濡れた土の上に不自然な轍ができていた。この辺りには配送業者の倉庫がいくつかあり、急カーブが続いている。標識で注意喚起はされているが、曲りきれずにセンターラインを超えて走る大型車がままある。ここ二日で、そう気付いた。
 道路の端から端までを眺め、横断歩道のない道を渡った。蔦の生えた柵に囲まれた公園に人影はない。木陰のベンチに深く腰掛け、早速煙草に火をつける。肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。紫煙は立ち昇り消えていった。ようやく人心地がつき、満足感に脱力した。
 何度目かの江戸全体での禁煙推奨週間。往来で煙草を吸えば白い目で見られ、ただでさえ数少ない喫煙所は続々と封鎖されていく。喫煙者を迫害するような扱いには辟易とする。煙草を悪とするのではなく、ルールを守らない喫煙者を悪とするべきだ。そういう点では、俺は比較的まともな喫煙者だと思う。ヘビースモーカーであることは否めないが。
「おじさん」
 一本目を半分も吸い終えないうちに、至福の時間は終わりを告げた。漂う雲を追っていた目を下ろせば、六、七歳の少女が立っていた。艶のある髪が陽光に照らされ、天使の輪を作っている。その手には、パステル調のパッケージに彩られたしゃぼん玉キットがある。
「おじさんじゃねえ」
 ガキから見ればおじさんと呼んで違和感ない年齢だろうが、プライドが許さない。しかし、少女は耳を貸さない。女が人の話を聞かないのは年齢関係ないらしい。
「おじさん、おまわりさん?」
「迷子なら年齢氏名住所を言え」
「知らないひとには教えちゃいけないって言われてる」
 至極真っ当なことを少女は真面目な顔で言った。俺は煙草を咥えて「あっそう」と流した。教育が行き届いているようで何よりだ。
「おじさん、そこどいて。そこでしゃぼん玉するの」
 少女はしゃぼん玉キットを突き出した。公園にはベンチがもう一つある。数メートル先のベンチを顎でしゃくり、あっちですればいいと言うと「あそこすぐ上に木があるの」と首を横に振られた。確かにそのベンチの真上には大木から伸びる枝がのさばっている。しゃぼん玉は高くまで飛ばないだろう。しかし、俺だってここを譲る気はない。ベンチの脇にあるスタンド灰皿が動かないのだ。携帯灰皿もない。
 長く紫煙を吐き、尻を動かしてひと一人分の場所を空けた。ここに座れと叩くと、少女は従順にぴょんと跳ねて隣に座った。
 小さな手がビニールを開ける。水色の容器にストローをじゃぶじゃぶと浸し、少女はふーっと息を吹いた。細かい透明な泡が飛ぶ。俺は紫煙を空に吐く。
「おじさん、それ楽しいの?」
「おじさんじゃねぇ」
 もう一度訂正し、楽しくて吸ってるんじゃねえよと付け足した。少女はふぅんと唇を突き出す。
「じゃあこっちにしなよ。もう一個あるから、おじさんにあげる」
 ピンクの容器とストローを差し出される。ガラス玉のような双眸に見つめられ、押し切られて受け取る。両手が塞がり、咥えていた煙草をストローを持った右手の指で挟み、火種を灰皿で揉み消した。
 しゃぼん玉——自分で遊んだ記憶がない。いや、総悟がガキの頃、やったような覚えもある。手の中のピンク色を見ていると、少女が首を傾げる。
「やりかた知らないの?」
「知ってるわ」
 遊んだことはなくても、原理は知っている。容器の蓋を開けてストローを浸ける。少女は相変わらず細かいしゃぼん玉を次々に生み出している。俺はゆっくりと息を吹き込み、巨大なしゃぼん玉を作る。宙に浮かんだそれに、少女ははしゃいで喜んだ。
「うわぁ、大きい」
 尻を浮かせて「わたしもやる」とストローを咥える。小さな球に徐々に息を吹き込む。しかし、それは宙に舞う前に呆気なく弾けた。少女は落胆した。子どもの感情の発露は明確でわかりやすい。
「むずかしい。おじさん、じょうずだね」
 もうおじさんと呼ばれようとどうでもよくなった。どうせ訂正したところで聞きゃしない。
 しばらく並んでしゃぼん玉を作り続けた。弾けて消えるしゃぼん玉。こんな生産性のない遊び、誰が考えたのだろう。これを作り出した奴は相当暇だったに違いない。
 公園の外の道を数人の子どもが駆けていく。少女と同じ年頃に見えた。公園の時計塔を見ると、ちょうど十六時を回ったところだった。日が高いので気付かなかったが、夕方と言っていい時間だ。そろそろ戻らなければいけない。
「おじさん、わたし帰るね」
 こちらが帰ると言う前に、少女がベンチから降りた。風で髪が靡いている。申し訳程度の警察らしさで「家は近いのか」と訊ねた。少女はこくりと頷いた。
「すぐそこ」
「知らない人には教えちゃいけないんじゃなかったか」
「うん。でも、知ってるおじさんになったからいいの」
 少女がにっこり笑う。頬にえくぼができていた。
 




 道幅が狭い割に大型車が多い。道路を見ながら思った。二本目の煙草を咥え、火をつける。屯所でも自由に吸えない今、公園での喫煙時間が貴重なものになっている。幸い、人気のない昼間に来れば文句を言う輩もいない。しかし、それもすぐに終わる。
「おじさん、キンエンってなに?」
 しゃぼん玉の少女が来るからだ。今日はスケッチブックと十二色の色鉛筆を持っている。
 少女が来ると、煙草を揉み消す。大の大人なら気にしないが、さすがに子どもの肺を真っ黒にするのは気が引ける。
「おじさんみたいに煙草吸ってるひとのことを言うの?」
 一丁前に緑の色鉛筆を目線の高さに上げ、片目を瞑って画家の真似事をしている。
「厳密には違うが……」
「おじさんはおまわりさんなのに悪いことしてるの?」
 喫煙者を悪者にする、どこぞのワイドショーでも見たのだろう。あんなものは、演出でいくらでも印象操作ができる。論点をずらして本質から目を逸らせようとする。
「悪いのは煙草でも喫煙者でもねえ。規則を守らない奴だ」
「きそく?」
 少女はきょとんとした。耳馴染みがないのだろう。俺は言葉を言い換える。
「あー、たとえば、廊下を走らないとか」
「きまりのこと?」
「そうだ。それを守らないと」
「怒られる」
「それで済めばいいが、罰を受けることもある」
 少女は白紙の上に手を揃えて置き、何かを思案してこちらを見上げた。
「謝ってもだめなの」
「人間は賢くねえから、間違いを繰り返す。それに、謝って済まないこともあるだろ」
 少女は難しい顔をした。子ども相手にする話ではなかったか。しかし、昨今の教育はずいぶん緩くなっていると聞く。自由を履き違えるような人間になってはいけない。いや、教師でもない俺が口を出すことではないし、そもそも自分自身に学がない。
 過ぎた発言に気付いたものの、真剣に悩んでいる姿に横槍を入れるのは憚られた。尿意を催し、公衆トイレに向けて腰を上げる。が、立ち上がった途端に脛に衝撃が走った。
「うごっ」
 鈍い声が口から飛び出て、その場に頽れる。どこから持ち出したのか、少女が太い木の枝を持って立っていた。
「このクソガキ、なにしやがる……!」
 悶絶しながら睨め上げる。少女は俺が噛み付くとでも思っているのか、枝を構えて防御の姿勢を取っている。
「おじさんがきまりを守らないから、バツをあげた」
「はぁ?」
「だって、キンエンって煙草を吸っちゃいけないんでしょ? おじさん、守ってないじゃん」
「……あぁ?」
 禁煙週間とはいえ、必ずしも煙草を吸ってはいけないわけではない——はずだ。いろいろと言い訳は浮かんでくるが、上から講釈を垂れた手前、ひとつも口から出すことができない。脛はびりびりと傷んでいる。罰という意味ではこれ以上ないほどぴったりだ。それに不意打ちだったせいで、尿が飛び出そうになった。辛うじて踏ん張ったが危なかった。子どもの前で失禁など鬼の副長以前に男として一生の恥だ。
 痛みが引いてきて、咳払いをして立ち上がる。見下ろした少女は眩しそうに目を細めていた。俺の真上で太陽が燦燦と輝いている。
「ごめんなさいは?」
 少女は腕組みをした。順番がおかしい。
「……普通そっちが先だろ。謝る前に罰与えてどうする」
「ちゃんと謝ったらゆるします。ごめんなさいは?」
 顔を明後日の方向に向け、小さく舌打ちする。少女が枝を構えたので「わかったわかった」と手で制する。ある種、鬼に金棒だ。こちらが手を出せないのをわかってやってるなら質が悪い。渋々声を絞り出す。
「ご……ごめんなさい」
「よし、ゆるします」
「なんで上からだ」
「ジュドーキツエンは子どもにあくえいきょうだって言ってたよ」
「面倒くせえ言葉を覚えやがって」
「おじさんはヤンキーみたいな話しかただね」
 少女は枝を放って、ベンチによいしょと座った。スケッチブックを広げ、色鉛筆を握る。スタンド灰皿の上の細かい灰が風でこぼれる。少女の元へ飛びそうになるので、横に座って遮った。尿意も引っ込んでしまった。
 少女は俺の動きに目もくれず、白紙に色をつけている。しかし、ふと思い出したように顔を上げた。
「謝っても、バツを受けなきゃいけないの?」
 まっすぐ目を見ながら喋る奴だ。子どもっていうのは、こういうものだろうか。
「おまえは順序逆だったろうが」
「おまえじゃないよ」
 少女はむっとして自分の名前を俺に教えた。古風とも今風ともとれない名前だった。しかし、覚えやすい名前だった。
 少女は肩を竦め、再び色鉛筆を滑らせる。描き殴っているのではなく、きちんと風景を捉えている。俺は横目で、そこに青く茂る木々や、赤いブランコが増えていくのを眺めた。なかなか上手かった。
「謝ったら、ゆるしてあげられたらいいのにね」
 ぽつりと少女は言った。そのときは、目を見なかった。





「クセェですね」
 すれ違いざま、総悟が言った。振り返ると、総悟はわざとらしく鼻を摘み手を払う。くぐもった声で繰り返す。
「クセェでさァ、土方さん。禁煙週間だってのに、どこで吸ってるんですかィ」
「どこでもいいだろ」
 軽く遇らう。朝から喧嘩する元気はない。
「そういや、最近見廻り一人で行ってますよねぇ。今日は俺もお供しまさァ」
「断る」
 薄ら笑いを浮かべる総悟を撒いて、屯所を出た。常に副長の座を奪おうと虎視眈眈と狙っているような奴だ。奴が付き纏ってくるのは、俺の弱味を握らんとしているときだけ。万一にも公園に行っていることがバレた日には、いたいけな子どもに受動喫煙を強いる不良警官だの、話が飛躍して淫行罪を吹っ掛けられかねない。屯所を離れても、気が抜けないのだ。
 人波に逆らい歩いていく。あの公園は市街地から離れたところにある。あるものと言えば、寂れ始めた商店街と民家の合間にある小さな店だけ。
 鼻腔をパンの焼ける匂いが抜ける。ガラス窓の向こうに焼きたての複数のパンが並んでいる。俺は思いつきで店に入った。いらっしゃいませーと声がかかる。ぐるりと店内を回り、ひとまず、マヨネーズとハムとコーンの乗ったパンをトレイに乗せた。あとは種類が多過ぎてどれを選べばいいのかわからない。にこやかな笑顔で歩み寄ってきた若い女の店員に、適当にいくつか選んでもらった。
「あ、子どもの好きそうなのにしてくれ」
 パン屋の袋を下げて公園に向かう。渡された袋の中には、クリームパン、カレーパン、クロワッサンなどメジャーなものの他に、ベーコンの入った名前の知らないものもあった。まあ、パンはパン。名前なんてどうでもいい。どれか当たりがあるだろう。
 いつものカーブに差し掛かると、電柱の下に花が供えてあった。白い花だ。歩いていれば、たまに見かける光景だ。さして気に留めず素通りした。
 公園に着き、いつものベンチに座る。早速煙草に火を付ける。あの少女が来るまでしばらく一服。
 一服のはずが、気づけば灰皿に吸い殻がどんどん溜まっていく。時計塔はもうすぐ十七時を指すところだ。パンの袋が風で靡く。
 今日は来ないのだろうか。俺も毎日来ているわけではないし、そんなに気にすることではないのだが——。
 大型車がエンジン音を鳴らして走っていく。そういえば、寺子屋帰りの子どもも見ていない。辺りはしんと静まり返っている。それを打ち破ったのは、キイキイと車輪の軋む音だった。目を向けると、公園の外を乳母車を押して進む老夫がいた。一歩ずつ、ゆっくりと進んでいる。
「じいさん」
 柵越しに声をかける。乳母車に乗っていたのは犬だった。耳の大きい小さな犬。まん丸い目を向けてくる。老夫は目をしょぼしょぼと瞬かせ、しかしはっきりと「こんにちは」と頭を下げた。
「あの献花、いつの事故のもんだ」
 道路の先、電柱の下の白い花を指差す。老夫は、やはりゆっくりとそちらを見上げた。
「あれはもう、何十年も前だよ。おれがまだ大工仕事してた頃。小さい女の子でね、事故で」
 記憶を掘り起こすように、老夫は白髪を掻いた。ご両親は事故のあと、すぐに引っ越したからねぇ。だから、あの花は近所の人だろうね。老夫は、それは痛ましかったと皺を深くして目を伏せた。目尻にシミがいくつも浮いている。
「いくつくらいの子か、わかるか」
「ううん、六歳くらいだったかな。おれはその頃、この辺で仕事をしてて……ああ、そうそう。この公園で、よく絵を描いてた。しゃぼん玉も好きでね、よく遊んでた。一人でいるもんだから、一回だけ一緒に遊んだことがあったかな」
 息を呑む。隣に座っていた、少女の顔が過ぎる。まさか、そんなことがあるわけがない。話したし、枝でぶん殴られたし、しゃぼん玉も一緒にした。
 突風が吹き荒ぶ。青い葉が舞い散り、土埃が足元を撫でていく。鼓膜を風が塞ぐ。
「おじさん!」
 鈴を転がすような声が風の間を縫って飛び込んでくる。道路を走ってくる、少女の姿がある。
 まっしぐらに駆けてきた少女は、額に汗を滲ませて俺の前で立ち止まった。
「おじさん、待ってたの? ねえ、しゃぼん玉持ってきたの。また大きいの作って!」
 茫然とする俺に、少女が首を捻る。どうしたの? と見上げてくる。
「やあ、久しぶりだねえ」
 俺の代わりに老夫が声をかけた。少女は老夫に向き直り、「おじいちゃん久しぶり」と笑った。そして乳母車の犬にも「キナコも久しぶり」と挨拶して頭を撫でた。犬は舌を出して息をしている。俺は呆気に取られて、その様を見ていた。
「じいさん、コイツが見えるのか」
 少女がすぐさまコイツじゃないよ、と不満げに声を上げた。我ながら馬鹿みたいなことを訊いた。しかし、老夫は不思議そうにするだけだった。俺は、いや、と濁し、閉口した。まさかお化けだと思ったなんて言えない。
「あっ、おじさん。あのパン、うちのおとなりさんのパンでしょ! おいしいんだよねぇ」
 パンはベンチに置きっぱなしだった。少女は無邪気に「食べていい?」と振り返る。俺は「ああ」と頷いた。少女は早速袋の中を眺め、どれにしようかと嬉々としてパンを選び始める。安堵したような、拍子抜けしたような複雑な心持ちで俺はそれを見ていた。
「そういえば、お父さんとお母さんは仲直りしたのかい」
 老夫が少女に訊ねる。少女はクリームパンを取っていた。
「うん。お父さんね、いっしょうけんめい謝ってて、そしたらお母さん許すって。でもひどいよねぇ、お母さんが大事にしてたお洋服、ペンキでぐちゃぐちゃにして。でも仲直りしてくれてよかった。いごこち悪かったもん」
 話が掴めない俺に、老夫が助け舟を出す。
「あの子のお父さん、塗装屋でね」
「ああ……」
 気の抜けた返事をする。やけに物思いに耽っていたのは、そのせいだったのか。
 少女がクリームパンの包み紙を剥がそうとするので、慌てて止める。「手洗ってからにしろ」と言うと、少女ははたと動きを止めて公園の隅の水飲み場に走っていった。
 踊るように走る背中を、優しい眼差しで見ていた老夫が徐に口を開く。
「昔は、子どもが生まれてすぐに死んでしまうなんて、ざらにあったんだよ」
 昔話に付き合うのは趣味じゃない。しかし、老夫の滔滔とした語り口に自然と耳を傾けていた。
「子どもが大きくなるのは、当たり前じゃない。奇跡みたいなものだからね。少しでも元気に育ってほしいもんだよ」
 手を洗った少女が戻ってきた。きれいになったよ、とわざわざ見せびらかしてくる。細く小さな手指は水滴を纏い、きらきらと光っている。ハンカチくらい持ち歩け。
「おじさんもおじいちゃんも、パン食べよう」
「ご相伴に預かろうかね」
 老夫が乳母車を押す。しかし、何分歩みが遅いので、公園の敷地に入るのも時間がかかる。犬は自分で歩いたほうが速いのに、さも当然といった顔で動こうとしない。それ以前に、俺には犬を歩かせない意味がわからない。
 一足先にベンチに座り、少女と並ぶ。しゃぼん玉キットを脇に置き、老夫を待ちきれない少女はクリームパンに齧り付いた。俺はマヨネーズのパンを出した。ふと見れば、健やかな血色の頬に、クリームがついている。
「おじさん、何?」
 じっと見ていたせいで、少女が訝しげにこちらを見上げてきた。俺は持ち歩いていたマヨネーズを握る。
「あー……マヨネーズ食うか」
「いらなぁい」
 地面に程遠い場所にある足が、ゆらゆらと揺れていた。
 




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