古い箪笥に鍵を差し込む手が震えている。乾いた指から鍵が滑り落ち、慌てて拾う。ほんの数秒間の鍵穴との格闘の末、引き出しは開けられる。厳重に保管されているわりに、中の巻物や書類は剥き出しになっていた。
一つの巻物を手に取る。ほっと安堵したのも束の間、頬の脇に鈍色の切っ先が降りてくる。音も気配もなく背後に立った男は、落ち着いた声色で女に告げた。
「それをどうするつもりだ」
目線すら上げられず、女は声を詰まらせた。男は女が素人であることを見て、悠々と懐から出した煙草に火を灯す。吐き出した紫煙が暗がりに浮いていた。
「投降しろ。命までは取らねぇ」
その言葉を聞くか否かで、わたしは男の刀の柄目掛けてクナイを飛ばした。一瞬の空を切る音に、男は素早く反応して飛び退った。クナイは畳に突き刺さった。女は短い悲鳴を上げ、その場に尻餅を着く。
潮時か――。悟ったわたしは天井板を踏み壊し、女と男の前に飛び降りる。男の面食らった顔が目に入る。
後ろ手で巻物を受け取り、怯える女に「行きなさい」と言うと、女は足を縺れさせながら部屋を出ていった。男はその背を黙って見送った。追いかけたところで、彼女からは何も出てこない。そして追おうとすれば、わたしに行先を阻まれることを知っている。
煙草の灰が、ぽとりと落ちた。赤く焦げついたそれが消えていく。
「彼女は何も知りませんよ」
月のない夜。暗闇に馴染む、黒い制服、鋭く光る眼光。なるほど、鬼と呼ばれるのもわかる。
「妹が病気で、医者代のために手を貸しただけです」
「…………」
室内に沈黙が流れる。だだっ広い屋敷だが、この部屋は狭く埃っぽい。抜け道はない。ここを抜けるには、目の前の男を説き伏せるか、クナイで射抜いて進むしかない。しかし、どちらも絶望的なほどに成功確率は低い。説き伏せられる理由もないし、話術もない。一度晒してしまった手の内で、油断させることもできない。そもそもクナイは至近距離で使う武器ではない。御庭番衆の筆頭ほどの力がわたしにあれば違ったかもしれないけれど。
ここまでは、天井に潜んでいる間に想像していた通りの流れだ。さて、どうしようか。
「ここの商家の総代は幕府との癒着が噂されています」
「ああ、知ってる」
男はあっさりと答えた。
「知ってて尚、護る価値があるとでも?」
「それが仕事だ」
「肥えた豚に餌をやることが? 養豚場でも経営されたらいかがですか」
「くだらねえ時間稼ぎに付き合うつもりはねぇぞ。てめえはどこの誰の回し者だ」
一層鋭く光る目。
袖口に忍ばせてあるクナイの感触を確かめる。
「職を失ったしがない忍です」
「転職先を訊いている」
「忍も就職氷河期で……」
銃声が響く。男の気が逸れた隙に、クナイを投げる。クナイは刀身に当たり、刃物が擦れる不快な金属音が鳴った。男は刀を手放さなかったが、その矛先を背けることには成功した。腕力では勝てないが、脚力で忍に勝るものはいない。しかし、男も相当素早かった。脇を擦り抜けると、すぐさま刀を握り直してあとを追ってくる。
部屋を飛び出すと、眼前を見慣れた着物が過った。すれ違いざまに目が合ったが、笑っても怒ってもいなかった。無表情で、ひどく冷めていた。
まっすぐな一本線のような、透き通った音が辺りに響く。庭先の池の水面が波紋を広げる。
派手な柄の着物が翻る。彼が刀を振りかぶっている様を、わたしは初めて見た。
男の手入れの行き届いた光る刀身と、彼の血の付いた刀身が混じり合う。既に何人か斬ってきたようだ。廊下の先には血痕が落ちていた。
「高杉……!」
男が唸る。彼は不敵に微笑んでみせた。
「悪いな。これは俺のもんだ」
再度銃声が鳴る。わたしはクナイを数本構え、男の足元へ投げた。一本が足首を掠めたが、男は怯まなかった。寧ろその逆境を歓迎すると言わんばかりに、尚も足を踏み出そうとする。そのとき。
「副長ォ! 屋敷に火が!」
男の背後の屋根から濛々と煙が昇っていた。男は舌打ちをした。
赤い炎が高杉の顔を照らしている。わたしは小声で「やりすぎだ」と言った。が、彼は聞こえているのかいないのか、何も答えなかった。
物も言わずに庭へ降りるその後に続く。息を切らして駆けてきた別の男に指示を出していた男が叫ぶ。
「待て、高杉!」
男はこちらに向かってこようとする。彼はそれを一瞥し、血を払うように刀を振って庭の木を切り倒した。倒れた大木から砂埃や葉が舞う。池にまで枝葉が落ち、水飛沫が上がった。行く手を阻まれ、男はまた悔しげに彼の名前を叫んだ。
脇目も振らずに火災現場へ向かっていく同心たち。消防車の音が静寂に包まれていた夜の街を賑やかす。
狭い路地を進みながら、彼はぽつりと言った。
「殺すつもりでいけと言ったはずだが」
「……」
「足でも目でも潰せただろう。なぜしなかった」
「なぜって……」
「まあいい」
自分から責めて問い詰めたくせに彼は早々に話題を切り上げた。その自分勝手さには未だ慣れない。鬼兵隊の面々は彼に心酔しているようなので、彼を客観視することもできないのだろうか。諌める相手がいなければどこまでも破滅に進んでいくような彼を、誰か止めることはできないのだろうか。
石垣に覆われた長い坂道の途中、彼は不意に足を止め、ゆるりと振り向いた。顎をすくわれ、触れるだけの口づけをした。彼の手にはまだ生温い血が付いていた。
「あとで部屋に来い」
「……忍として雇われはしたけど、敵娼になった覚えはない」
「敵娼じゃなければ、何がいい」
坂を登り切っても、夜空に光はない。遠い朝を待ち望むのは、わたしだけ。
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