夕暮れ前のコインランドリーは空いている。整然と並んだドラム式洗濯機を背にして、わたしは隅の円卓で文庫本を開く。何度も繰り返して読んでいる物語は展開が読めていて真新しさがない。家には買ったばかりの本や雑誌があるのだけれど、あえてそれらは持ってこない。ほかに集中したいものがあるからだ。
入り口の自動ドアが開く。わたしは心の中で、来た、と飛び上がる。
腰に差した木刀、着流しに黒いブーツ、そして目を引く白髪と見紛えるような銀色の髪。その人は大きなバッグに詰めた衣類をどかどかと洗濯機に放っていく。そして洗濯機を回し始めると、設置された雑誌棚から少年誌を手に取り、室内の真ん中に並んだ椅子に腰掛ける。そして片足を自分の膝に乗せ、雑誌を開いた。
その人を初めて見たのは、半月ほど前になる。自宅の洗濯機が壊れ、コインランドリーに通い出して間もない頃だった。閑散としている中にふらりと現れたその銀色に、わたしは目を奪われた。
その人はこちらの視線などには気付かず、今日のように衣類を雑に洗濯機に突っ込み、洗濯機を回し、少年誌を読んで時間を潰していた。人気のない店内を占める、洗濯機の回る音。疎らにいた人たちも、洗濯が終わると去っていく。店内にはわたしとその人が二人だけになる時間もあったが、わたしたちの視線が混じり合うことはない。彼は紙面に目を落としているし、わたしは彼から離れた斜め後ろを定位置にしているからだ。
後ろ姿を盗み見る。少し丸まった背中と、好き勝手に跳ねた髪の毛。時々座り直したり、頭を掻いたりしている。洗濯が終わるまでの約一時間。わたしはこっそりと彼の姿を観察している。どうも気になるのだ。その佇まいや、投げ出した足や、どう見てもいい年の大人なのに毎回少年誌を読んでいること。放っておけと言われてしまうような、些末なこと。
ピーッと洗濯機が鳴る。乾燥まで終えた合図だ。彼よりも早くに来ていたわたしは、少し別れを惜しみながら文庫本を閉じた。取り出した衣類をランドリーバッグに入れ、紙面を見ている彼の前を横切り自動ドアを通る。
◇
「まだ洗濯機買ってないの?」
ランドリーバッグ片手にアパートを出ていくわたしを、長谷川さんは不思議そうに見ていた。
「お金ないわけじゃないんだからさァ、買えばいいじゃん」
「そういう問題じゃないんです」
「どういう問題?」
長谷川さんは半分笑いながら訊ねた。口を衝いて出た適当な言葉だったので、どういう問題なのか、自分でも説明がつかない。答えあぐねて、長谷川さんには関係ないと突っぱねた。
「ひでえな、隣人のよしみじゃん」
「元、隣人でしょ」
元を強調して言うと、長谷川さんは「それは言わない約束でしょ」と嘆いた。長谷川さんは元はわたしの隣人だったが、家賃の滞納期間が度を超えて追い出されてしまった。今はアパートの前の公園に段ボールを敷いて、そこで寝泊まりしている。
長谷川さんを公園に置き去りにしてコインランドリーへ向かう。自動ドアが開いて、思わず足を止めそうになった。あの人が、椅子に座っていた。例の如く、膝の上に少年誌を乗せて。
いつもわたしのほうが先に来ているので、予想していない状況だった。止まりそうになった足をなるべく自然に動かし、横をすり抜けて洗濯機の蓋を開く。衣類を放り、洗濯機を回す。ぐるんぐるんと回り始めた衣類を数秒見つめ、そっといつもの円卓へ座った。バッグを開け、文庫本を探す。が、どこにもない。忘れてしまったようだ。
乾燥が終わるまで、たっぷり一時間。こちらに背を向けているあの人の様子を眺めていればあっという間だけれど、視線をごまかすものがない。堂々と見ていればストーカーみたいだ。いや、盗み見している時点でストーカーと大差ないのだ。あの人はわたしに興味なんかないだろうけれど、知ってしまえばきっといい気分はしないはずだ。
自分の行動を顧みて、今更反省した。わたしは席を立ち、洗濯が終わるまで近場で買い物でもすることにした。しかし、自動ドアの向こう、分厚い灰色の雲が空を覆っていた。遠くからは雷鳴も聞こえている。
「雨降るみたいよ」
背中にかけられた声に、驚いて振り返る。店内には、銀髪のその人しかいない。しかし、彼は相変わらず少年誌に視線を落としている。でも、今の声は――。
「おとなしく待ってたら?」
その人の口だけが動いていた。わたしは瞬きさえ忘れて立ち尽くした。しかし、二度目の雷鳴に耳を奪われ、再度外を見たときには雨が降り始めていた。雨はあっという間に勢いを増し、地面を叩きつけている。
わたしはなんとなく気まずいまま、踵を返した。しかし、手ぶらで戻っては目のやり場にも時間の費やし方にも困るので、雑誌棚の前に立った。そこにあるのは青年誌や下世話なゴシップを取り扱う週刊誌だった。有名人の浮気話なんて見たくもないので、消去法で青年誌を取った。その表紙は、水着姿の女の子だった。豊満な胸を惜しげもなく晒している。ぱっと中身を開いてみると、女性の裸体が目に入ってきた。反射的に雑誌を閉じる。青年誌って、あんな露骨な表現があるものなのだろうか。
青年誌を棚へ戻し、仕方なしに週刊誌を手に取る。すると、いつの間にか隣に立っていたその人が、わたしの手から週刊誌を手に取り、代わりに少年誌を渡してきた。
「ジャンプは女の子でも読めるから」
想像よりも、低くて落ち着いた声。静かに流れる水のような、耳心地の良さ。わたしは戸惑いながら、なんとかお礼を言った。
「あ……ありがとうございます」
洗濯が終わるまで、わたしはジャンプを読んだ。内容はほとんど入ってこなかった。
◇
「そんでババアが般若みてえなツラして家賃請求に来てさァ」
「それは坂田さんが悪いでしょ」
くすくすと笑うと、坂田さんは後頭部を掻きながら「いや、でも」と弁明を始めた。わたしは隣から聞こえる声に耳を傾け、自動ドアの向こうを見た。行き交う人の視線はこちらへ向くことはない。まるで見えない狭い世界に閉じ込められたようだった。
銀色の彼の名前は、坂田さん。かぶき町で万事屋を営んでいる。木刀を差しているのは何かを持っていないと落ち着かないからで、深い意味はない。銀色の跳ねた髪は生まれつきのものなのかは、まだ訊いていない。
雷雨の日から、コインランドリーで顔を合わせると時々会話をするようになった。こっそりと眺めていた彼が隣でわたしに話しかけていることが最初は信じられなかったが、徐々に打ち解けていった。坂田さんはいつも気怠げな雰囲気だが、話しはじめると話題は豊富で退屈しなかった。押し引きが上手いのだと思う。
「万事屋の仕事はどうだったんですか? たしか、家出息子を捜すって言ってましたよね」
年がら年中家計が火の車だという坂田さんの元へ、先日依頼が来たと聞いていた。依頼主は羽振りの良い商家の総代で、息子を連れ戻せば多額の報酬金を受け取れるとか。
「はた迷惑な奴だったぜ。なまじ顔がいいもんで、行きずりの女の家に転がり込んでやがった」
「へえ。アグレッシブですね」
「おかげで散々走り回った」
坂田さんは呆れ顔で肩を竦めた。日々同じ道を歩き、同じ仕事をして、堅実に働くわたしには自由業は少し羨ましかった。
「でも、たくさん依頼金をもらえるんでしょ?」
「パーっと焼肉でも食いにいくかって話してんだよ。どう? 一緒に行く? ガキどももいるけど」
わたしは「えぇ?」と笑った。社交辞令だろうか。
「何もしてないのにお邪魔するわけにはいかないですよ。みんなで楽しんできてください」
断ると、坂田さんはそう? と引き下がった。やっぱり社交辞令だったのか。わたしは勝手に落ち込み、その反面、少し安心した。急に距離が近付くと不安になる。
ピーッと洗濯機が鳴った。わたしは椅子を離れ、乾いた衣類を取り出した。坂田さんと一緒にいると、一時間はとても短い。
「じゃあ、また」
「おう」
坂田さんと別れ、コインランドリーを出る。夕闇に包まれる街には、街灯が灯り始めていた。
◇
坂田さんはわたしの姿を認めると、膝の上のジャンプを閉じる。かぶき町を覆う紫混じりの夕日がビル群に沈もうとしている頃だった。いつもよりも来る時間が遅くなってしまったので、もういないと思っていた。
「よぉ」
「こんにちは……あ、こんばんは。ですかね」
坂田さんはどっちでもいいよと微笑した。場末のコインランドリーは今日も空いている。動いているのは洗濯機一台だけだった。
洗濯機へ衣類を押し込み、スイッチを押す。隣に座ると、坂田さんはいつも通りに取り留めのない話を始めた。わたしはどこか上の空でそれを聞いていた。
兄が洗濯機を買ってくれた。以前からしばしば家に足を運んでいたので、兄は長谷川さんとも顔見知りだ。おそらく、長谷川さんから何かしら話を聞いたのだろう。今日の昼間、洗濯機の取り付けが終わった。
「聞いてる?」
坂田さんは広げた足に肘を置き、前のめりになって覗き込んでくる。
「聞いてます聞いてます。愛犬の去勢の話ですよね」
「してねーよそんな話。去勢とかあっさり言うけど、男にとっちゃシンボルだからね。人間だろうと犬だろうと変わんないからね」
「そういうものですか」
「そういうもんなの。だって世界に一つだからね」
「……いいように言ってません?」
「事実だろーが」
平然と下ネタを話すあたり、遠慮や気遣いとは無縁のように見える。
もしかしたら、今なのかもしれない。以前から隠れて見ていたことや、もうここに来る用事はなくなってしまったことを話す。そして、ここには来ないけれど、これからもどこかで会いたいと言う。ふっと思いついた考えは、突飛で彼を驚かせてしまうだけかもしれない。でも、今を逃したら先なんてない気がする。
姿勢を坂田さんへ向けると、透明なガラスから差し込む怪しい色の日差しが、彼の頬を照らしていた。目が合うと、途端に動悸がする。物言いたげなわたしに、彼は首を捻った。そして、彼が薄く唇を開いたとき、ピーッと背後で音がした。洗濯が終わった。
「出したほうが」
わたしは取り繕うように言った。しかし、坂田さんは動かない。
「なんか言いたいんじゃねえの?」
「……また、今度でもいいです」
「今でもいいだろ」
逃げ場を塞ぐように追いかけてくる言葉に戸惑ってしまう。目を泳がせていると、自動ドアが開いた。
「あー、またここにいたアル」
現れたのは、傘を広げたチャイナ服を着た少女だった。坂田さんが「神楽」と少女の名前をこぼす。彼の話に度々出ていた、万事屋の従業員の子のようだった。
少女は傘を閉じ、しゃべりながらつかつかと店内へ入ってきた。
「せっかく洗濯機買い替えたのに、なんでわざわざ外でするアルか。新八が天パ無駄遣いするなって怒ってたアルヨ」
「…………」
坂田さんは黙っている。少女は止まった洗濯機の蓋を開け、ちらりと坂田さんが脇に置いていたバッグを見遣った。そしてそれを引っ掴み、取り出した衣類をどんどん詰めていく。その動きの荒さは坂田さんに似ていた。
口を閉めたバッグを担ぎ、少女は坂田さんを振り返った。
「夕飯までには帰ってこないと、銀ちゃんの分も食べるアルからな」
少女はあっという間に自動ドアを抜けて去ってしまった。唖然としていたわたしは、隣の坂田さんを見る。が、坂田さんは両手で耳を覆って背を丸めていた。
「坂田さん……?」
「あーあーなにも聞こえなーい」
「洗濯、家でできるんじゃ」
「聞こえねーしさっきのも、ほら、幻聴だし幻覚だから。座敷童だよアレ」
「コインランドリーに座敷童?」
「うちにいるのがついてきたんだよ、銀ちゃんって呼んでたろ」
「聞こえてるじゃないですか」
しまった、と坂田さんが顔を上げる。間抜けな表情と、少し赤くなった耳。
拍子抜けしてしまった。わたしたちは最初から、あれこれと理由付けをしていただけだったのだ。
坂田さんは居心地が悪そうに口元を引き締めている。わたしも恥ずかしくなって、深く息を吐いて両頬を覆った。そして、ずっと気になっていたことの答え合わせをする。
「その髪、天パなんですね」
坂田さんは顔をしかめた。
「ひとのコンプレックスいじって楽しいか」
「コンプレックスなんですか」
「ストレートなら俺だってモテモテよ」
「坂田さん、わたし、まだ訊きたいことがたくさんあるんですけど」
坂田さんは寄せた眉から一瞬だけ力を抜き、しかしすぐに難しい顔をして後ろ髪を掻いた。
「……俺も訊きたいことあんだけど」
「なんですか?」
「……名前、まだ知らねえ」
知れば知るほど、興味が尽きない。その佇まいや、投げ出した足や、どう見てもいい年の大人なのに毎回少年誌を読んでいること。放っておけと言われてしまうような、些末なこと。たわいのない話はいくらでもできるわりに、急に気まずそうに、そっぽを向くこと。
そんなどうでもいいようなことを、少しずつ、わたしに教えてほしい。
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