煌びやかな照明に照らされ、ダイヤが光る。米粒みたいに小さな宝石は、わたしの左手薬指にぴったりとくっついている。指輪の号数なんて話したことはないのに、彼はきちんと丁度のものを用意してきてくれた。
「こんなに高いもの、初めて身につけるから緊張する。無くしそう」
 謙遜ではなく本音だった。誰からもらっただとか、その意味だとか、そんなものよりも、この高価な石を無くすのが怖くて一旦はつけた指輪を外そうとした。しかし、それを隣から伸びてきた手が遮る。細く長い指と、傷一つない手の甲がわたしの手に重なる。
「今だけいいじゃないか。似合ってるよ」
 髪型や服装ならまだしも、指輪に似合うも似合わないもあるだろうか。わたしはそうかなと曖昧に頷き、手を下げた。
「そんなに心配そうな顔しないで。きみは笑ってるほうがかわいい」
「……ありがとう」
 笑みを見せると、満足げに微笑み返された。手は重なったまま。その隙間から覗くダイヤは、目障りに光り輝いていた。
「化粧室に」
 手をすり抜けさせ、席を立つ。臙脂色の絨毯を踏みしめると、ふわふわとまるで足元が覚束ない。辺りを見回せば円卓には洋装、和装の客が入り混じり、皆静かに食事と会話を楽しんでいる。ホールの角ではピアニストが鍵盤を撫でている。音楽に疎遠なわたしには、何の曲なのかさっぱりわからない。
 押しつけがましいシャンデリアの明かりから逃れ、ホールを出て階段を降る。江戸でも有数の高級レストランだというが、だだっ広くてトイレに行くまでにも散々歩かなければいけない。慣れないワインも苦いだけでおいしいと思えない。胃の中をぐるぐると消化しきれない内容物が巡っている。
 ようやくトイレの表示を見つけたと思ったら、臙脂の絨毯に異質な白い人物が立っていた。
「なにしてんの」
 声をかけたのは間違いだった。でも、あまりに浮いていたので仕方なかった。銀時は「よう」と一言返し、わたしを見据えた。困惑で眉が勝手に下がるのを感じる。
「ようじゃなくて……なにしてんの」
 もう一度繰り返す。銀時は、大皿の上に一口大の料理を乗せるような、こんなお店とは縁遠いはずだった。煙草と酒の匂いが蔓延する、狭い大衆居酒屋で安酒を呷る男だった。
「べっつに。仕事で大成功してメシ奢ってもらってるだけだし」
 壁から背を離し、銀時はこちらに向かってくる。入店して一時間以上経つが、ホールに銀時の姿があったか憶えていない。悪目立ちするはずなのに、どうして視界に入らなかったのだろう。
「似合わねえ着物だな」
 前に立ち塞がった銀時は、顎に手を添えて上から下までわたしを舐めるように見ていた。紅藤色の正絹の着物は肌触りが滑らかで着心地が良い。付き合い始めて一ヶ月過ぎた頃、贈ってもらったものだった。汚してはいけないと思うと自由に食事も楽しめないので、大事な日にだけ着るようにしている。
 銀時は帯締めを指で摘んでくる。
「おまえはもうちょい、はっきりした色でもいいと思うけど」
「貰い物なの。着ないわけにいかないでしょ」
「俺がくれてやった髪留めはダセェって着けなかったくせに」
 きつく結んだ帯締めを解こうと動く指をゆっくりと払い除ける。左手で帯を押さえると、「結婚すんの」と流れるように訊かれた。
 息が詰まる。喉にぐっと力を込めた。
「まあね」
「あんなヒゲ、どこがいいの」
「やさしいよ」
 不安定で不確かで、粗野で無骨で、上っ面だけの褒め言葉さえも言えない銀時とは違う。パチンコの景品で当たった安っぽい髪飾りをくれてやっただなんて恩着せがましく言う銀時とは違う。
「経済力があって、ケチじゃないし、いつも穏やかで安心をくれる。おいしいお店をたくさん知ってて、休みの日には旅行にも連れていってくれる」
 思いつく限りを並べた。でも、とすぐにこぼれ出そうになるのを止めるように。
 でも——でもね。胸を衝くような恋心はない。消えそうな甘い香りもない。頽れそうになるほどの心細さはないけれど、弾むような歓びはない。包み込むような愛念は感じるけれど、抱きしめられると呼吸できなくなるような力強さはない。
「……それだけ?」
 言葉に詰まると、銀時は急き立てるように促す。
「まだあるよ。すぐには、出てこないけど」
「楽しいの」
「楽しいよ」
「ふうん……」
 誰の心にも依らず、当て所のない日々を過ごしていた銀時のとなりは心地良かった。野良猫というほどかわいらしい生き物ではなかったけれど、どら猫と呼ぶほど薄汚れてもいなかった。ただ、気まぐれに足元にすり寄ってきては、いつも欲しいぶんだけ温もりを攫っていった。
 けれどいつからか猫は犬に変わり、番犬と呼ばれるほどになった。身の回りに大事なものを次々と築き、そこに根を張り過ごすようになった。そこにわたしの在り処はなかった。
 分不相応とも思えるものを抱える彼を、わたしは疎ましいとさえ思っていた。そんな自分の矮小な心をまざまざと痛感し、辟易し、失望した。勝手に影を重ね合わせ、幻想を押しつけていたのはわたしのほうだとわかってはいる。
「やってんの、あのヒゲと」
 平淡な声だった。ちらと見上げると、銀時の表情に変化はなかった。
「帰ったらすんの?」
「……しない」
「昨日は?」
「なにが訊きたいの」
「そりゃやるか。結婚するんだもんな」
「……トイレ、行きたいんだけど」
「一緒に住んでる?」
「まだよ。何なのよ」
「アイツ知ってんの? おまえがすげえ短気でキレやすいこととか、超面倒臭がりで風呂嫌いなこととか、パンツひっくり返して脱ぐこととか。あーあと、意味のわかんねえ寝言言うとか。あれはやめたほうがいいね、ウン。俺もびっくりしたもんね」
「もういいでしょそんなの。退いてよ」
 銀時を押し退け、トイレに向かう。しかし、左腕を掴まれた。強引に引かれ、肩を捻る。銀時の険しい顔が目に入った。ひどい光景を見ているような、苦悶しているような顔だった。
 その表情を正視できず、視線が泳ぐ。しかし行き場はなく、壁を見るしかなかった。大理石の冷たい壁。
「あの人はそんな小さなこと言わない」
 押し殺した声はか細い。銀時の熱い手は、強くわたしの腕を掴んでいる。節くれ立った指は硬く、傷を作っていることが多かった。厚みのある掌で触れられることが減っていくと、焦がれる想いが募り、実体のない焦燥ばかりが心を埋め尽くしていった。
「女はきれいで愛嬌があって、生活するための最低限のことができて、あとは子どもを産むことができれば、それでいいの」
 銀時の目が歪んでいく。
「アイツがそう言ったのか」
「わかるんだよ。わたしの人間性に期待してないのが。きみは笑っていればいい、なにも難しいことは考えなくていいって言うの。だからわたしはなるべくきれいでいるようにしているし、言葉遣いとか仕草とか、それなりに気をつけてるの」
「そんなん誰でもいいってことじゃねえか」
「そう、誰でもいいの。誰でもいいから、わたしでいいの」
 銀時の大事なものが増えるたび、わたしは自分の空虚さに耐えられなくなっていった。周りに認められたくて、情緒不安定で、通すべき芯もなく、中身なんて何もない。庇護されるだけの何の取り柄もない女にはなりたくない。でも、足掻いたところでわたしは感情のままに動く、愚かしい、どうしようもない女だった。変わっていく銀時を許容できなくて、追いつけない自分にジレンマを抱え、その果てに逃げた。
 そうしてわたしはわたしでいることをやめ、ただの女になった。女でいるだけで存在価値のあるものになった。削られたちっぽけな石ころで手に入れられる——そんなものになった。
 彼は、わたしに何も求めていない。女としての機能だけを求めている。わたしはあの人の疲労を癒やしたり、生活するに困らない程度の身の回りの世話をすればいい。常に笑顔で、美しくあればいい。
 刹那、銀時の手に力が入る。しかしそれはすぐに緩められていく。
「馬鹿じゃねえの」
「……馬鹿なんだよ。知らなかった?」
「知ってたよ。でも、そこまで大馬鹿だとは知らなかった」
 忌ま忌ましいものを見るように見下ろされる。わたしは銀時の横をすり抜け、トイレに入った。
 中にはたくさんの個室が並んでいた。適当なところで入ると、中には洗面所と楕円の鏡があった。鏡の自分の顔を見てみると、口紅の色が落ちていた。塗り直し、全体的によれた化粧を直す。家に帰るまで、素顔にはなれない。
 トイレを出ると、銀時の姿はなくなっていた。そのことに安堵したのも束の間、階段の上から怒声が降ってきた。聞き憶えのある声だった。
 歩幅を制限する着物ではうまく走れない。それでもなるべく急いで階段を上がっていくと、絨毯の上に人が転がってきた。頬を赤く腫らし、口端から血を流しているのは銀時で、上段で店員に押さえられているのは彼だった。
 彼は声を荒らげ、銀時に向かって罵詈雑言を吐いていた。わたしは銀時の元に跪き、その肩に触れた。吊り上がった彼の目は、鬼のようにぎらついていた。



 閉店時間はとうに過ぎ、周囲に人気はなく、辺りはいやに静まり返っていた。わたしはコンビニで消毒液や絆創膏を買ってきて、店の裏で座り込む銀時の元に戻った。
 しゃがんで「傷を見せて」と言うと、銀時は素直に顔を上げた。頼りない街灯だけが控えめにわたしたちを照らしている。
「旦那はいいのかよ」
「先に帰ったよ……あと、まだ籍入れてない」
「けっ、てめーの女ほったらかしてか」
「……そういう人なの」
 怒り狂う夫となる人を差し置いて、わたしが銀時に歩み寄ったのを、あの人はどう思っただろう。素性の知らない男に近付くなと言うだろうか。既に方々への挨拶は済ませてあるので婚約を破棄することはないだろうけれど、杞憂を抱かせることにはなったかもしれない。いや、そんなことにさえ、興味はないということも有り得る。
「何を言ったの」
「あ?」
「どうせ失礼なこと言ったんでしょ」
 唇の端に絆創膏を貼り付ける。銀時は眉を顰めながらも、されるがままになっていた。
「……穴さえありゃいいなら」
「あ、もういい」
「ああ? おまえが聞いてきたんだろ」
「だいたいわかった。そうやってすぐに下ネタに持っていくのやめたら?」
 銀時は舌打ちする。やることやってるくせに、と歯噛みしている。
 労るように触れてくる彼とのセックスは嫌いじゃない。けれど不義理なわたしは、柔らかなベッドの上で彼に抱かれながら、汗を滴らせ、荒い手つきで身勝手に動く銀時のことを思い出している。キスの仕方、手順、穿つように突き上げてくる欲望も、はっきりと憶えてしまっている。
 なだらかな曲線を描く頬に触れる。そこは夜風に当たっていても尚、温かな体温を保っている。深い紅色の双眸がわたしをまっすぐに見ていた。
「……あの男、やべえんじゃねえの」
「どうして?」
「どうしてって、見たろ、あのツラ」
 頬に添えた手を地面に下ろす。雨上がりのアスファルトは湿っていた。
「おまえにまで手ェ上げ兼ねねえぞ」 
「……あれは銀時が悪いんでしょ。理由もなくあんなことする人じゃない」
「理由があればいいってのか。俺ァな、おまえに何かあってからじゃ遅いって言ってんだよ」
「うん」
「それでも行くのかよ」
 わたしの左手薬指には、光るダイヤがある。ぴったりだったはずなのに、今は少し窮屈に感じる。
「それでもあの人のところに帰るよ」
「俺は誰でもいいなんて思わねえ」
「帰らなきゃいけないの」
「それでいいのかよ」
「いい。そういう女なんだもの」
 暗闇に覆われた空に、漏れた吐息が白く浮かび上がる。自分が微笑んでいることに気付く。銀時は薄く唇を開け、やがて閉じていった。脱力したように背が丸まっていく。
「ほんと、馬鹿だろ、おまえ」
 銀時の頭が肩に乗る。その頭を撫で、目を閉じる。湖畔にいるような大人しやかな静寂が、澄んだ空気を尖らせる。もうすぐ、凍えるような冬が来る。
 すべてを塞ぎ、与えられるものだけを享受する。そう決めた。それを逃げだと非難されようと、わたしは平気だ。
 どうしようもない自己を抱え、もがいていたわたしを受け止めてくれる人がいた、あの日々があるのだから。
 そして今夜、最後の夜に、わたしのために憤り、傷付いてくれたあなたがいるのだから。





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