長雨がようやく止んだ夜のことだ。一旦は布団に身体を沈めたのに、どうにも目が冴えてしまっていた。
トイレに向かう途中で外の空気を吸い込むと、土の匂いを感じる。濡れた風。低い位置に、あの日と同じオレンジ色の月がある。
人間の脳はよくできていると思う。記憶の海はとても広いのに、たった一滴、黒い水滴が落ちるだけで、瞬く間に海全体が黒く染まる。波及して広がり、簡単に足元を揺らがせる。前触れはない。けれど、一度染まるとなかなか元の色には戻らない。
身体を這う手の感触や、触れる荒い息。ひとりの夜に、鳴る風の音。蛙の声。凛と咲く黒百合の姿。
もう昔のようなことはないとわかっているのに、身体が動いてしまうときがある。知らぬ間に刀を手に取って、また迫り来るかもしれない恐怖に怯えている。些細なことが琴線に触れ、臆病な子兎のように、わたしはまた、穴蔵で息を潜める。
用を済ませ、部屋に戻る。寝巻きから隊服に着替えると、少し落ち着いた。その足で資料室に向かった。隊士のほとんどは眠りについている時間だったが、資料室には明かりが灯っていた。しかし、人はいなかった。消し忘れか。
「消しなさいよ」
独り言ちて部屋に入る。スチールラックに整然と並んだファイルの数々。人気がないせいか、空気は冷たく感じる。
眠れない夜の過ごし方はいくつか心得ている。一番多いのは浴びるほど酒を呑んで強制的に眠りにつく方法だが、これは翌日のダメージが大きい。あとは刀の手入れをしてみるとか、いつもはしない敷居や窓のサッシの掃除をしてみるとか、あらゆる手段で時間をやり過ごす。そうしていると、幸い、朝は勝手にやってくる。
最近覚えたのは、過去の事件資料を片っ端から読むやり方だ。退屈凌ぎになるし、仕事の一環とも言えるし、未解決事件ならば何か別の糸口を見つけられるかもしれない。そうして頭を働かせることで、鼻の奥に残る匂いを消す。
適当なファイルを引っ張り出し、ひたすら文字を追う。本なんて普段読まない。なので本来、活字を熱心に読むのは不得手だ。しかし事件資料だけはすらすら頭に入ってくる。並んでいるのが馴染みのある言葉ばかりなせいかもしれない。
「ミョウジ?」
はっとして顔を上げる。入口に副長が立っていた。
「何してんだ、こんな時間に」
副長は隊服姿だが、丸腰だった。壁の時計を見遣ると、丑三つ時になっている。
「……仕事です。見てわかるでしょ」
「いつからそんなに仕事熱心になったんだ」
「元々です」
「ふざけろ」
副長はわたしの背後を通り過ぎ、一つ棚を挟んだ向かい側に行く。香る煙草の匂いが濃い。
「まだ仕事ですか?」
「見てわかるだろ」
ぞんざいな返事。疲労が溜まっているわけではなく、いつもこんな感じだ。
「ワーカホリックですね」
「したくてしてるんじゃねえよ」
紙を捲る音がする。上にも下にも問題児を抱える副長は、日々誰か——主に局長や沖田くん——の後始末に追われている。部屋の明かりが深夜まで消えないことも多々ある。それでも朝稽古に遅れたことはないし、自ら定めた局中法度を誰よりも重んじている。厳粛かつ厳正に、隊士たちに侍の在り方をその身をもって示しているのだ。
逸れた意識を再び紙面に戻す。目を落とすと、数年前の攘夷志士グループが起こした毒殺事件について記されていた。
幕府の高官が訪れた秘密裏の会合の席で、ホテルスタッフになりすました攘夷志士が配布する飲料に毒を混ぜたという事件だ。幕府関係者だけでなく一般人を巻き込む大事件となり、死者を大勢出した。その被害状況や事件性もさることながら、会合が幕府内の裏金問題に絡んでいたので、メディアで大きく取り沙汰された。ちなみに犯行グループはすぐに捕縛され、大半が今も牢の中にいる。
「副長って、毒に慣らされたりしてます?」
「総悟の嫌がらせなら」
「あれを嫌がらせと言いますか」
沖田くんは副長の座を狙っている。そのために副長が邪魔で、日夜暗殺計画を練っている。暗殺といってもこっそり命を狙うような繊細さは彼にない。真っ昼間からバズーカを撃ち放すこともあれば、マヨネーズに劇薬を混入させることもある。それを嫌がらせの一言で片付けるのだから、副長は感覚が鈍っている。そして、毎度のように律儀に引っかかるのだから救いようがない。真選組の頭脳なんて、いったい誰が呼び出したのだろう。
「アイツが本当に俺の命とるんなら、毒なんざで片しゃしねえだろうよ」
「首を斬る?」
「それで済めばいいほうだろ」
事も無げに言い、副長は別のファイルを手に取った。
「さすが、日々命を狙われてる人は余裕綽々ですね」
「嫌味か。喧嘩なら買うぞ」
「その二言目には喧嘩っていうの、どうかと思いますよ」
「暇してんじゃねえのか」
「暇なんて……」
暇、ではない。けれど、まさか言えない。過去の記憶に苛まれて眠れないなんて。ひとりで着替えもままならない、少女じゃあるまいし。
ここでのわたしは、真選組のミョウジだ。出来損ないの武家の末女でも、流されて戦場に立つ攘夷志士でもない。穴蔵で息を潜めているわけにはいかない。剣を握って戦いに出なければいけない。穴の外にどんな獣がいようと、誰よりも強く駆け抜けていかなければいけない。わたしを護る砦は、自分で作る。
曲がった線の文字を見る。当時の被害者の一部は、今も他人から受け取った飲料を口にできない。気まぐれに放送される過去の事件を特集した番組の取材で、特殊加工した声で彼らは語っていた。ふとしたときに、周囲の人間が喉を押さえて次々に倒れていく様を思い出す。喘ぎながら、自分の足に縋りついてくる。どんなに幸福な時間に満たされても、消えてはくれないのだと。
——おまえハメたら抜かねえだろ。上下一緒でよくね?
——いい顔だな。すげえ興奮する。
一度受けた傷は、一生消えない。周囲がたかがそんなことと鼻で笑うようなことでも、当事者にとっては生きることを投げ出したくなるほど辛いこともある。些細な気持ちで、ものの弾みでしたことが、誰かの一生を苛み続けることもある。受けた傷は誰のものでもない。誰にも推し量ることができない。
資料室の窓が揺れた。小さな窓が、ガタガタと音を立てる。
波打つ。黒い波紋が広がる。
「建て付け悪ィな」
副長が窓に向かっていく背中が見える。窓を開けると、濡れた風が肌を撫でた。
背筋を悪寒が這い上がる。鼓動が一度大きく鳴る。
副長は窓を閉め直し、施錠した。「明日は嵐か」ぼそりと呟く。
心臓が鼓動を早めている。気付かれないよう、肩で呼吸する。額にじわりと汗が滲む。無意識のうちに目が泳ぐ。
あれから何年経つと思ってるんだ。もうわたしは大丈夫じゃないか。身体は鍛えてるし、枕元には刀を常に置いている。身の護り方ならちゃんと知っている。十代の青くて拙い少女じゃない。
なのに——。
音を立ててファイルを元の場所に突っ込んだ。額を拭い、冷たい背中を屈めてしゃがみ込む。下段のファイルを見るふりをしながら、眩む視界を塞ぐようにぎゅっと瞼を下ろした。
明日は朝から見廻りなのに、本格的に眠れそうにない。昨日だって夜に捜査に駆り出されてろくに寝てないのに、このまま明日になるのはしんどい。
目を開ける。ファイルと棚の隙間から副長の足が見える。細い呼吸を繰り返し、心臓を押さえる。
視線を外した刹那のことだ。ゴッ、と鈍い音がした。身体が大きく跳ねる。副長が床にファイルを落としたらしかった。身を屈め、副長が腕を伸ばしてファイルを拾うのが見えた。
「腹減ったな」
独り言のようなそれを、一度は聞き逃した。しかし、重ねて副長が言う。
「腹減った」
「……腹、ですか」
戸惑いながら繰り返す。急になんだ。
「チキン南蛮が食いてェ」
「はあ……ファミレス行けばいいんじゃないすか」
今の時間だ。コンビニかファミレスくらいしか開いてない。提案すると、副長が踵を返す。
「おまえ、車出してこい」
「は?」
「煙草もねえし、ちょうどいい。おまえ運転しろよ」
「え、はあ」
何が何だかわからないまま返事をし、腰を上げる。すれ違いざま、副長の胸ポケットに四角い箱が見えたのは気のせいじゃない。いや、中身はなく、空なのかもしれない。真相はわからない。真意もわからない。
冷え切っていた手が熱くなる。情けない。
「副長、あの」
資料室を出て行こうとする背中を呼び止める。振り向いた副長は「上司命令だ」と言い捨て、廊下を歩いていった。有無を言わせない態度に、唇を噛み締めて言葉を押し込む。
黒い澱みが消えていくことはない。わたしの中に滞留し続ける。それでも、広い海に、また違う色を落としていくことはできる。浮き上がってくる黒い澱みや、ふとしたときに落ちる水滴と、折り合いをつけていくことができるだろうか。弱い自分を赦せるほど、わたしは強くなれるだろうか。今はまだ、自分の弱さを受け入れられないけれど、いつか。
「……副長」
「なんだよ」
言われた通り車を出して運転席で待っていると、副長が助手席に乗り込んだ。その手にはマヨネーズがある。
「チキン南蛮ってタルタルソースですよ。ご存じないかもしれませんけど、タルタルってマヨなんですよ。もうマヨ乗ってるんですよチキンには」
「てめーは俺をおちょくってんのか。これは追いマヨだ」
ふてぶてしい副長に苦笑する。このひとは、一事が万事こうなのだ。いっそ清々しい。
「沖田くんが手を下さなくても、副長は勝手に死にそうですね」
「マヨネーズで死んだ奴ァいねえ」
月は翳っていた。しかし、存外、星だけでも夜空は明るかった。
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