ、山崎はあいさつもそこそこに協力報酬として現金を入れた封筒を渡す。女は中身こそ見なかったが、その厚みを手で確かめていた。
 古い家、小さな八百屋。生活はそれほど豊かではなさそうだった。

「彼女は私に自由をくれた恩人です」

 女はしみじみと言った。金を受け取ったことも、警察と対面していることも、そんな恩人を売るような行為だと理解しているのだろうか。

「でも、私が彼女のことで知っていることなんて何も……」
「なんでもいいんです。戸籍上も彼女はあなたであることになっているんですから」

 女は過去を回想するように目を伏せた。膝の上で組んだ手の甲には細く変色した痕があった。

「彼女と会ったのは、私が彼の家から隠れて帰るために使っていた山道でした。彼女は、夜逃げでもしてきたようにぼろぼろでした」
「夜逃げですか」
「着物の裾が擦り切れたり袖が汚れてたり。私の曽祖父が呉服屋をしていて、着物のことは少しだけ齧ったことがあるんですが、着ているもの自体は上等なものでした。とてもきらびやかで、派手な柄だったのを覚えています」
「ぼろぼろというのが気になりますね。何かに追われていたのでは?」
「さあ……でも、あまりにひどい様子だったし、自分と同じくらいの年に見えたので、放っておけなくて」

 女は近場の山小屋へ運び屋を連れていき、手当てをした。彼女が持っていたのは巾着一つだったが、その中には大金が詰められていた。名前も、どこから来たのか訊ねても彼女は答えなかった。その瞳は暗く澱んだ水底を映したようだったそうだ。運び屋は、その日の晩を小屋で過ごした。

「何日か、小屋に住まわせたんですか」
「住まわせたというほどではないんですけど。食事を少し、運びました。なんだか野良猫を拾ったような気分でした。あ、ひどいですね、こんな言い方」

 失言だと女は口元に手をやった。山崎は構わず訊ねる。

「彼女は自分のことを話しましたか?」
「いえ」
「戸籍を明け渡すというのは、あなたの提案ですか」
「ええ、はい。彼女は何も話さなかったけど、のっぴきならない事情があるのは一目瞭然でしたから。私は自分が家から逃げるために彼女を利用しました。逃げるにも、お金は必要ですから」

 厳格な家で育ち、恋した男と結ばれることも叶わないと絶望していた女は、自身を捉えるものを取り払うため、運び屋に自身のすべてを渡した。そして家出をする資金として、戸籍の対価に運び屋から金を受け取った。女は男と駆け落ちし、新たな名前を得た運び屋は、どこか遠くへ行くのだと言ったそうだ。その間、ほんの数日の出来事だったという。
 ――私の名前でいいの?
 女は両親が自分のことを捜索するのではと危惧して訊ねた。運び屋は暗い目をしていたが、逃げるのは得意だと不敵に笑ってみせた。女は彼女に訊かれるがままに自分の生い立ちを話した。あとから、それは不測の事態が起きたときのために自分を証明するための保険だったのだと気付いた。結局のところ、手の傷を母親か父親のどちらから付けられたものかまでは訊かなかったようだが。

「あなたは何も訊かなかったんですか? 彼女のこと」

 山崎の問いに、女は遠慮がちに頷く。

「はい……私は、彼女が少し怖くて」
「怖い?」
「今の彼女のことはよく知りませんが」

 女は手元の免許証のコピーを見た。

「ささくれだって真っ黒な目をしていて、不気味だったから」

 部屋の暖簾を潜り、旦那が顔を出す。客が来てる、と短く女に告げ、すぐに引っ込んでいった。恰幅の良い男だが、女よりは少し年下に見えた。
 山崎はこれは捜査ではなく単なる興味だと前置きしてから「旦那さんとは駆け落ちしてからずっとここに?」と訊ねた。すると女は苦笑した。顔の面積の割に小さな口で、愛嬌がある。

「実は駆け落ちした人とは別れてるんです」
「えっ? じゃあ、あの旦那さんは」
「二人目の旦那です」

 人は見かけによらないものだとありふれたことを思った。しかし、もしも運び屋がその事実を知ったら、どんな顔をするだろうか。息巻いて男と逃げたのに、結局は別れてしまっているなんて。
 帰り際、土産だと自家製の糠漬けを渡された。幸せそうな顔で、彼女に会ったらありがとうと伝えてくれと言われた。山崎は複雑な心境で頭を下げた。





 息を潜めていると、やがて人気は消えていった。ヘルメットを外し、鮮明になった視界で道に人影がないことを確認する。壊れたスーツケースの蓋を開けると、少年は瞼を擦りながら体を起こした。伸びをして欠伸をして、きょろきょろと辺りを見回す。幼いが、利発そうな顔をしている。
 
「……ここどこ?」
「……言ってもわからないと思う」
「お姉さんは誰?」
「言ってもわからないと思う」

 少年はぱちぱちと瞬きをした。そしてなんの前触れもなく弾かれたように駆け出す。私は慌ててその腕を握った。細くて柔らかい感触は、彼が紛うことなく人間だと知らせている。
 ああ、やばいなぁと頭の外側で冷静な自分が言っている。じゃあどうするの? って、どうするの。自問自答を数秒の間に繰り返す。
 少年は足に目一杯の力を込めて踏ん張っているが、華奢で体も出来上がっていない少年に負けるほど私は軟弱ではない。少年は絞り出すような声を出した。

「離してよ……!」
「無理。お姉さんも仕事だから」
「うちに帰る!」

 少年が語気を強める。非力な体は微塵も前に進んでいない。

「そんなこと言ったって」

 つい、帰るところなんてないよ、と口走りそうになってしまった。開いた口をそのままに代わる言葉を探していると、少年の体からみるみるうちに力が抜けていく。

「うちに……」

 声にも力がなくなっていく。完全に少年が脱力したあと、私は腕を離さないまま、そろりと正面へ回り込んだ。少年は俯いて、大きな瞳に涙を溜めていた。まるで宝石のような美しさだった。子供の涙は濁りがなくて透明だ。

「ぼくは捨てられたんだ」

 こぼれ落ちる涙が痛いほど悲しみを訴えてくる。子供の扱いに慣れているわけでもない私は、どんな言動を取ればいいのか皆目検討がつかない。ましてや、ただの荷物として渡された少年に、誰が情けをかけろと言うのだろうか。
 少年は大粒の涙を流しながら、それでも声を上げないように唇を噛み締めていた。私はどうしたものかと頬を掻いて、ひとまず使い物にならなくなったスーツケースを処分するために腰を上げた。少年が縋るような目で見上げてくる。私はきみをどこか良くない場所へ放らなくてはいけないのに、そんな風に見られても困る。脳内には胴長短足のメルちゃんのつぶらな眼差しが過った。犬や猫のほうがまだよかった。そんなひとでなしなことを思う。

「どこへいくの?」
「これ、見つかるとまずいの。似たようなの買わなきゃ」

 私は壊れたスーツケースを指差した。少年はかぶりを振った。

「どこにも逃げない」

 黙り込む私の考えを読んだ少年が先手を打つ。

「うそじゃないよ。だって、ぼくは捨てられたんでしょ?」
「悪いけど、私は何も知らない」
「いらない子だってずっと言われてたんだもん」

 鼻水を啜りながら少年は言った。泣いている割に落ち着いているのは、ずっと予兆を感じていたからだろう。大人が思っているよりも子供は聡い。些細な空気の変化を感じたり、大人たちの会話を理解したりすることはできる。
 私は渋い顔で深く息を吐いた。しゃくりあげる少年のつむじを見下ろす。

「先に言っておくけど、お姉さんは善人じゃないから」
「ぜんにん?」
「これからきみを連れていく場所がどこだろうと、私は見て見ぬ振りをするよ」

 少年は言われていることを半分くらいはわかってくれたのか、こくりと頷いた。そして、まだ涙の膜の残る目を向ける。

「お姉さん、ぼく、うどんが食べたい」
「うどん?」
「たまごの乗ったやつ」

 少年は控えめな声で呟くように言った。もしかしたら、もう二度と好きなものを食べることができないと思っているのかもしれない。届け先のビルの地下に一体何があるのか知らないが、こんな幼い子供を連れていくのだから何となく予想はつく。しかし、最後の晩餐がうどんか。いや、最後になるのかはわからないけれど、娑婆で食べるのは最後かもしれない。
 私は口内の苦い唾液を飲み下した。時間制限はされていない。私は少年の頭にヘルメットを被せた。少年は首を竦め、慣れない重みに頭を支えるように手を添えた。
 時刻は十一時三分。近場のうどん屋へ向けて、バイクは走る。





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