その日も、私と坂田さんは場末のスナックで安酒を呷っていた。約束はしていない。ただ、思考回路や安上がりな舌が似通っているのか、街で鉢合わせるのは珍しくなかった。どこ行くの? 一人? なら俺もお邪魔するわー、なんて言ってついてくる。万年金欠な坂田さんは、誰かと一緒に飲めば割り勘か奢ってもらえることを前提にして図々しく隣に座るのだ。厚顔無恥な男だと思いつつ、私はそんな坂田さんが嫌いじゃなかった。
嫌いじゃない、という控えめな想いが、いつの間にやら、むしろ好きかもしれないに変わり、気が付いたときには好きに変わっていた。見栄えのしないビフォーアフター。そもそも、出会ったときから惹かれてたのだろう。
「うんんん」
よくわからない呻き声を上げる坂田さんを見下ろす。簡素なベッドの上で横向きになっている太い腰。
――私は一体、なにをやっているんだ。
休憩三時間三千円以下という激安ラブホテルの一室で私は頭を抱えていた。統一感のない雑貨や申し訳程度のライトがこちらを見ている。ベッドサイドの百円均一で売ってそうな籠にはコンドームが数個入っている。
いつものように二人で飲んで、ほとんど泥酔状態の坂田さんが二軒目へ行こうと言い、坂田さんほど酔っていなかった私は、行きましょうと頷いた。どちらから歩き出したのか覚えていない。でも誘導したのは私のほうだった。
ホテル街へ着いて、千鳥足の坂田さんに肩を貸して部屋まで連れ込んだ。室内に足を踏み入れるなり、坂田さんは無邪気な声で布団だぁとベッドに倒れ込んだ。いい年してるくせにかわいいな、と思った。
シャワーを浴び、部屋に戻り、いびきをかいて眠る坂田さんを見て正気に戻った。爛れている。私が。いくら貞操観念の緩そうな坂田さんと言えど、こんな風に酔った相手と一線を越えようなんて自分の倫理観に引く。
なるべく坂田さんと距離を取り、ベッドの隅に座って項垂れる。もしも私が男で坂田さんが女だったら、抱えて今すぐにもで部屋を出るのに、現実は立場が逆だ。筋肉質で体格の良い成人男性を抱えられるほど私は筋骨隆々な女ではない。引きずるくらいはできるかもしれないが、たぶん坂田さんの頭がすり減る。
途方に暮れていると、ベッドのシーツがずれていくのをお尻で感じた。坂田さんが寝返りを打っている。人の気も知らないで呑気に寝やがってと恨みがましく睨んでみるが、涎を垂らした寝顔が愛しく見えてしまう。手遅れだ。もう呆れるほど好きみたいだ。
ごろんと身を翻した坂田さんは、ベッドからはみ出て床に落ちた。うぐ、と声がして、私はベッドに乗って様子を窺った。何が起きたのかわからないという表情で坂田さんは天井を見ていた。
「起きましたか?」
数度の瞬きのあと、坂田さんはむくりと半身を起こした。辺りを見回し、私をぼんやりと見る。
「ここどこ?」
「……どこでしょう」
「…………ラブホ?」
沈黙が続いた。坂田さんはベッドサイドに目を向け、コンドームに視点を置いた。そしてものの三秒で顔から汗を垂れ流しはじめ、弩にでも弾かれたように飛び上がった。壁にへばりつき、じりじりと出入り口のドアへ近付く。
「未遂だよな!」
「えっ」
「まだなにもしてないよね俺たち!」
私は頷いた。しかし、坂田さんは胸を撫で下ろすわけでもなく、焦った表情のままドアノブに手をかけた。
「だ、だよね! じゃ、じゃあ俺もう帰るわ! あ、部屋代……」
「部屋代はいいです、私が」
「マジで! いやごめん! マジごめん!」
そう言って坂田さんは部屋を出て行った。走る足音が聞こえてくる。私はベッドに倒れ込んだ。皺の寄ったシーツは坂田さんの形をしているような気がする。気がするだけだけど。
浅ましい自分の行動に後悔が押し寄せてくる。でも、唯一の救いは酔った勢いで一線を越えなくて済んだことだ。きっとそうなってしまったら、坂田さんは二度と私と気軽に会ってはくれないだろう。
◆
考えが甘かった。一線を越えなければまた会えるんじゃないかと思っていたけれど、あれから三週間経ったというのに未だに会っていない。以前は週に一回、多ければ二、三回は顔を合わせていたのに。私の行動範囲は変わっていない。すると答えは自ずと出てくる。
「そりゃ避けられてるね」
口にしないことで決定的な答えを出さないようにしていたのに、隣のマダオは事も無げに言った。酒臭い息を吐き出し、おでんの大根を切り分けている。
私にとっては明日世界が終わってもいいくらいの絶望だった。もしかして、このまま一生、死ぬまで会えないんじゃないだろうか。
「酒癖を改めるために銀さんも一回こっぴどい目に遭ってるから、きっと敵前逃亡したんだと思うよ」
「敵ですか、私は」
「斯くいう俺も、そのとき銀さんと……」
長谷川さんは頬を赤らめる。私は聞きたくない、と大将へわざと大きな声でがんもどきを注文した。
真偽は定かではないが、長谷川さんとでさえ関係を持った坂田さんが、私相手には尻尾を巻いて逃げ出した。酔いが醒めてしまったせいもあるだろうけれど、据え膳というやつではなかったのだろうか。私は坂田さんが相手なら別に良かったのに。
また爛れた方向へ思考が向き始め、振り払うようにがんもどきへ齧り付く。想像より熱くて舌先を火傷した。口内を冷やすためにビールを飲む。
「ちょっと、あんまり飲みすぎないでよ?」
「これが飲まずにいられますかってんです」
「同じ轍を踏まないようにしてよ」
「心配しなくても長谷川さんとそうはなりません」
「え? なんで勝手に振られた感じになってるの?」
楕円型の月が出ている。おでん屋で長谷川さんと別れて、半端な酔いを抱えて夜道を歩いていた。どうせなら記憶を飛ばすくらい飲んですべて忘れてしまいたかったけれど、いかんせん私は酒に強いのでそう簡単には潰れない。一人でどこか別の店に行こうか考えながら宛てもなく歩を進めていると、不意に肩を叩かれた。
「お姉さん、一人?」
金髪と髭の若い男二人が立っていた。男たちはにやにやと笑みを浮かべており、品定めするように私を上から下まで見ている。
「すみません、友達を待たせてるので」
「ちょーっとちょっと」
足早に去ろうとするが腕を掴まれる。
「友達って女の子? ならちょうどいいじゃん、俺らと遊ぼうよ」
なにがちょうどいいのか、考えるだけで怖気が走る。私は目一杯の力で男の腕を振り払おうとするが、反対側から肩に腕を回されて逃げられない。
「まあまあいいじゃん。付き合ってよ」
「いや、だから」
後ろ髪を掴まれて顎が上がる。
「騒いだら殺すぞ」
沈んだ低い声が耳元で囁く。背中を押され、通りを離れて路地裏へ入っていく。光の届かない暗がりへどんどん突き進んでいくと、肩に回っていた腕が突然離れていった。金髪の男が地面に顔を擦り付けながら滑っていく。髭の男が目を丸くして振り返るので、私も振り返る。月夜に浮かぶのは銀色の髪。
「何しやがんだテメェ!」
髭の男が拳を振り上げて向かっていく。坂田さんはものも言わず、男を木刀で殴り飛ばした。煤けた壁に男は背中を打ち付け、昏倒した。
呆気に取られる私の手を坂田さんが引く。暗い路地裏から月明かりの照らす場所へ。
「おまえ、ふらふら一人で出歩くんじゃねえよ」
手が離れて、険しい顔で坂田さんが私を見下ろす。もう一生会えないなんて思っていた矢先だったのに、意外にもあっさりと再会してしまった。何を言うべきなのか迷って、言わなくてもいいことをこぼす。
「長谷川さんと飲んでました」
「あっそう。それは楽しそうで何より」
「坂田さんはもう会ってくれないと思ったから」
坂田さんがいる。声が聞こえる。安堵からか、遅れて手が震え始めていた。
「会ってくれないって、普通会いたくねえだろ」
崖の淵に這い上がってきたつもりが、また突き落とされそうになった。指一本で支えているような状況だ。
「酔ってホテル連れ込むような野郎の顔なんざ、見たくないだろうが」
その口振りに違和感を覚えた。坂田さんは、ばつが悪そうに頭を掻きむしっていた。
ホテルに連れ込んだのは坂田さんではなく、私のほうなのに。
「私が」
「あ?」
「私が坂田さんを連れ込んだんです」
「……え?」
「ごめんなさい、私、坂田さんのことが好きで、下心しかなくって、坂田さんのこと何にも考えてなくって」
ごめんなさい、と勢いよく頭を下げる。謝ったはいいものの、顔を上げるのが怖い。自分の爪先をじっと見つめる。坂田さんが深く息を吐いている。呆れられた。下心しかないなんて言わなければよかった。確かに、あわよくば坂田さんとそういう関係になりたいと願っていたけれど、くだらない話をして一緒にお酒を飲んで笑い合えれば、それだけでよかった。
視界が滲んでくる。しかし、決意を固めなければいけない。恐る恐る顔を上げると、反対に坂田さんはその場にしゃがみ込んでしまった。
「あーよかったぁ」
手で口元を覆っているので声はくぐもっていた。
「嫌がってんのに無理やり引っ張り込んだのかと思って超焦ったわ」
「……私は坂田さんなら嫌じゃないです」
「そういうこと女の子が言うんじゃありません」
「本当です」
「本当なら尚更だろ」
膝に手を着いて、よっこらしょと坂田さんは立ち上がる。
「俺、意外と堅実派なんだわ」
「堅実?」
「とりあえず、ここから始めようや」
大きな手が差し出される。おずおずと手を伸ばすと、包むように握られる。坂田さんが目を細め、微笑む。手から顔、顔から全身へ熱が伝播していく。ホテルへ連れ込むまでしたのに、階段の一段目でこんな状態でこれからどう先へ進もうというのか。堅実派だという坂田さんの歩幅は、意外に大きかった。
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