「品性に欠ける」
研ぎ澄まされた刃物のように彼女は言い切った。青い葉の間にぶら下げられた欲望に向けてだ。汗の滲む首筋を見て、やましいことを考えていた俺にではない。
「七夕ってそういうもんだろ」
「だとしても……競馬競輪競艇。あとはパチンコ。この街は博徒しかいないの?」
「否定はできねえな」
開き直ると、彼女は肩を竦めた。賭博になど一切興味のない役所勤めの人間からすれば、理解し難いだろう。
梅雨明け、初夏。蝉は疎らに鳴き始め、昨夜の雨を引きずっているせいで蒸し暑かった。かぶき町の一角の噴水広場には、来る七夕に向けて町内会が設置した笹がある。折り紙で飾り付けられたそれには、誰でも自由に短冊に願い事を書くことができる。簡易テーブルに置かれた短冊とペンが、日射でじりじりと焼かれていた。
彼女は翻る短冊を眺めて眉を顰めた。どいつもこいつも私利私欲にまっしぐらだ。
「場所が悪いんだろ」
俺は視線をぐるりと回して公園内を見渡した。かぶき町には住所不定無職の浮浪者が多い。公園は、そんな行き場も生きる場所もない奴らの溜まり場だ。日中は日差しが厳しいので皆お手製のマイホームに潜んでいるが、夕暮れになると亀のようにのそのそと出てくる。街灯の下で僅かばかりの缶ビールを飲むのが、連中の潤いだ。
「ここが一番大きな公園なんだから、仕方ないの」
「撤去するか?」
「……ううん、いい。今更だし、せっかく書いてあるし」
彼女はかぶりを振った。首に張り付く髪を避け、息を吐く。暑さで僅かに上気している頬が、熟れた柘榴のようだった。
北の生まれらしい彼女は、暑さが苦手だった。かき氷食べたくないですか、と言うので、奢りなら、と答えて一緒に公園を出た。歩幅を合わせるのは、まだ慣れない。
役所勤めの彼女がかぶき町のナントカ課に異動したのは、昨年の雪の降る季節。前任者がデキ婚、寿退社をし、有無を言わさずあてがわれた。ならず者の集まりの街で、まず彼女が頼りにしてきたのはお登勢のバアさんだった。バアさんは口は悪いが面倒見は良いので、彼女のことを娘のようにかわいがっている。何かとスナックに出入りするものだから、知り合いになるのは必然だったように思う。
たわいのない世間話をしているうちに、役所と町内会共同の催し物があるたびに駆り出されるようになった。何月何日に現地集合、と彼女の少し癖のある手書きの文書がうちに送られてくるのだ。人手が足りないのだとこき使われ、報酬は少しの現金と、駄菓子だのジュースだの、今時のガキでも喜ばないような駄賃ばかり。しかし、神楽は酢昆布一つで喜ぶし、新八は日がな一日だらけているよりはマシだと言う。俺はくたびれた体を、甘い苺味の飴で慰めた。
「ブルーハワイください。坂田さんは?」
「イチゴ。練乳たっぷりで」
小さな店が並ぶ通りで、目に入ったかき氷屋で彼女は迷いもせず注文した。俺も即答だった。かき氷といえば、というセオリーが互いの中にあるようだ。
注文してから間も無くして、かき氷を渡された。安っぽい粗い氷に、青と赤のシロップがそれぞれにふんだんにかけてある。ねじり鉢巻のオヤジが「ああ、練乳」と忘れていたように引き止める。かき氷を差し出すと、赤い氷にチューブから勢いよく練乳が降り注ぐ。
「おじさん、わたしにもください」
彼女も容器を出す。おやじは黙ってチューブを搾ってやった。鮮やかな青色に落ちる白。
「甘いの好きだっけ」
彼女が甘味を食べているところは見たことがなかったので訊ねた。彼女はかき氷を見つめ、少し考えてからふっと笑った。
「坂田さんが好きだから、わたしも好きになった」
あんまりにもおいしそうに食べるから、と言い残し、彼女は背を向けた。そういうことか。びっくりしすぎて心臓を掴まれた。
店に座るスペースはないので、裏手の屋根の下でかき氷を食べた。ちょうど木陰になっていて涼しい。椅子代わりの木箱の座り心地はいまいちだったが、体温がぐんと冷えていくのを感じる。舌の上であっという間に溶ける氷と、ねっとりと残る甘み。喉から胃にかけて寒ささえ感じる。
かき氷を食べ終わると、俺の口内にはしつこい甘さだけが残った。隣を見れば、彼女はまだ氷を掬っていた。汗はもう見えない。もったいなかった。いつも冷静な彼女の熱を見逃したような気になる。
前髪が風で揺れている。小さな口の中で蕩ける氷を夢想する。彼女の舌は今、青く染まっている。俺の舌はたぶん、健康的な色になっている。混ぜたら紫になるんだろうか。妙なことを考えている自分に気付き、自重するように目を伏せた。しかし、彼女は俺の視線にも全く気付いていなかった。さすがに意識されてなさすぎやしないか。やや不満に思い彼女の視線を追うと、向かいの家に小さな七夕飾りがあった。
ようやく俺のほうに意識が向いた彼女が、俺を見て、笹を見遣る。「短冊、一個もない」と取って付けたようにこぼす。確かに、そこには色とりどりの飾り付けがしてあるが、短冊は見えなかった。
「お願いないんじゃねぇの?」
「そんな人いる?」
「いるよ、俺とか」
「うそ」
プラスチックの細いスプーンで、彼女は容器の底を突く。じゃくじゃくと音がする。氷がほとんど形を成していないのがわかる。青くて水っぽいそれを掬い、彼女は口に入れた。
「おまえはないの? オネガイ」
「あるよ」
「えっ、あるの?」
「あるよ。普通あるでしょ。大なり小なり」
「……あっそう」
訊かないのか。自分に問う。
「訊かないの?」
彼女に問われた。
「訊く?」
挑発するように問われる。蝉が近くにいるらしく、やたら大きな声が聞こえる。
面倒になったのか、彼女は容器を傾けて溶けた氷を口に流し込んでいた。色気のかけらもない。流し込んだそれを飲み込み、口元を指で拭う。柔らかそうな唇が歪む。
迷っているうちに、彼女は腰を上げた。「お登勢さんのところに行かなきゃ」と。ついてこいとも言われてないのに続く。陽の下に出ると目が眩む。
七夕に始まり、花火大会、祭り、肝試しと、夏はイベントが目白押しになる。彼女は仕事柄それらに役員として参加する。俺も手伝いをする羽目になる。駄賃はいつもの甘い苺味の飴。愚痴はこぼすが、不満なわけではない。理由があればそばにいられる。ただ、憎まれ口の一つでも叩かないと居心地が悪くて仕方がない。邪険にされて罵られるくらいがちょうどいい。
スナックお登勢は施錠されていた。そんなことは滅多にないのだけれど。三人揃って出かけているのだろうか。
「メシにでも行ったか? くそ、俺を差し置いて……」
「神楽ちゃんたちは?」
「あ、そういや静かだな」
二階に行くと、案の定もぬけの殻だった。机には「バアさんたちと焼肉に行く」と不恰好な文字の置き手紙がある。肉なんて久しく食べていない。俺は苦虫を噛み潰した。大黒柱に何という仕打ちだ。意地でも探し出してやりたいところだが、玄関先では彼女が待っている。ああ、連れていけばいいか。せっかく一緒にいるし、バアさんに会いにきてるわけだし。そうしよう。
一人頷き、彼女に近付く。しかし、はっとした。彼女の前には青い葉を垂らす笹。吊るされた短冊。
「ストレートヘアになりたい」
呟く彼女。短冊を摘み、俺に見えるように向けてくる。
「お願いなんてないんじゃなかったけ」
「いや、神楽が七夕やりたいアル〜とか言うから仕方なく! 仕方なく付き合ってやってるだけだから!」
「ごはんですよがいっぱい食べたい……神楽ちゃんか」
くすくすと楽しそうに彼女が笑う。必死に弁明する俺がバカみたいだった。新八の短冊には、道場復興と書いてある。揺らがない地味さだ。そんな初期設定誰も覚えてない。
「我が強いわりにささやかだね」
「我が強いは余計だ。それに、そんな願い事しか出てこないうちは平和ってことだろ」
彼女は目を瞬かせた。そして、それもそうかと得心した。
「でも、坂田さんはもっと大きい夢を書いてもいいと思うよ」
「海賊王になれますようにとか?」
「海賊王は無理だけど、坂田さんにはいろいろお世話になってるし、わたしにできることなら何とかするよ」
じゃあ今夜一発、と喉から出かかった言葉を飲み込む。熱に浮かされて足を踏み外していい相手ではない。酒の勢いで好き勝手もしたくない。だけど、面と向かって素直になれるほど明け透けにもなれない。しかし、二度と来ないであろう、この好機を逃してもいいのだろうか。
高速回転する脳に反して、表情筋が動かない。彼女は不思議そうにこちらを見上げている。優しげな目に添えられた睫毛がぱちぱちと動く。口がゆっくりと開く。それを遮るように声を被せた。
「今度呑みに行かねえ?」
開きかけた口で彼女は苦笑いした。
「たまに行くじゃない」
「そうだけど、たまには違う店にしねえ? いつもババアのとこだし」
「うん。いいけど」
あっさり了承された。当然だ。いつもしていることなのだから。
彼女は夕方にまた来ると言って万事屋を後にした。自分の意気地のなさに呆れた。
◇
日が沈み、神楽がドラマに夢中になっている間に一階に降りた。明かりの漏れる道に、彼女の声が微かに聞こえる。常連客と談笑している。彼女は見た目こそ攻撃性はないが、意外に毒舌だ。その上酒好き。そのギャップが中年の男に好かれて、今ではすっかり街に馴染んでいる。
——最初のうちは、坂田さん坂田さんって言ってたのに。
くだらない嫉妬が芽生えて、顔を見たら後悔に苛まれそうだったので引き戸に掛けた手を引っ込めた。頭を掻き、夜の街を歩み出す。
昼間の暑さは鳴りを潜め、涼しい風が吹いている。満点の星空だ。天の川らしいものは見えないが、十分にきれいだ。今頃、織姫と彦星は再会に涙しているのだろうか。年に一回しか会えない二人に比べれば、俺なんて恵まれている。帰る家があって、温かいメシがあって、ガキどもがいて、惚れた女のそばにいる。これ以上に望めば、抱えたものがこぼれ落ちていく。贅沢すぎるほど、今が満たされている。満たされ過ぎていて、ときどき不安になる。
あてもなく歩いていると、昼に彼女と来た噴水広場に着いていた。街灯の下で酒盛りをしている連中を横目に、大きな笹の前に立つ。簡易テーブルの短冊は、残り数枚になっていた。一枚手に取り、ペンを持つ。
「あれ、銀さーん。何してんだよ」
長谷川さんがほろ酔い状態で絡んできた。吐き出す息が酒臭い。
「銀さんも願い事書いちゃったりすんの? 嫌だね、いい年してそんなのに頼っちゃうなんて」
「嫁さんとヨリ戻せますようにって書いたヤローに言われたくねーよ。こんなとこに書いてる暇あったら仕事探せ無職」
「えっ、なんでそんな辛辣?」
長谷川さんが半泣きになっているが、無視してペンを滑らせる。こんなとこに書いてる暇あったらか。我ながらブーメラン。こんなところにいるくらいなら、気の利いた口説き文句のひとつでも考えればいいのに。
短冊を書き終え、笹をぐるりと見回す。ホームレスが至るところに短冊をぶら下げているが、中にはちゃんとまともな願い事もあった。空いている場所を探していると、長谷川さんがそういえばさ、と話題を振る。
「今日、銀さんと一緒に来てた女の子いたじゃん」
「ああ、それが? 馴れ馴れしくすんなよ、話しかけたらグラサン割るよ」
「何その理不尽……いや、その子、夕方一人でここに来ててさ」
「ふーん。で?」
やはり撤去するか考えにきたのだろうか。空いている場所を見つけ、伸び上がって細い枝に紐を括る。隣に吊るされた短冊が目に入る。癖のある文字。見覚えがある。
「短冊書いてたよ。それで、見えないように高いところに吊るしたいって言って、俺頼まれて。ああ、ちょうどその辺」
その短冊を引きちぎりたい衝動に駆られた。が、どうにか堪える。浮いていた踵を落とし、茫然とする。
長谷川さんが口元を弛めている。
「好きな人がいるんだけど、その男、たぶん自分に気があるのに、全然踏み込んでこないんだって。なんかもう視線をビシビシ感じるんだって。今日もだめだったから、もう自分からいくしかないかなって話してて。いや、けっこうな別嬪さんで、きみがいけばコロッと落ちるよなんて話してて」
「もう落ちてるわ」
「え?」
長谷川さんの顔からグラサンを取る。振りかぶり、それを思い切り投げ飛ばした。ぽかんとしていた長谷川さんが、数秒遅れて大声を上げる。
「えええ!? なんでぇ!?」
「話しかけたらグラサン割るって言ったろ」
「いや話しかけられたほうだから! 自分からいったわけじゃないから!」
長谷川さんは喚きながら茂みに埋もれていったサングラスを探しに駆け出す。俺はもう一度短冊を見上げる。青い葉とともに揺れ、翻っては重なる。一頻りそれを眺め、長谷川さんが文句を言いに戻ってくる前に公園を離れた。鼓動に合わせて足取りも早まっていく。早く、彼女に会いたい。
もっと大きい夢を、と言った彼女のことを思い出す。俺が望むのは、そんなに大それたものじゃない。気の合う奴らがいて、酒を呑んでメシを食い、眠ることができたらそれでいい。ごく当たり前で、けれど奇跡のようにありふれた日々を護りたいだけなのだ。それが望んだものだから。いや、望み得なかったものだから。
叶うなら、そこに彼女がいてくれたらいいと思っていた。それを、彼女も望んでくれている。だったら、いつまでも足踏みしているわけにはいかないだろう。
下手くそな歌声の響くスナックの戸を開ける。きょとんとした彼女の手を引いて、店の外へ連れ出した。からかう声を遮るように雑に戸を閉めた。
「おまえの願い事、叶える」
「……え?」
走ってきたせいで息を切らす俺を、彼女は怪訝な顔で見ている。双眸は酒のせいで潤んでいる。強く抱きしめ、驚く彼女の耳元で呟く。
「だから俺のも叶えて」
当惑していた彼女が、胸の中で笑う。遅い、と背中を叩かれた。ああ、本当に。遅過ぎたくらいだ。
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