銀色のチェーンが引き千切れんばかりの勢いで張ると、土方さんの顔が一気に険悪になった。
「オイ」とどすの利いた声は健やかそのもので——精神状態はともかく——、安心と恐れで瞬時には言葉が出なかった。代わりに、ひっと息を呑んだ。安心よりも恐れが勝った証拠である。
「これが土手っ腹に穴ァ開けて三途の川に片足突っ込んできた人間にすることか」
「か、片足で済んだんですかよかったですね」
「いや向こうの花畑が見えたな。もう少しで泳ぎきっちまうところだった」
「よく戻ってこれましたね」
「流れが早くてなーあれはそうそう簡単に渡れる川じゃねーわ」
声色は不穏。眉間に深い皺。内側からドアノブを握るわたしと、隙間を閉めさせまいと外からドアに手をかける土方さん。力で叶うはずはないが、わたしにはチェーンという強い味方がいる。部屋の奥では流してるだけのお笑い番組が続いており、笑い声が聞こえる。しかし、ドアの隙間から覗く土方さんの顔は、笑い声とは正反対の表情をしている。さながら某ホラー映画に出てくるワンシーンのような。
「ひ、土方さんこれあれですね、シャイニン、グ!」
目一杯の力で踏ん張っていたところで、突然土方さんが手を離した。激しい音を立ててドアが閉まり、わたしは自分の体重で背後に倒れ込んだ。チェーンが撓み揺れている。
背中を悶絶するような痛みが襲う。玄関框に思いきりぶつけた。しばらく呻き、心の中で一頻り土方さんへの文句を言った後にゆるゆると腰を上げる。
そっとドアに近付き、耳を澄ませる。ドアの向こうは静まりかえっており、耳を澄ませても物音は聞こえない。帰ったんだろうか。
恐る恐るドアを開ける。隙間に影がないことを確認した直後、視界に光が差す。「下がれ」と土方さんの声。鈍色の切先が見えた。が、「えっ」と訊き返した瞬間、身を引くか否かで刀身が振り下ろされ、チェーンは美しく両断された。叫び声すら上げられず、わたしは身を縮こまらせて唖然としていた。あと半歩前に出ていたら、わたしの身体には直線の刀疵ができあがっていただろう。
ゆっくりとドアが開き、土方さんは鞘に刀を納める。黒い靴が無惨な姿になったチェーンを踏み、邪魔だと言わんばかりに退かす。
「なんで来なかった?」
土方さんは後ろ手でドアを閉める。施錠する音。自分の家なのに、逃げ場がないことに戸惑う。茫然自失としているわたしに土方さんは繰り返す。
「なんで来なかった」
ワンルームのアパート、ただでさえ狭い玄関に大人二人いるだけで窮屈だというのに、土方さんから放たれる圧迫感によって酸素が薄く感じる。
目線を向ける場所に迷ったが、斜め下の傘立てに落ち着く。圧死させるつもりなのではないかと思うほどの迫力に、怖々言葉を紡ぐ。
「山崎さんから、ずっと眠ってるって聞いて……」
「ああ、長く意識が戻らなかったらしい」
「寝てるところにわたしが行っても、わからないじゃないですか……」
「一度も来なかったそうだな」
事実なので反論ができない。しかし、なぜそれを土方さんが知っているのか。おおよそ、山崎さんが余計なことを言ったのだろう。わたしは頭の片隅で人畜無害そうに見えて意外に利に聡く保身的な男の顔を思い浮かべた。山崎さんはわたしと土方さんの橋渡し的役割を担っているが、それが時として仇となり、厄介ごとを生み出してしまう。
見下ろされたわたしが冷や汗でも流しているように見えたのだろう。土方さんはわたしからの返答を待たず、上がるぞと言って部屋に入った。笑い声はすぐに途絶えた。
重々しい空気を一人抱えたまま、わたしも部屋に戻る。土方さんは正方形の小さなこたつに入っていた。肩が上がっている。外は寒かったのだろう。
「おまえんち、こたつなんてあったか」
「出したんです、二週間くらい、前」
二週間前、まだ土方さんは意識を取り戻していなかった。蘇る、山崎さんとの応酬。しかし喋っていたのは、ほとんど山崎さんだけだったように思う。
副長が——と紡ぐ山崎さんの口調は落ち着いていた。淡々と起きたことを話していた山崎さんだったが、電話越しにわたしの血の気が失せていくのがわかったのだろう。徐々に励ますような台詞が多くなり、最後には「あの人は悪運強いから、殺しても死なないよ」と締め括った。わたしはにこりともできず、そうですねと電話を切った。膝が震え、立てなくなった。
病院の場所を教えてもらい、面会の許可も事前に得ていた。今までも何度か、同じようなことはあった。けれど、意識が戻らないのは初めてのことだった。
「座れよ」
促され、土方さんの斜向かいに座る。正座をしたので、膝だけが温かい。机の上には読みかけの本が置いてある。テレビは消されてるので、室内は無音に近い。微かにこたつの機械音がする程度だった。
「呼びかけで意識が戻るとか、そんなもんは期待しちゃいねえよ」
幾分か柔らかくなった声に、気が緩む。
「……土方さんは、そんな感じですよね」
「だからって目が覚めてからも来なくていいとはならねえ。山崎から聞いてたんだろ」
うっと言葉に詰まる。山崎さんから土方さんが目を覚ましたと聞いたのは、一週間ほど前のことだ。しばらく入院してるから会いに行ってよ、と言われた。でも、行けなかった。
「毎日来いなんざ言わねえ。おまえにはおまえの生活があるし、俺にとっては、こんなのは日常茶飯事だ」
土方さんが自分の脇腹を撫でる。脇腹だけではない。その身体には、無数の傷痕がある。掠めた弾痕や、深かっただろう刺創、知らぬ間に増えていく切創。いつのものか訊いても、憶えてないの一点張り。憶えていられないと言ったほうが正しい。しかし、土方さんが憶えていなくても、わたしは増える傷を数え、憶えている。
目線を落とすわたしに、土方さんの視線が突き刺さる。
「やめたくなったか」
予想していなかった言葉に顔を上げる。土方さんはわたしを見据えている。うまい返事が出てこず、ただ首を振る。土方さんは表情を変えない。
「……土方さんのことは、好きです」
聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。
「でも、土方さんが護ろうとしてるもの……侍の武士道とか、その……仲間とか……真選組のことは……なんだか、あの……嫌いになってしまいそうで」
しどろもどろになりながら続ける。土方さんが傷付くたび、胸の奥底でそれはだめだと自分に言い聞かせている。近藤さんのために土方さんは剣を取り、真選組を護るために日々最前線で戦っている。それが土方さんの選んだ道だ。その道程にどれだけの困難があろうとも、その先が破滅に繋がっていようと、一度決めた道は外れない。その頑固でさえある実直さや生き方を尊敬しているし、そういう面に惹かれた。侍としての矜持を持ち、理想を掲げ、誰よりもまっすぐにひたむきに戦っている土方さんが好きだ。
「土方さんが大切にしているものは、わたしも大切にしたいです。なのに、たまに、土方さんが……真選組じゃなかったらって考えてしまって、それが嫌で……」
一般家庭に生まれ、侍なんて人とは縁遠く生きてきたわたしには、自らを犠牲にしてまで何かを護り抜こうとする程の気概はない。口では理解したい、大事にしたいと土方さんに寄り添えても、本当の意味ではきっと相容れない部分がある。真選組の名の下に命尽きるのは本望だろうけれど、わたしはそんなものよりも、くだらない話をして、朝ごはんの献立で揉めて、煙草の匂いのする腕の中で眠る。そんな毎日をずっと過ごしていたい。そう願うのは、やはりわたしが土方さんのそばにいるべき人間ではないからだろうか。
カチリと音がした。見ると土方さんが煙草を咥え、ライターで火をつけていた。役目を終えたライターは懐に仕舞われ、わたしはテレビ台の下から灰皿を出す。一連の流れは身体に染み付いてしまっている。
土方さんは紫煙を吐き出し、肘を机に置いた。
「俺が訊いてるのは、なんで顔の一つも出さなかったかってことだ」
論点がずれている。冷静に言われた。わたしにとっては繋がる話だったので面食らう。
「だから……わたしはその、土方さんが傷付くのは見たくなくて、況して、死ぬかも……召されるかもしれないときに会いにいくのが怖くて……」
「なんで言い直した。召されるのほうが腹立つわ」
「土方さんがいなくなるのは嫌です」
怖くて不安で動けなかった。山崎さんがたまに電話をくれたけれど、明日は行きますと言うばかりで足は向かなかった。土方さんが、わたしの声に応えてくれなかったら。目の前で、土方さんが息絶えてしまったら。先を考えるごとに心臓は鼓動を激しくさせ、落ち着かせるように息をする。それだけで日は暮れた。
土方さんは煙草を指で叩き、灰皿へ灰を落とす。
「俺は近藤さんを護るために剣を取ったが、おまえを置いて死ぬことはねえよ」
それが当然のことのような口振りだった。小さく「死にかけたくせに……」と言うが、土方さんには聞き流された。自分の失敗や非については言及したがらない。プライドが高いのだ。
「目が覚めたら天井が見えて、起きたら看護師と近藤さんがいた。すぐに他の連中が来て、山崎におまえのこと訊いたら、心配してましたってそんだけだ。一回も来てねえって聞いて、薄情な女だって言ったら心配するのも疲れたんじゃないですかって言いやがった。そういうこともあんのかと考えたが……オメーは流されやすいから、もしかしたら浮気でもしてんじゃねえかって疑いもした」
う、浮気——? わたしは目を白黒させる。
「わたしにできると思いますか……?」
「ああ。来てみりゃ相変わらず男の影が微塵もねえ部屋だ」
「土方さんの物ならありますけど……」
灰皿、髭剃り、歯ブラシ、パンツ。家の端々でそれらを見るときのわたしの気持ちが、果たして土方さんにわかるだろうか。生活に馴染んだそれらが、ある日ふっとなくなる瞬間を思うと、居ても立ってもいられなくなる。
煙の匂いが早くも室内を巡り籠ってくる。立って窓を開けようか迷っているうちに、土方さんは話し続ける。
「おまえに負担かけてるのは承知してる。不安にさせてるのもわかってる。だが次は、顔くらい見せろ」
土方さんの手の甲が頬に触れた。こたつに埋めていた手は温かい。
急に目頭が熱くなった。無為に過ぎていく日々の中、ベッドに横たわる姿を片時も消えることなく瞼の裏で描いていた。その人が、今、目の前にいる。
油断すると押し出されそうになる涙を堪え、乾いた手に自分の手を重ねる。
「呼んでもわからないんでしょ」
「呼んでも起きなきゃ手でも握ってろ」
「鼻と口を塞ぐのは?」
「三途の川まっしぐらじゃねえか。……つーかおまえ総悟に似てきたな」
アイツと連むのはやめろ、と土方さんは穏やかに言う。頬を撫でた手の甲が翻り、掌が触れる。指が髪をかき上げ、わたしは目を閉じた。
しばらくぶりの触れあいに微睡んでしまいそうになる。怒らせると怖いが、土方さんは筋違いなことで怒ることはない。正しいこと、間違っていること。その線引きがはっきりしているだけだ。
身体を任せていると、覆い被さっていた土方さんが不意に顔を歪めた。わたしは硬い隊服越しに脇腹を撫でる。服越しでは、傷の具合はいまいちわからない。
「……まだ、痛いんじゃないですか?」
「この程度でくたばるほどヤワじゃねえ」
土方さんは精神論で物事を片付ける節があるが、いくら鍛えようと人間の身体だ。無茶をすれば相応の反動がくる。もしかしたら入院期間も短縮してしまったのではないだろうか。わたしは眉を下げ、やんわりと土方さんの身体を押した。
「無理しないでください。ほんとに早死にしますよ」
「してねえ」
不満げな土方さんの下から抜け出す。汗ばむほど暑い。こたつの電源を落として、窓を開けるために立った。土方さんは二本目の煙草を手に取る。
「土方さんがいなくなったら、真選組はどうなるかわからないんですから」
真選組を恨めしく思うことも、たしかにある。けれど踠き悩むのは、わたしは彼らが悪人ではないことを知っているからだ。山崎さんはわたしのことを気にかけてくれるし、近藤さんも土方さんのことをとても大事に思っている。沖田くんは——あれは歪な信頼の形と思えばいいのだろう。真選組の面々は、ぶっきらぼうで粗忽だけれど、根はやさしい人ばかりだ。他人を身分や境遇で判別せず、色眼鏡で見ることがない。悪く言えば大雑把で、よく言えば大らかだ。それはまさに近藤さん自身を表している。憎むことができれば、どれほどよかっただろう。
カチ、カチとライターのヤスリを擦る音がする。そして、ふうと息を吐く音。「真選組」と土方さんが呟いた。窓を開けると寒いほどの風が吹き込んできたが、火照った顔には心地良いくらいだった。街には今日も黒い隊服が散り散りになり、江戸の街を護っている。
「おまえのキャパなんか、高が知れてんだよ」
振り返ると、緩んでいたスカーフを締め直す土方さんがいた。
「近藤さんのことも真選組のことも、どう思おうと構わねえ」
風向きで煙草の煙が顔にかかるのを避けるように、土方さんは横を向く。冷たい風が煙を攫い、掻き消していく。
「おまえは、俺を待ってればいい」
煙草を咥え、チェーンは直すよう大家に言っておく、しばらくは俺がいるとき以外ドアは開けるな。と言い残し、颯爽と土方さんは去っていった。簡潔で短い報告と注意に、返事の一つもできなかった。
わたしはぽかんとしたまま、風に吹かれていた。そうして一分もしないうちに、眼下から名前を呼ばれる。アパートの下で、土方さんが煙草を持ってこちらを見上げている。何か言いたげに口を開き、逡巡した末、煙草を手元に持っていく。結局は何も言わないまま、背を向ける。わたしはその背を追うように声をかける。
「いってらっしゃい」
きっと、わたしはいつまで経っても、土方さんの一番にはなれない。
でも、それでもいいと思う。
土方さんを形成する、かけがえのない、かけらになれるなら。
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