※流血、性描写注意
昔から夜目は効くほうだ。明かりがなくても暗がりに浮き出た影は見えるし、耳も良いので生き物の気配には人一倍敏感だった。しかし、それができなければ務まらないのが忍というものだった。ネズミ一匹逃してはならない。張り詰めた極限の緊張感の中では、自分の呼吸さえ邪魔だった。
天井裏に忍び込むのは朝飯前。壁の薄い遊郭の中で、標的を探すのも赤子の手を捻るよりも容易い。
木の板の隙間からそっと階下を覗く。太った男の剥き出しの背中が見える。へこへこと腰を振っている。まるで発情期の犬だ。嘲笑さえ漏れない。今すぐにでもその首を掻き切りたい衝動をじっと堪え、じっと時を待つ。遊女のわざとらしい嬌声が耳につく。
遊女が一際甲高い声を上げた。男の背も僅かに震えている。わたしは懐から短刀を取り出した。標的を一撃で仕留めるときは、クナイよりも短刀が確実だ。
あらかじめ壊れやすいように細工してあった天井板に足裏を添える。男と遊女の結合部が離れたことを目視し、一息に天井板を踏み外した。
畳の上に着地したわたしを遊女が目を見開いて見る。背を向けていた男は遅れて振り返ろうとするが、その間、ほんの一秒。短刀で男の首を掻き切った。
絶叫が響く。噴き出る血飛沫。顔に温かいものが飛び散った。
遊女は裸のまま部屋を飛び出していった。足音がドタドタと遠ざかっていく。
流れ出る血は広がり、あっという間に辺りに真っ赤な池が出来上がった。口布を外すと、鼻腔に血の匂いが一気に入り込んでくる。痙攣する男の背中を転がし、うつ伏せにさせる。肘の裏を確認し、わたしは愕然とした。
「お探しの首はこれかィ」
血溜まりの中にサッカーボールほどの大きさのものが転がってくる。人の頭だった。既に血の気を失っているその顔は、今、わたしの眼前で未だ頭と首を繋いでいるその男と同じだった。
部屋の敷居を跨いできた隻眼の男は、煙管を咥えて悠々とそこに佇む。
「そいつもはずれだったがな」
瞳孔の開いた双眸を見つめる。そして、再度倒れている男を見遣る。本物には、肘の裏にほくろがある。わたしは舌打ちをしたい気持ちを抑え込み、短刀を握り締めた。
「元御庭番衆が今や幕臣の首を狙うテロリストとは、落ちぶれたもんじゃねぇか」
見知らぬ男の知ったような口振りに振り返る。
「本物の首は?」
「さてな。この騒ぎで逃げ果せただろうな」
抑えたものを倍にして舌を鳴らした。血の付いた短刀を鞘に収める。一階が騒がしい。
「御庭番衆を廃された報復か? お家を潰された腹癒せか。どちらにしても、そこまで恨みを募らせることができるのもある種才能だが、おまえさんの技は忍にしちゃ派手だな」
「あなたはなんなの?」
「同じ穴の狢と思ってくれて構わねえよ」
男の腰の刀は鞘に収まっていたが、着物には血がべっとりと付いていた。返り血だろう。
仕事が終わったら速やかに撤退するのが鉄則だが、わたしは動けなかった。隻眼の男の口から出る言葉を無視できなかったのだ。
煙を燻らせ、男は笑みを浮かべた。眼光に息が詰まる。その目は暗い色をしていた。
「一人働きもいいが、手を組む気はねえか」
思いがけない誘いに、わたしは眉を顰めた。
「冗談でしょ」
「冗談を言うように見えるか?」
「派手な忍を雇うようには見えない」
「根に持つな。悪気はねぇ」
轟々と空気を揺るがす音が響く。男は血の上を歩き、障子を開け、窓を開け放つ。そこには硬質で重々しい小型ヘリが飛んでいた。風を切る凄まじい音が鼓膜を震わせる。吹き込んでくる風に血が波立ち、部屋のお香や脱ぎ散らかした着物、空になった小鉢や徳利が室外へ飛ばされていく。どこからともなく舞い込んでくる桜の花びらは、まるで雪のように白い。
「気が変わったらいつでも来い。よく切れる刃なら、いつでも欲しいんでな」
屋根に上がり、男はヘリに乗り込んだ。ヘリは轟音と共に飛び立っていく。建て付けの緩い襖がガタガタと揺れていた。
わたしは呆気に取られたまま、しばらくその場に立ち竦んでいた。大歓迎と言いながら、名前も名乗っていなかった。いや、あんな誘いに乗る気は毛頭ないが――。
複数人の足音が階段を上がってくる。はっとして、わたしは屋根へ出た。しかし、すぐさま退路を屋根裏に確保してあったことを失念していることに気付く。戻ろうにも、迷っている暇もなくそのまま屋根を駆け抜けた。
点滅する光が、夜空に浮いている。それは朝を待たずして、遠い空へ消えていった。
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