※性描写注意
雨の日は客入りが悪い。
夕方過ぎまで降り続いた雨のせいで、人気は少なかった。赤提灯の並ぶ通りのすぐ裏手、いつもなら待っていれば二、三人通るのだけど、今日は人っ子ひとりいない。
夜鷹は映画館の前で、煙草を吸っていた。館内は暗闇。前時代的な雰囲気を残すピンク映画館で、営業は数年前にやめたらしい。自動ドアの施錠が甘く、客が来ると大抵は中で行為に及ぶことができた。カップルシートなら痛くないが、そこへ行く前に、カウンターや床でおっ始める客もいる。薄汚い商売女なら、ぞんざいに扱ってもいいと思ってるのだ。そういうときは、自分の人権は彼方に消えたものと考える。もう目視できないほどに。
濡れたアスファルトに、吸い殻が三つ落ちている。翳る月を見上げ、四本目の煙草を咥える。
ふいに、足音に気が付いた。ライターを袂に戻し、屋根の下から様子を窺う。
ざり、ざりと地面を軽く擦りながら歩いてくる音。一人。だるそうな歩き方。しかし、一定のリズム。酔っているわけではなさそうだった。
目の前を、男が通る。屋根の下から出て、その腕に縋る。思いのほか、太く逞しい腕にぶつかった。
「火、持ってますか」
見上げると、微かに頭髪が光っていた。白い髪に、一瞬筋肉質な老人かと見紛う。しかし、腕の肌触りは滑らかで、顔も皺一つなかった。見下ろす瞳に居竦まりそうになる。一目で、客にはなり得ないと感じ取った。
「あー、アンタね。はいはい」
腕に添えていた手を取られる。不潔だと手を払い除けられることはままあるが、事務的に、平然と手を握られたことはない。大きな掌に手を包み込まれる。
「悪いんだけど、ここで商売するのやめてくんない? そっちの店から苦情がきてんのよ。イカくせえって」
男らしい、低い声。しかし、耳心地のよい低音だった。男が指差す先には、煌々と輝く赤提灯がある。今日は賑やかな声も聞こえない。
なるほど、面と向かって言うのは嫌だから、他人を差し向けてきたわけか。夜鷹は男の手を振り払う。
「それだけ言いに来たの? わざわざご苦労様」
あなたもこんなことで使われて大変ですね、という労いを含めたつもりだったが、険がある言い方になってしまった。まあいい。客じゃないなら。
「こんなとこで客取れるの」
男は気にしてなかった。会話を続ける気はなかったので、「別に」とやはりつっけんどんに返す。袂からライターを出して煙草に火を灯す。
男は「ふうん」と相槌を打つだけだった。踵を返し、ひらひらと手を振って去っていく。
「じゃ、そういうことで。よろしくメカドックー」
夜鷹は一息紫煙を吐き出し、男を見送った。焼き鳥屋にでもいたのだろうか。炭と汗の混じった、男臭い匂いがした。
ここで商売をするなと言われて素直に動くほど従順ではないが、執着もなかったので移動した。
疎らな明かりを辿るようにふらふらと歩く。空気を吸い込むと、肺まで底冷えするような寒さだった。
ゆるやかな弧を描く橋を渡る。欄干に手を滑らせていくと、ささくれが掌に刺さった。痛い、と口から出ることはなかった。見ると、人差し指と中指の付け根に棘が刺さっている。
棘を抜こうと目を凝らしていると、「あれ」と声が聞こえた。橋の向こう、枝垂れ柳の影に人が見える。柳に隠れて見えなくなり、再び現れる。あの、白髪の男だった。
「なあに、行くとこねえの?」
「……あるように見える?」
「どうするつもりなの」
「どうって」
ゆったりと近付いてくる男。夜鷹は掌に目を落とし、棘を弄った。動かすとちくりと痛む。
「この辺誰も通らねえし、呑み屋街とかのほうがいいんじゃない。今なら酔っ払いのおっさんで溢れ返ってるぜ。一晩くらい世話してくれんだろ」
あ、世話すんのはアンタか。と実に余計な一言を足し、男は耳をほじりながら横を通り過ぎる。放俗な物言いから、ある程度はそちらの常識に通じている人間と見て取れる。しかし、この街ではやくざ者でなくても、そういう卑俗な輩はごまんといる。おしなべて不躾で、自分勝手だ。
「じゃあな」
男からは、炭の匂いも汗の匂いもしなくなっていた。一変して石鹸の匂いがした。冷たい夜に仄かに熱気を放っている。おそらく、銭湯にでも行ってきたのだろう。
夜鷹は匂いを鼻腔に残し去っていく男を、何も言わずに送った。今度は、背中を見ることはなかった。
ふいに夜風が吹きつけ、くしゃみが出た。街娼は男を誘うため、皆薄着だ。さすがに羽織は着ているが、気温にそぐわない格好であることに違わない。夜鷹も着物に羽織り、中には下着だけという軽装だった。
ふうっと息を吐き、気を取り直して欄干に凭れる。掌の棘を爪で摘み、抜く。薄らと小さな傷ができている。それを見つめていると、やや早足で白髪の男が戻ってきた。俯き気味だった顔が上がると、男は眉間に皺を寄せていた。
「来い」
傷のついた掌を掴まれる。乱暴な握り方に、夜鷹は目をしばたかせた。
✳︎
銀時は、自分のことをお人好しだとは思っていない。ただ、見過ごせないものは、人より多いと思うときはある。
女の手を握り、夜の街を歩いた。女は抵抗もしなければ、声すら出さない。銀時は風俗なら行ったことはあるが、街娼には手を出したことはない。管理されている女たちと違い、華奢な手は驚くほど冷たかった。
馴染みの道を進み、適当な宿に入る。代金を求められ、財布から札を数枚出すと見事に小銭だけが残る。明日は食材を買わなければいけないのに。しかし、今更遅い。千円札はカーテンの引かれた小窓の奥へ吸い込まれていった。
階段上がって、突き当たりを左。番頭の嗄れ声に言われた通りに進む。もう丑三つ時だが、微かに物音のする部屋もあった。音だけならいいが、男の喘ぎ声なんか聞こえてきたら萎える。いや、そういうつもりで来たわけではないけど。
入り口の襖はシミだらけだったが、室内はわりと整えられていた。尤も、奥に小さなちゃぶ台と座布団が二つあるだけで、ほとんどのスペースを布団が埋めてしまっているので、畳の状態などはわからなかった。しかし、布団は薄くないし、枕も大きめで、白いシーツも清潔感がある。
「けっこうきれいだな」
感心して銀時は布団に座った。女の手は離してある。振り返ると、入り口で突っ立ったままの女と目が合う。初めて見たときの、色を湛えた目ではない。少女のような表情をしていた。
「ああ、言っとくけど、そういうつもりじゃねえよ。別に、俺も今晩寝る場所なかっただけだから」
見え透いた嘘を咄嗟についてしまった。すぐに「凍死されちゃ夢見も悪いし」と続ける。
女は銀時と少し距離を置いて、布団に腰掛けた。髪が肩から鎖骨に降りる。細い肩に羽織は重そうに見える。広く開いた胸元からは、なだらかな曲線が見えた。
「凍死はしないわ」
「わかんねえだろ」
女の重みで布団が沈む。
「だって今まで、死んでない。意外に頑丈みたい」
雪が降ればわからないけど、と女は微笑んだ。落ち着き払った様子だった。男と密室で二人きりなんて日常なのだろうから、当たり前か。だとしたら、さっきの少女のような顔は何だったんだろう。銀時は女の顔を一瞥した。そこにいるのは、娼婦に違いなかった。
女からは、漂う程度の煙草の匂いがした。しかし、その奥に甘い匂いを持っている。香水か、女特有のものかわからない。しかし、本能を擽る、甘美で自然と鼻を寄せたくなるような匂いだった。
いや、でも、そういうつもりじゃないんだって。危ない橋は渡らないんだ、俺は。新八や神楽に、なんて言うんだ。
二人の顔が思い浮かび、近付きそうになるのを堪えた。違和感を与えないよう、なるべくスムーズにちゃぶ台に向かい、電気ポットのコードをコンセントに挿して湯を沸かす。
「長えの? そういう……」
女の生業をどう言っていいか口澱む。そちらが提示してくれれば楽だ。女は銀時の言いたいことをすぐに察した。
「ここ一年くらい……かな。一年は経ってないけど」
「それまでは、何してたの」
「それまで……は、普通に、過ごしてた」
歯切れが悪い。道端で会ったときは、もう少し強気な印象を受けたが。
「言いたくねえなら、いいけど」
思いのほか、ポットから早く湯気が立つ。一度沸かしてあったのかもしれない。
丸い茶櫃の蓋を開けると、急須、湯呑みが二つ、緑茶のティーバッグが入っていた。
ティーバッグの袋を破り、急須に入れる。お湯を注いで少し待つ。
「聞いてもつまらないから」
ちゃぶ台の前で腰を捻る。女は布団の上で、足を崩して座っている。膝からふくらはぎが、淡い照明に照らされていた。物憂げな眼差しを、睫毛が紗のように覆い隠す。声色の静謐さが、それを淋しげに見せていた。
「わたしみたいなのには、よくある話なの」
「よくある話じゃねえよ。俺は、おまえの話を聞いてんだよ」
座り直し、お茶を一つの湯呑みに注ぐ。まだ色は薄かったが、香りはするので良しとした。
湯呑みを持って女の元に戻る。差し出すと、少し躊躇ったあと、女は湯呑みを受け取った。息を吹きかけ湯気を飛ばし、そっと口をつける。
振り返るほどの美人というほどではないが、女は均整の取れた顔立ちをしていた。すっきりとした二重瞼、厚くも薄くもない唇。幸薄い雰囲気だが、それが色気をつくっている。
「飲んだら寝るからな」
「……それじゃ悪いから」
女がちらと見上げてくる。銀時は険しい顔を作った。
「俺がしねえって言ってんの」
「勃たないの?」
「勃っ、勃つわ! ちょっと天邪鬼なだけでやればできる子なの!」
「じゃあいいでしょ?」
女が湯呑みを畳と布団の隙間に置いた。銀時の手を取り、自分の胸元に入れる。さらりとした肌と、やわらかな弾力。突然のことに、銀時は驚きと困惑で固まった。
女に誘導され、指が胸の尖端に触れる。憂いを潜ませていた瞳が潤んでいる。
「ん」
薄紅の唇から声が漏れる。無意識に、銀時は指を動かした。尖端を撫でると、女が吐息を漏らす。親指と人差し指で摘むと、また声が漏れる。
女は銀時との距離を埋め、膝の上に乗ってきた。片手で器用に帯を解く。白い腹部と、銀時の無骨な手が包み込んでいる胸が露わになる。
女は剥き出しの肌を寄せ、銀時の首筋に唇をつける。濡れた感触があった。
腹の奥に熱いものを感じる。下半身にも。
女の左手が銀時の右手を取り、自身の下腹部に連れていく。下着の隙間に指が入っていく。じわりと湿った、ぬるつきを感じる。
鼓動が早まっている。ついに自分の意思で動いた手が、女の肩を掴み、押し倒した。
そのとき、湯呑みが音を立てて倒れた。畳と枕に熱い茶がじわじわと染み込んでいく。
「あっ、ツァ!」
勢い余って飛び散った茶が、銀時の手にかかった。女にはかからなかった。
「……大丈夫?」
「ちょ、冷やしてくるわ」
銀時は手を振りながら部屋を出た。襖を閉め、未だ高鳴る心臓を抑えるように深呼吸する。手の熱さなど、もうどうでもいい。今は頭やら顔やら、いろんなところが沸騰するほど熱い。跳ね除けなければならなかった。頭ではまずいと警鐘を鳴らしていたのに、止められなかった。
深い溜め息を吐いて、階段を降りる。洗面所とかありますかと訊くと、トイレへ行けと言われた。
狭い洗面台で手に冷水を打ち付け、ついでに顔も洗った。火照った身体からは、なかなか熱は引いていかなかった。
何してんだ、本当に。
✳︎
男は五分経っても戻ってこなかった。夜鷹は布団に転がり、男の言葉を反芻する。
おまえの話を聞きたい。そう言われたのは、単純にうれしかった。今まで会った人間といえば、自分のことになど、まるで興味がなかったから。自己満足に抱いて、吐き出せば終わり。金を置いて帰っていくだけ。
しかし、それが当然だと思っていた。自分には、そんな程度の価値しかないのだ。
男の温もりの残る布団に頬を乗せる。体躯は逞しいけど、表情や言葉の遣い方は柔和だった。からかったときには、子どもみたいに躍起になっておもしろかった。不思議な人だ。
初めて抱かれたいと思った。指が、手が触れた途端、ぞくぞくとした。この男になら、何をされてもいい。アスファルトでも床でも、どこでも構わない。この男のものになりたい。全てを明け渡したい。そう思い、誘導し、男の目に抑えきれない情欲を見たときは、浮遊感にも似た歓びを感じた。
だが、男が部屋を出て、もうすぐ十分経つ。冷静になって帰ってしまったんだろうか。急に不安になり、そう考え始めた頃だ。襖が静かに開いた。
夜鷹は男が戻ってきたことに安堵した。しかし、男は目も合わせない。
「平気?」
男はうん、と短く答えた。
「それ、どうしたの」
男の片手に枕があった。男は「茶こぼしたって言ったらもらった」と言って、布団を大股で踏みつけていく。そして、座布団を二つ並べ、そこに寝転んだ。枕を抱えて。
「……続きは?」
「もう寝る」
え——。一丁前にショックを受ける自分にはっとする。やっぱり嫌になったか。ひりひりと心臓が痛む。でも、仕方ない。元々、乗り気ではなさそうだった。わたしを憐んで、部屋を取っただけだ。そう言い聞かせ、そしてやはり自分には、欲しいと思ったものを手に入れることなどできないのだと悟った。手に入れる方法さえ、知らない。
「布団で寝たら?」
「俺はいいから、おまえはそこで寝ろ」
「でも……」
半身を起こす。窓辺は寒そうに見える。
「でももだってもねえの。いい子にして寝てろ。こっち来なくていいから」
「……わかった」
もぞもぞと布団に入る。二人が寝るための布団は、一人では広すぎる。海をさまよう小魚のような気分で、張りのあるシーツの中を泳いだ。群れの隅で泳いでいた頃が懐かしい。
はじめは落ち着かなかったものの、そのうちに眠気はやってきた。男の声や体温を感じたかったが、来るなと言われたのに、向かっていく勇気はない。夜鷹はおとなしく、眠りについた。
✳︎
小窓の奥に、人気はなかった。銀時は大欠伸をしながら宿を出た。ちょうど日の出の刻と重なってしまい、朝焼けに目を眇める。うらぶれた街にも、陽の光は平等に当たる。
腹を掻きながら、重い足で歩を進める。誰が見ても寝不足だった。うつらうつらとした憶えはあるが、寝入った憶えはない。
しばらく進み、ふと振り返る。木造二階建て、汚い縦看板の宿を見上げる。
白い枕に流れる髪。安らかな寝顔。布団から出た細い指。その指をそっと握ってみたら、ほんの少し、あたたかさを感じた。
銀時は何もない路地、明かりを落とした呑み屋に視線を動かし、そしてまた宿を見上げ——。
視線を落とし、後頭部を掻きむしる。足は、帰路に向かっている。
「やっときゃよかった」
落とした言葉は、誰の耳にも届かない。
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