心寂しい満月の夜だった。春になれば美しい桜並木となる川縁も、杪冬は人気がなく閑散としている。
「今年はそろそろ終いだな」
 禿頭に手拭いを巻いた大将がつぶやく。「えー」と平坦に返し、色濃く煮込まれた大根を平皿の上で四つに割る。抵抗なく箸で割れていくそれを一つ摘んで口に入れ、日本酒を呷る。出汁の染み込んだ大根が口内で潰れ、辛口の酒が喉を通っていく。おでんの王様は大根だ。異論は認めない。
「大将、おでん屋閉めてどうするの? 春になったら何になるの?」
「ケバブ屋」
 予想外の返答だ。のっぺりとした顔にしみの浮き出た目尻。額の皺。ひょろっとした腕。ケバブといえば彫りの深い陽気な外国人が売っている印象なので、おでん屋の大将とは真反対だ。しかし、大将はもう何年も春から夏はケバブを売り歩いているという。キッチンカーで江戸を飛び出し、各地を渡っているとか。
「誰も信じないけど、ケバブを江戸で最初に売り始めたのは俺だからね」
「へえ」
「信じてないな」
「信じるよ。それより大根ください。あと熱燗も追加」
 空の皿を突き出すと、大将は糸のように細い目を更に細める。
「大根ばっか食うんじゃねえよ。あと、酒はもうない」
「うそだぁ」
 屋台で酒が尽きるなんてあるものか。客なんか人っ子一人いないんだから。真偽を確かめようとカウンターから身を乗り出そうとしたそのときだった。背後に風が吹き付けた。
「うぃーっす。酒呑まして」
 大将が「銀さんに出す酒はねえよ」と速攻で断る。振り返ると、ちょうど暖簾を潜った銀さんが顔を顰めていた。
「ツケならこの前払っただろうが」
「たったの三百円な」
「払う意思があることをまず認めてもらいたいもんだね」
「懲りねえなぁ。とにかく、アンタに出す酒はないよ」
 獣を追い払うように大将が銀さんを手で払う。銀さんは椅子に座ることもできない。
「わたしは?」
 財布を見せる。しかし「ないよ」と一蹴された。なぜだ。
「ああ、そうだ銀さん。もう閉めるから、この子送ってやってよ。うわばみで参ってんだ」
 大将はちょうどいいと言わんばかりに銀さんにわたしを押し付けた。肝臓が強いことだけが取り柄なので、酒はいくらでも呑める。酔っ払うこともほとんどない。面倒臭い絡み方もしないが、さすがに一人で三時間も居座るのはまずかった。わたしの前には空の銚子がボウリングのピンよろしく並んでいる。
 大将はいそいそと閉店準備を始める。「ケバブはいつから?」と訊くと、「来週」と言われた。早いな、と時計もカレンダーもないのに藍色の夜空を見上げる。
「銀さん、ツケはちゃんと払えよ」
「わぁってるって」
 大将はリヤカー式の屋台を引っ張り、川縁の向こうへ消えていった。残されたわたしと銀さんは顔を見合わせ、帰路に着く。
 街灯の少ない田舎道をぷらぷらと歩く。月光のおかげで足元は明るい。
「来週までにツケ払えるんですか?」
 いくら借りているのか知らないが、わたしの知る限りではツケというのは銀さんの挨拶のようなものなので、相当な額に違いない。
「もう何年分もなんだよ。あのおっさん、絶対いくらか覚えちゃいねえよ」
 もう何年もツケを溜め込んでいるということだろうか。春になったら江戸を離れ、冬になったら戻ってくる。江戸を離れているうちは借金は返せない。けれど戻ってきたら、ちゃんと金を払いに来い。素直にまた来いと言えば済むものを、理由を作らなきゃならないものか。天邪鬼同士、気が合うのだろう。
「銀さん、大将がケバブ屋やってるの知ってたんですか」
「どのツラ下げてンなもん売ってんだかな」
 緑豊かな川沿いの道を抜け、郊外の住宅地に入る。真新しい建物の多いターミナル付近から比べて、古い家や昔ながらの商店が多い区画だ。しかし、足を延ばせば江戸一番の繁華街、かぶき町一番街に向かうことができる。
 銀さんは、かぶき町で何でも屋を生業としている。酒を呑める場所は生活圏内にいくらでもある。それでもたまには静かに呑みたい夜もあるのだと、喧騒から離れた屋台にふらりと来る。大将の顔を見にくるのはもちろんだが、銀さんにだっていろいろある。言葉通り、しめやかに呑みたい夜だってあるのだろう。
 時刻は丑三つ時に等しい。建屋の明かりは絶え、街はすっかり寝静まっていた。
「あっ、猫」
 石垣に丸々と太った猫がいた。体が石垣の幅からはみ出ているが、器用に箱座りしている。
 猫の視界に入るように前から手を振ってみる。瞳孔の開いた目がこちらを睨む。裏社会のドンのような威厳が感じられる佇まいだが、猫は猫。姿形がかわいい。
「猫ですよ銀さん」
「見りゃわかるわ」
 そっけない返事。猫も愛想を振りまく人間を小馬鹿にするように顔を背け、石垣を降りた。のしのしと重そうに足を動かし、人のいない道を我が物顔で歩いていく。
「ああ、行っちゃった」
「猫なんかどこにでもいるだろ」
「うちのほう、管理が厳しくなって野良猫いないんですよ」
 小さい頃は、家の裏庭に野良猫がよく来ていた。親には止められていたけど、こっそりご飯を分け与えているうち、しばしば姿を見せてくれるようになった。やがてその猫は裏庭で三匹の子猫を産んだ。何が悪かったのか、みんな長生きはできなかった。母猫も、車に撥ねられて死んでしまった。
「何その悲しい話」
 銀さんが口元を引き攣らせる。猫たちは裏山に埋葬した。餌付けなんかするなと言っていた母親も手伝ってくれた。
「子どもながらに命の儚さを痛感しました。ああして少年は命の尊さを知るんですね」
「少年じゃねーだろ」
「あ、そっか。少女Aです」
「なんで急に中森明菜? 鏡見てから出直してこい」
 パッと視界の隅が明るくなる。振り返ると車がこちらに向かってきていた。車道側にいた銀さんがわたしのほうへ距離を詰める。それに倣ってわたしも石垣に寄る。寄りすぎて、石垣に肩を擦りそうになった。
 テールランプが遠ざかる。右折していくのを見送り、銀さんが元の位置に戻るのでわたしも戻った。
 信号のない交差点に差し掛かり、銀さんが足を止める。白い蛍光灯の下、銀さんの顔に影ができている。
「あっちに、猫が夜中に集会してる公園があるんだけど」
「……へぇー」
 顔だけは笑顔を作った。銀さんは皆まで言わない。ただ、家路とは反対方向の道を指差している。
「でも、今日は帰らなきゃ。微熱大陸、観ないと」
「あー……そう」
 伸びた指を折り、掌にしまう。そしてまた歩き出す。しばらく歩いて、銀さんがまた立ち止まる。
「やってなくね?」
「はい?」
「今日金曜じゃん。微熱大陸やってねーよ」
「あっ、すみません、ビデオ、録画してて。もう容量が一杯一杯で、観て消していかないと、明日のスパイダーマンが録れなくて」
「明日バットマンだけど」 
 おもしろいくらいに目が泳ぐ。銀さんの視線が痛い。
 しかし追及されることはなく、二人で歩き始める。時折明かりの灯る家もあったけど、静寂に包まれた街では足音だけがよく聞こえた。少しずつ進み、家に向かう最後の別れ道に差しかかる。
 銀さんのブーツが、地面を擦る。舗装された道と違い、この辺りは砂粒が多い。
「じゃあな」
「ねっ」
 噴き出すワインコルクのように飛び出した声は、声というより音だった。勢い余ってしまって固まる。銀さんは、きょとんとしている。
「猫の集会、今度見たいです」
 銀さんの薄く開けられていた唇が閉じられる。そして、再び開く。
「……今日は?」
「今日は……無理です。お酒呑んでるので、距離感掴めなくて、さっき肩擦りそうになったから」
 自分の肩を撫でる。銀さんは「肩?」と不思議そうにした。おそらくわたしの言っている意味はよくわかってはいないだろう。けれど、見たことがないくらい物柔らかな目をする。
「うわばみのくせに酔ってんの?」
 肝臓が強いのが取り柄だ。でも、銀さんとふたりで並んでお酒を呑むと、酔いが回るのが早くなる。体温が上がると血液の巡りが良くなるので、アルコールの回りも早い。体温が上がるのは、決まって銀さんが隣にいるときだ。他の誰と一緒にいても、そんなふうにはならない。
「銀さんの隣が、熱いからです」
 じわじわと顔が火照ってきて、発熱しているような気になる。頬に手の甲を当てると、ひんやりと冷たく気持ちがいい。今日は一人で呑んでたのに、さっきから熱い。遅れて酔いが回ってきているのだ。ふらつくほど酔ったことはないのに、なんだか足元が覚束なくて、気持ちの置き所がなく落ち着かない。
 おしゃべりな銀さんが黙っている。恐る恐る目線を上げると、銀さんが額に手を当てていた。
「……銀さん」
 返事がないので、重ねて銀さん? と呼ぶ。
「……春が近ェのかな」
「え?」
「……あったかくなってきたよな。つーか、熱いわ。たしかに」
 手の下で銀さんが歯噛みするようにこぼす。笑っているような、顰めっ面を作っているような。きっと銀さん自身も、自分がどんな顔をしているのかわかっていない。
 お酒は呑めるようになったし、過去の悲しい出来事も平気で話せるようになった。今まで生きてきて、理不尽との折り合いの付け方を覚え、妥協や譲歩もできるようになってきて、もちろん知らないことのほうが多いけど、処世術はわりと知っている。なのに、いまだにこんなことで狼狽えたり、赤面したりするなんて、幼い日のわたしは想像しなかった。幼い日の銀さんだって、こんなのは想像していなかっただろう。わたしたちは、もっと格好いい大人になるはずだった。
 でも、慌てふためくのも存外楽しい。人生は楽しいほうがいいに決まっている。
 揺らめくことのない満月が、やわらかく地上を照らしている。顔を上げた銀さんが、暑苦しそうに自分の髪をかき混ぜる。
 頭の中では、猫の集会の次の言い訳を考えている。それはたぶん、お互いに。




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