毒々しいネオンが目に痛い。街の外も相当だったが、店内は殊更照明がきつかった。

「女は照明で二割増しになるのよ」

 そう言ったのは、かまっ娘倶楽部のママである西郷さんだった。お茶目にウィンクをしてみせて、サービスよ、とテーブルに大吟醸を置いていく。大きくて分厚い唇には、きれいに口紅が塗られていた。

「こんなにいただけません」
「うちのアホの世話してくれてるんでしょ? まったくパンツの一枚や二枚でギャーギャー言うんじゃないわよねぇ」

 西郷さんは眉を下げ、まあ今後ともよろしく、と去っていった。酒の詰まった瓶を見つめ、結局任せられたなと思い蓋を開けた。世話賃としてありがたくいただこう。
 ソファで寛ぎ、ステージで踊り狂う踊り子や忙しなく動くホールスタッフを見回す。艶やかな着物に身を包むのは、たくましい体躯の乙女たち。笑顔で客に接し、時には気の利いた返し文句で笑いを取る。暗い顔で酒を注がれたり、無愛想に相槌を打たれるよりよほどいい。
 こちらに目を向けた恰幅の良いホステスが近づいてくる。「あらァ美人さんだわ」と目を丸くされ、隣に座ってもいいか訊かれる。「人を待ってるので平気です」とにっこり断ると、あらそうと残念そうにされた。口周りと顎が青かった。照明の力を借りても抗えないことはある。
 いつでも呼んでェと小股で歩いていく背を見送っていると、汚い野次が耳に響く。客がステージに向かって罵っている。あーあ、と思ったのも束の間、案の定、西郷さんが客の頭を文字通り鷲掴みにして追い出す。鬼神マドマーゼル西郷の名は伊達じゃない。あのひとはかつて白フンの西郷と恐れられた、剛腕の攘夷志士だ。この店のルールを破れば鉄拳制裁は免れない。

「あれっ、ねーちゃん。ひとり?」

 一人でちびちび呑んでいると、客の男が絡んできた。赤ら顔が天井の照明に照らされている。

「いけないねえ、年頃の女がひとりなんて」

 男はドスンと隣に腰掛ける。鼻をつく嫌な匂いが不快だ。

「いけませんか?」
「だめだよぉ。いや、しかし別嬪だなあ」

 やっぱりあんなゲテモノより、本物の女はいいなあ。男はにやけながらわたしの顔を覗き込む。鼻の下は伸び、口元はだらしなく垂れ下がっている。年は五十代半ば。革靴は薄汚れ、スーツはくたびれ、首に引っ掛けたネクタイは曲がっている。左手薬指には結婚指輪をしている。家庭でも職場でも居場所がない類の中年か。

「ねーちゃん、いくらならいい?」

 ずいぶん軽い女に見られている。それとも金に困っているように見えるのだろうか。わたしは横目で男を見る。

「こう見えて儲けてんだよね、俺。キャバとか行くと、若い子にも人気でさ。へへへ、一回くらいなら、いいだろ?」

 手が伸びてくる。触れた途端にその腕を捻ってやろう。そう思いついたときだった。

「すみません。そちらの女性は私の大事なお客様なんです」

 涼やかな声が割り入る。長い黒髪を着物から垂らし、背筋を伸ばして立っているのは切長の目が美しいヅラ子——もといヅラこと桂小太郎だ。ばっちりと化粧をし、女物の着物を着こなしている。
 男は目を見張った。しかし、ヅラと見つめ合って数秒すると、男は「あ、ああ」とよくわからない声を漏らし、ソファを立った。男なのか女なのか判別がつかず、しかし威圧されていることだけは理解でき、気圧されてしまったようだ。
 ヅラはふんと鼻を鳴らし、すごすごと去っていく男を見送る。

「節操のない……」
「遅いよヅラ」
「ヅラじゃないヅラ子だ」

 源氏名が適当すぎると突っ込んだのは、もうずっと前だ。そして、線の細さと女顔のせいか、ポテンシャルがとんでもなく高い。女にしても美人の類だ。更には隣に座ると仄かに香水の香りがする。肌荒れひとつない顔に、肩から流れる艶のある髪。なぜだろう、負けた気になるのは。
 ヅラは時々この店で働いている。かつては共に戦場にいたわたしたちだが、今は攘夷志士と警察だ。大っぴらに会うことはできない。しかし、ヅラは相も変わらずわたしを気安く呼ぶし、わたしもヅラの人間性については知っているので、隙をついて逮捕する。なんてことはしない。それに、以前は過激派攘夷志士、爆弾魔として幕府を狙っていたヅラも、今ではすっかり穏健派になった。指名手配犯であるがために執拗に警察に付き纏われてはいるものの、実害はほとんどないのだ。

「タイミングが悪いな、ナマエ。今日はパー子はいない」

 ヅラが腕を組んで言う。パー子は銀時の源氏名だ。一度だけここで会ったことがあり、そのときは思わず笑ってしまった。銀色のツインテールに化粧で女装していたが、大柄な骨格はどう足掻いても女には見えない。可愛げはあると茶化すと、銀時はとても嫌そうな顔をしていた。

「頭パーのパー子なんてどうでもいいの。それより、空き巣の件。一応調べた」
「おお、本当か。アゴ美殿が喜ぶ」

 先日、この店の従業員であるアゴ美、いや、あず美さんの家に空き巣が入った。盗まれたのは女性物の下着で、彼女が仕事のときに身につけているものだ。さっそく奉行所に被害を届け出たが、そこの同心が無理解な男で、なぜ女性物の下着を持っているのかと猜疑の目を向けられたそうだ。逆に下着泥棒の冤罪を被せられそうになってしまい、泣く泣く引き下がるしかなかった。それを見兼ねたヅラがわたしに相談をしてきた、という成り行きで、本来関わりのない捜査をすることになった。

「モテない男にパンツを配るという、噂の下着泥棒だろうか」

 ヅラの言葉にかぶりを振る。ステージでは第二幕が始まろうとしている。

「箪笥を上から開けてるから素人だよ。それに片っ端から部屋を漁った形跡があった。とても玄人の仕事じゃない」

 箪笥は上から開けるといちいち引き出しをしまいながら下がっていく羽目になるので、下から開けるのが定石だ。そして、プロの空き巣は事前に部屋の間取りや家具の配置、住人の行動パターンを調べ尽くすものだ。無駄な家探しはせず、狙いを定めて侵入する。人が入った形跡を残すことはしない。

「だとすると誰だ。アゴ美殿の下着など誰が好き好んで盗むのだ」

 ヅラは深刻そうに眉を顰める。わたしは猪口を酒で満たし、口をつける。

「好んでるひとがいるんじゃない?」
「そんな奇特な人間がいるものか」
「どーいう意味よ」

 背後から降ってきた声に振り返る。「アゴ」と声を揃えると、「あず美よ!」と怒鳴られた。真っ先に目に入るのが主張の激しい顎なのだから仕方がない。
 あず美さんに犯人はおそらく素人であることを説明した。しかし、同心がろくすっぽ調べもしなかったせいで、犯人の手掛かりになり得そうな証拠は今となっては一つもない。
 肩を落とすあず美さんと、真剣な顔で悩むヅラ。並んでいるとヅラの器量の良さが際立つ。

「アゴ美殿の部屋を女子の部屋と間違えて入ったとしか考えられんのだが……」

 住人を調べもせずに家に入ったのならあり得るだろう。しかし、家具の一切合切をひっくり返すようなあの様。

「家中を漁ったあの状態で気付かないとは考えにくいな。だってゴッツイ髭剃りとか置いてあるでしょう」
「なに勝手に私の髭剃りがゴツいって決めつけてんの? そういうの良くないと思うわ」
「では、本当にアゴ美殿を好いているストーカー的な奴の犯行だろうか」
「アゴのストーカーか……」
「アゴのストーカーって何! アゴだけストーカーされてるの!? アゴしか見えてないの!? ていうかアンタらさっきから馬鹿にしてるわよね!? 絶対馬鹿にしてるよわね!? アンタ警察なのほんとに!」
「警察です。今は呑みにきてるだけですけど」

 猪口を傾ける。あず美さんは深く溜め息を吐いた。

「もっと真面目な子かと思ってたのに」

 あず美さんが顎に手を添え、やれやれと首を振る。いったいどんな奴だと思われていたんだろう。わたしは「そうですか?」と酒を呑む。ほら、話の途中で呑んじゃうもの、とあず美さんがむっとする。ここは酒を呑む場所じゃなかったのか。

「はじめにヅラ子があなたを紹介したときは、もっと硬い子に見えたのよ。しゃんとしててキャリアウーマンみたいな感じで。こんな子が、パー子やヅラ子と気が合うわけないと思ってたのに……今となっては、みんな同じ穴の狢に見えるわ」

 あず美さんが嘆息する。するとヅラが爆弾発言をする。

「アゴ美殿、こう見えてナマエは俺に結婚を申し込んだことがあるのだ。気が合う合わないの問題ではない」
「はあ?」

 わたしは素っ頓狂な声を上げた。あず美さんはあず美よ! と訂正を忘れず、しかしすぐに「えっ、結婚」と口元を押さえる。ヅラはというと、泰然としたままだ。
 結婚を申し込む? いつ、誰が、誰に。信じられないという目でヅラを凝視する。しかし、端正な顔はぴくりとも揺らがない。

「忘れたか。十年も前だが、俺は憶えているぞ」
 
 十年前。戦争のときか。まったく、ちっとも記憶にない。
 あず美さんはあらあらと楽しそうに表情を崩している。心は乙女なので、恋愛の話には食いつきがいい。その話詳しく聞かせてと嬉々として腰をくねらせる。しかし、わたしがヅラと恋愛をしたという事実はない。
 猪口をテーブルに勢いよく置く。そんな事実無根の話、吹聴されては溜まったもんじゃない。

「記憶捏造してない?」
「捏造などするものか。言っただろう、最期は一緒だと」
「えぇ……?」
「薄情な奴だ。おまえが言い出したことだぞ」 

 最期は一緒——。その言葉は、微かに憶えがあった。





 わたしが黙っていないことをわかっていたのだ。すぐに悟り、一直線に台所に駆けた。ヅラは今頃、夕食の仕込みのために鍋をかき回している。今朝、味噌汁がしょっぱいと文句をつけられ、今晩は俺が作ると腕まくりをしていたのだ。張り切って大鍋と向き合っているに違いない。
 湿気で浮いた床板で滑り、転びそうになりながら台所に駆け込んだ。案の定、ヅラは味噌汁を作っている最中だった。振り向いた頬には、絆創膏が貼ってある。

「む、ナマエか。ちょうどいい、俺の味噌汁を飲んで少しは勉強しろ」
「見捨てるの?」

 言葉尻を聞く前に被せた。ヅラはきょとんとして、すぐに目を細めた。すべてを理解した。そういう顔だった。
 鍋に向き直り、ヅラはおたまを動かす。

「致し方なかろう」
「致し方ないって、本気?」
「ああ、本気だ。今晩出るぞ。準備しておけ」

 夜の移動は視界も悪いし奇襲をかけられると厄介だから避けたいのだが、日中に動くと目につきやすい。先んじて少しでも進んでいたほうがいいだろう。途中は野宿になる、獣避けに坂本が狼のおしっことやらをどこぞから持ってきたが、効くのかどうか……。
 つらつらと喋る土汚れの残る背中を睨む。歯を食いしばり、その背中を思い切り殴りたい衝動に駆られた。しかし、ぐっと堪える。感情的になってぶつかって、今まで何度も失敗してきた。
 つい先程のことだ。銀時が移動のために兵糧をまとめ、医療道具を梱包しているのを見かけた。建家の別棟には、まだ寝込んでいる負傷兵がいる。昼前にもう一度手当をしなければいけないと思っていたのに、早々にしまわれては困る。そう言いに行くと、銀時がふわふわとした返事をするものだから問い詰めた。
 ——アイツらは連れていけない。
 ——どういうこと?
 ——連れていけねえんだよ。
 それ以上、銀時は言わなかった。が、目は口ほどに物を言う。頭の導火線に火がつき、瞬く間にわたしはその目が物語る事情を察した。負傷兵を置き去りにするつもりなのだ。戦える者、歩ける者だけを引き連れ、この場所を離れる。いつ敵軍が迫るか知れない場所に、置き去りにする。それはつまり、見殺しにするということ。

「わたしは置いていけない」

 なるべく怒りを抑えたが、口調は強くなった。目つきもひどいだろう。しかし、ヅラはあくまで冷静にわたしを見つめる。
 攘夷軍の中でも、派閥や勢力によって軍隊はいくつかに分かれている。それぞれを統括する頭役はヅラや高杉だった。特にヅラは頭脳明晰、冷静沈着で、剣の腕も一流。攘夷軍全体の動きを把握し、指揮統括の役を担っている。

「ナマエ。奴らの姿を見ているだろう」

 ヅラは子どもに言い聞かせるようにわたしを嗜める。握った拳に、爪が突き立てられる。

「幕軍の追手が迫っている。奴らを連れていっては必ず歩みは遅まる」
「だからって見捨てるの」
「坂本の部隊がこちらに向かっている。奴のことだ、負傷兵を置いていくことはしない。だが俺たちは次の戦に備え、先にここを離れて退路を確保しておくべきだ。現状、それが最善だと言っている」

 戦況は過酷を極めていた。負傷兵を抱えたまま拠点を移し、戦場を変えていくのは難しいと理解はしている。大勢の兵を引き連れる移動は穴ができやすい。そこを叩かれれば、軍は一気に瓦解する。負傷兵だけでなく、わたしたちでさえ危ない。わかってはいるけれど、心はうまく事実を飲み下せない。すぐに頷けるほど、利口になれない。
 毎夜、痛みに魘される彼らを見ている。わたしだけではない。ヅラだってそれを知っている。なのに、なぜ簡単に仲間を置き去りにできるだろう。捕虜にさえならない彼らがどんな仕打ちを受けるかは、想像に容易い。
 ヅラが鍋の火を止める。表情に色はない。

「ナマエ、奴らはもう長くは保たん。だが俺たちは生きている。まだ戦える。俺たちは、生きている仲間のために進まねばならない。生き延びねばならんのだ。俺も、おまえも」
「わかってるよ。わかってるんだよ、そんなの。でも、置いていくことないでしょ。もし辰馬たちが間に合わなかったらどうするの? 先に敵がここに着いたら、どうするの。生きてるうちはひとりでも……」
「負傷兵を一人抱え、それで誰かが命を落とすとは考えられんか。おまえがいい例だ。今まで何度無鉄砲に走ったか憶えていないのか。共にゆけば必ず庇う。必ず情が湧くだろう」
「情なら湧くよ! 今だって! なんでヅラはそんなに平気なの!? みんなまだ生きてるのに!」

 破裂するように声を荒らげた。ヅラは怯んでいない。その落ち着きように冷水を浴びせかけられた気分になり、開いた唇を閉じ切れずに立ち尽くす。
 ヅラの視線が動く。その目を追うと、高杉が後ろに立っていた。

「また吠えてんのか」

 呆れを滲ませながら嘲笑する。 

「おまえは幸せ者だな」

 吐き捨てるような冷たさで言われた。「高杉、よせ」とヅラが諌める。しかし、高杉は続ける。

「感情のままに叫んで当たり散らして、てめーが強くなろうなんざ考えちゃいねえんだろうな。そうやってガキみてえに駄々捏ねてれば、全部思い通りになると思ってんのか。本当にそう思い上がってんなら、おまえは幸せだよ。そうやっていつまでも駄々捏ねて、てめーのするべきこと一つできもしねえで、ただ周りに当たり散らしてりゃ満足か? 戦争なんさ綺麗事で済ませられるもんじゃねえんだよ。迷ってるうちは勝てるもんも勝てねえ」
「高杉」

 ヅラが声を尖らせる。高杉とヅラが睨み合う。薄氷を履むような緊張感が漂う。しかし、やがて高杉はその場を離れていった。悔しいが、高杉の言葉に反論できなかった。
 ヅラが一歩動く気配がして、逃げるように去った。ヅラがわたしの名前を呼ぶが、振り返ることができなかった。
 戦況を俯瞰で見て、今何をするのが最善か。仲間をどう動かしていくのが得策か。最も仲間を失わずに進む道は、どこにあるのか。ヅラはすべてを視野に入れ、常にベストを模索していた。わたしの駄々は、その努力や想いを水の泡にさせようとしているも同然だった。数人のために大勢を犠牲にしようとしているのだから。
 けれど、渇いた手のあたたかさも、生ぬるい血の感触も、まだ残っている。生きようとする、心音を聞いた。掠れた声を聞いた。聞かなかったことになどできない。
 寝床に転がり込み、蹲って涙を堪えた。どのくらいそうしていたか、正確な時間はわからない。しかし、そのうちに眠りに落ちていて、目覚めるとすぐに白い背中が見えた。

「……銀時」

 銀時はぼろぼろの草履を編み直していた。障子戸の向こうは薄曇りで、淡い茜色が滲むように視界に広がる。数時間眠っていたようだ。

「尻尾巻いて逃げてきたって?」

 銀時は半笑いだった。誰にどこまで聞いたのだろう。

「高杉のヤローに皮肉言われて、そのくらいで泣かされてんじゃねーよ。そんなタマじゃねーだろうが」
「……泣いてない」

 しかし、聞こえる自分の声は鼻声だった。洟を啜り、目を擦る。

「高杉が、迷ってたら勝てるもんも勝てないって言ってた」
「……あっそう」
「勝つって、何に?」
「……なんだろな」

 この戦争に勝って、その先に何があるのだろう。幕府は天人との外交をやめる? 天人は来なくなる? 国は平和になる? いったいそれにどれほどの価値があり、何の意味があるのか。
 高杉と共に出会った老夫の言葉が蘇る。得るものなど何もない。それでも進むと決めたのなら、高杉のように脇目も振らずに直走るしかない。ヅラのように理性的に、現実と向き合わなければいけない。銀時のように、圧倒的な力で周りを蹴散らして戦えるようにならなければいけない。
 けれど、この目は凄惨な姿の無数の屍や、悲傷に暮れる人間の姿を映してしまう。
 風が鳴る。その頃のわたしはまだ銀時を超人のように錯覚していて、だから明確な返答がないことに不安を憶えた。でも、世の中には答えがあることのほうが稀なのかもしれない。正解と不正解を選び取るものは、結局己自身の中にしかない。

「銀時は、納得してるの?」

 丸まった背中の上、頭が少し動く。

「何が?」
「仲間を……見捨てていくの」

 負傷兵の中には、銀時に心酔している者もいた。夢現つに、銀時さんなら仇を取ってくれる、と呟いているのを聞いたことがある。それを銀時に伝えたことはないけれど、信頼の重みは感じているだろう。特定の部隊のない銀時だが、その背中を置いたがる人間は後を絶たない。そして、無惨に散っていった者もいる。
 銀時は手を休めない。少しの沈黙のあと、徐に口を開く。

「心底っつーわけじゃねえよ」

 陽に当たる髪がきらめく。銀時は「でもな」と隙間を作らない。

「ヅラが誰よりも辛いのも知ってる」

 昨夜、銀時は喉が渇いて外の井戸へ向かった。すると負傷兵の眠る別棟の階段の前で、腹に包帯を巻いた男が座っていた。

「もうてめーが死んでくのをわかってた。最後に、星空が見たくて出てきたっつってた」
「……星なんて」
「ああ。見えなかった。昨日は曇ってたからな」

 やりきれない気持ちで頭を伏せる。銀時はこちらを見向きもせず話している。

「そいつは、なんとかして生き残れって昨夜、俺に言ってきた。俺たちの意志を担いでくれって。そんな大層な男じゃねえってのに。……てめーが戦えないことを知って、すぐにヅラに俺たちを見捨てろって言ったんだってさ。戦えない自分たちのために死なないでくれって。そのときのヅラの顔が忘れらんねえって、笑ってやがったよ」

 力ない笑みを思うと、胸が締めつけられる。銀時の声色には微笑が含まれていたが、それはひどく虚しいものだった。
 ヅラは無理な戦はしない男だ。必要に迫られれば軍を引き、命あることを何よりも重んじている。そんな男が、傷付いた仲間に何もしてやれずにいるのが、どれほど苦しいことか。今までだって、何度自責の念に駆られたかわからない。後悔や悲しみの重さは、わたしの比ではないだろう。それでも常に正面を見据え、堅実に歩を進めてきた。
 ヅラの口にする将というものは、仲間の上に立ち、前線で指揮を取ることでも、誰よりも敵を多く斬ることでもない。皆を護ることなのかもしれない。だとしたら、わたしはなんと残酷なことを言ってしまったんだろう。
 無神経な自分の発言に眩暈がする。高杉に己の甘さを突き刺され、銀時に諭され、わたしは自分の愚かさを知っていく。それでも、ヅラはわたしを連れていこうとしてくれているのに。
 苦しさに喉が詰まる。どうしてままならないことばかり増えていくんだろう。

「ヅラには、おまえくらい捨て身でぶつかる奴が必要なんだよ」
「……バカの一つ覚えみたい」
「バカで結構じゃねえか。バカでもアホでも、てめーの曲げらんねえもん持ってる奴のほうが、俺はいい」

 銀時は、謝ってこいとは言わなかった。ヅラのところにも行けとも言わない。しかし、わたしの足は目的を持って進んでいる。
 もしかして差し向けられたんだろうか。考えながら、雲間から夕焼けが差し込む廊下を歩く。人気はない。日が暮れる前に水浴びにでも行ったようだ。
 銀時の言葉を繰り返していると、本当に同年代だろうかと疑問が湧く。ヅラの肩を持っているように見せ、わたしの心のうちまで見透かすように掬い上げていく。
 日々の積み重ねが人格を作るのだとしたら、わたしが会うまでに、銀時の人格はほとんど出来上がっていたのだろう。銀時の家族の話や、幼い頃の話は聞いたことがない。けれど、年の割に老成していて、わたしよりも広い視野を持っているのは確かだ。これまで、どうやって生きてきたんだろう。もしもいつか、落ち着いて話せるときがきたら訊いてみようか。
 ——いつか、そんなときが来るんだろうか。たとえば、ヅラが仲間を失うことなく、穏やかに笑い、日々を安らかに過ごせる日々が、いつか来るんだろうか。酒を酌み交わし、くだらない話をして、ただ笑ってくれる。そこにわたしはいるだろうか。わたしがいないとしても、ヅラや高杉や銀時たちが、ただそこにいて、笑っていられる日は来るだろうか。
 建家をぐるりと回ったが、ヅラはいなかった。あとは、あそこしかない。林を抜け、負傷兵の眠る別棟に向かった。
 三角屋根の小屋は夕陽に染まっている。庇の下の窓が開いているのが見えて、そこへ回り込む。背伸びをしなくても辛うじて中の様子がわかる。

「今夜発つことになった」

 ヅラの声。膝をついて座るその足元に、倒れている男がいる。やつれて腹はへこみ、身体のそこかしこに包帯を巻いている。周囲の横たわる数人も似たような状態だった。食事も水も、人の手を借りなければ喉を通らない。それさえできない者もいる。

「必ず戻る」

 脱力した手を握り、ヅラが呟く。すると、僅かに上下していた胸が、すうっと大きく膨らむ。そしてゆっくりと落ち着いていく。葉が擦れるざわめきのような、微かな声が絞り出される。

「桂さん。俺たちのことは、もう、気に病まないで、ください。どうか、生きて、ください。俺たちの意志も、剣も、あなたに、預けます。だから、どうか……」

 言葉は途切れた。胸は微かに上下を繰り返している。ヅラは俯き、ゆっくりと腰を上げて小屋を出た。こちらに気付いていなかったので、呼び止めて駆け寄った。整った顔が少し歪む。

「そこにいたのか」
「ごめん、ヅラ」

 ヅラは微小ながらに目を見開き、すぐに元に戻す。茜色の雑木林に、風が吹く。

「……謝らなくていい。こんな状態にしてしまったのは俺だ。奴らを見捨てる、そういう判断をしたのも俺自身だ。おまえの怒りは当然のものだろう。おまえだけじゃない、他にも憤りを抱いている者はいるさ」
「ヅラもじゃないの?」
「……何がだ」
「怒りたいのも悲しいのも、一緒でしょ」

 ヅラは何も言わない。眉一つ動かさない。もどかしい想いが渦巻く。

「辛いなら辛いって言ってほしい。全部一人で背負うことないでしょ。悲しいなら泣けばいいし、怒りたいなら怒ればいい。たまには駄々捏ねて、わがままもどうしようもないことも言ってよ。将だ何だって、本当のところはよくわからないけど、ちょっとくらい分けてくれたっていいでしょ? 本当は置いて行きたくないなら、そう言ってよ」

 おまえでは力不足だと一蹴されると思った。わたしに弱音を吐く気など起きない。それでも構わなかった。ここに同じ痛みを抱える人間がいるのだと信じてほしかった。ヅラが叫べないのなら、わたしが叫んだっていいのだから。
 数拍の沈黙の末、ヅラは小さく笑いを漏らした。予想していなかった反応に戸惑う。

「だから嫌なんだ」

 勝手に眉根が寄る。どういう意味だろう。

「ナマエ。おまえはきっと自分のことを歪んでるとか、情けない奴だと思っているのだろう」

 首を捻る。否定はできない。性根が潔癖とはいえない。情けないのも本当だ。

「だがな。俺は時々、おまえが羨ましいよ」
「……羨ましい?」
「おかしいことや間違っていると思うことには声を上げ、怒り涙して、愚直で痛ましくて見ていられん。おまえといると、言葉を交わしていると、己の道がひどくあやふやになる。押し留めたものが堰を切って溢れそうになる。肩肘張って立っていたって、俺にできることなどたくさんありはしない。そう痛感させられる」

 羨ましいというわりに、あまり褒められている気がしない。見ていられないというのは目も当てられないほどバカということではないのだろうか。
 判然としない気持ちのまま、いいことを教えてやろうと言うヅラの話を聞く。

「男というのは見栄と意地で立っているのだ。だから男同士は見栄の張り合い、意地のぶつけ合いで、互いに相容れなければ一生わかり合えない。俺たちは、そうそう腹など見せられんのだ。たとえ旧知の友であっても、素直に助け合い、手を取り合うなどまっぴらごめん被る。強がって弱ってないふりをする。難儀な生き物だが、そういうものなのさ」
「……それは、わたしには腹を見せてもいいってこと?」
「それはできん」

 即答。流れがわからない。ますます首を捻る。

「わたしの前なら将をやめてもいいっていうことじゃないの?」
「その役目は、もう担ってもらっている」

 清々しい顔で言い切られ、追及はできなくなる。

「……見栄と意地は?」
「それもおまえの前で外せんな」
「なんでよ。わたしが男に見えるの?」

 女らしさがないのは承知だが、見た目まで男に見えるのなら目が腐っている。ヅラは口元をゆるめ、わたしに微笑む。

「すまなんだ。おまえには格好つけたいのさ。バカな男と思って割り切ってくれないか」 

 目をしばたかせているうちに、ヅラは踵を返す。土を踏み締める足音は淀みなく、迷いは断ち切っていた。

「……ヅラはもう少し、いろいろ柔軟に考えられる奴だと思ってたよ」
「俺は柔軟とは程遠いな。なにせ石頭ナンバーワンだからな」
「なにそれ……」

 ヅラの草履は擦り切れて、直に地面を踏んでいるも同然に見えた。銀時が編んでいた草履を思い出す。進むため、生き延びるため、必要なもの。惑いは捨てていくのではない。抱えて生きる。意志や剣は預かるのではない。自身の血肉にして、糧にする。
 ヅラを一瞥し、目を落とす。交互に出る自分の足が見える。変えたばかりの草履はまだ新しい。
 生き延びなければいけない。その意識はまだ身に馴染まない。今も、ずっと暗闇の淵に立っている。ヅラはわたしを連れて行こうとしてくれるけれど、心はまだ引きずられている。

「かっこつけたって、好きにならないよ」
「ならんでいい。これはくだらん、ただの俺の意地だ」

 林を出ると、遠くから人の声が響く。皆が戻ってきたようだ。

「高杉のことだが」

 ふいに足を止め、ヅラが口火を切る。急に気まずそうに、渋い顔をする。

「アイツはああいう言い方しかできんのだ。気に食わないだろうが、あれでおまえを気にかけているところもある。俺以上に肩肘張っている奴なのだ。だから……」

 言葉を選ぶヅラに苦笑いする。

「わかってるよ。わかり合える気はしないけど、高杉の気持ちは……なんとなくわかる」

 高杉がなぜわたしを叱責したか。わたしがヅラの気持ちを考えずに噛みついたから高杉は怒った。死んでも表には出さないだろうけれど、高杉はヅラのために怒ったのだ。認めないだろうけれど、あのとき、確かにそう感じた。
 ヅラは「そうか」と安堵したように頷く。銀時といいヅラといい、なんだか妙な関係だ。貶し合い罵り合いながら、互いを庇ってみたり支えてみたりする。腹を見せ合わなくても、嫌というほど相手を知っている。そんな感じがする。
 風が変わっていく。落ちていく夕陽を見遣り、ねえ、と歩み進めはじめた背を引き止める。
 
「かっこつけたいなら、お願い聞いてくれる?」

 東の空は澄んだ藍色をしている。月は見えない。肺を埋める澄んだ空気。今、わたしたちは夕暮れと夜のあわいにいる。
 ヅラが怪訝な顔をする。わたしは空を仰ぐ。

「今晩だけ待ってほしい。星を見せたい」
「……星?」
「満天の星。きっと今夜なら、見られる」

 夕餉のあと。ほんの少し時間をもらった。月はどこかに身を潜め、藍色の空は深みを増している。想像通り、星はきれいに見えた。
 虫の息だった。軽い身体を抱え、林を抜けて開けた場所に出た。座っているのもしんどそうなほど荒い息をしていたけれど、横になるかと訊いても頷かなかった。それどころか不敵な笑みを作ってみせて、おまえが優しいなんて明日は槍でも降るのかと言われた。これも男の見栄と意地というやつだろうか。馬鹿げている。でも、なぜだか熱いものが込み上げてくる。
 会話はほとんどなかった。戦の間に二、三の言葉を交わしただけの仲で、きちんと話したのは手当てをするようになってからだった。それも日に一度か二度。実のある話でもない、他愛のない話だった。
 俺の田舎でも星はきれいだったと消えそうな声で囁く。どこから見ても同じだと言うと、情緒のねえ女だと笑われた。
 白んだ目に、輝く星がどれほどの精彩さで映っただろう。流れる星を指差したけれど、最後まで追えだだろうか。

「行くぞ」

 小屋まで送り、集合場所まで行くと、ヅラがひとりで待っていた。他の皆は先に出たらしい。
 肩につく血を拭い、こくりと頷く。今晩を越えられればいいほうだと漠然と感じた。敵軍がいつ来るのか、果たしてあの小屋へ足を向けるかはわからない。本当にわたしにできることは、あれしかなかったのか。歯痒い気持ちはいつまでも消えない。
 後ろ髪を引かれながら、それでも歩を進めた。それを察するように、ナマエ、と名前を呼ばれる。ヅラのわたしの名前を呼ぶ響きは、丸くなだらかだ。

「案ずるな。坂本から早馬で明朝には着きそうだと連絡が来た」

 それでも浮かない顔のわたしに、ヅラは諦めたように苦い顔で言葉を紡ぐ。

「俺とて断腸の思いだ。正直なところ、代われるものならばと思ったことは一度や二度ではない」

 静やかな声色。しかし、初めて悄然としたものを感じた。利他的な思考。繋ぎ止めた見栄と意地で明言は避けているようだったが、それは侘しさを言外に表していた。それが精一杯なら、なるほど、たしかに難儀だと思った。

「……誰にも、取捨選択はできないでしょ」
「ああ、誰だからいいということではない。誰にもそれを決める権利などない。命の取捨選択などできない。だが俺は、おこがましくも選択をしてきた。だから報いを受ける覚悟はできている。俺の最期が明日になるか何十年先になるかわからんが、いつか報いを受けるときはやってくる」

 流星が落ちる。願い事をする時間はない。前を見ているヅラは、気付かなかっただろう。
 
「ねえ。報いなら、わたしも受けるよ」

 ヅラが背負うなら、わたしも背負う。ここまできたんだ。地獄の果てだろうと、どこまで行っても同じこと。明日でも何十年先でもいい。どうせきれいな最期にはならない。あの流星のように、人の目に留まることもない。一瞬の輝きもないまま終わっていく。けれど、同じ想いを抱えて散っていくのなら、それがいい。
 きっと他の誰も、腐っても同じ道を行こうとは言わない。だったら、せめて、何の役にも立てなくても、わたしがいる。若気の至りというやつか、単なる共感か。何の裏もなく言葉が出てきていた。

「最期は一緒よ」

 歩幅は変わっていないのに、ヅラを追い越していく。不思議に思い振り返ると、ヅラがきょとんとしていた。

「それは求婚か?」
「……は?」

 今度はこちらが呆気に取られる。

「俺と一生を添い遂げたいということか?」
「……はぁ!?」

 声が大きくなった。流星がまたひとつ、落ちていった。





 戦中であったことの詳細は省き、途中内容を端折ったが、大まかな経緯をヅラは説明した。わたしは頭を抱えていたが、あず美さんは楽しそうに話を聞いている。彼女はきっと、華やかな青春の一端として爽やかな光景を想像しているのだろう。

「それでヅラ子、なんて言ったの?」
「断った」
「ええ、なんでよォ」

 思い出した。勝手に勘違いした挙句、ヅラはにべもなく「だが無理だ」と断ったのだ。おまえには淑やかさが足りないし色気もない。味噌汁もろくに作れないし、掃除は雑だし云々と、長々わたしの欠点を言い連ねてきた。とにかくおまえと結婚などできん。はっきり言われた。
 ああ、くそ。思い出すと腹が立つ。求婚などしたつもりじゃないと否定しても、聞く耳を持たれなかった。

「俺とナマエは、そんな生ぬるいものではないのでな」
「あらやだ、結局のろけ?」
「ねえヅラ。お願いだからその記憶抹消してくれる?」
「ヅラじゃないヅラ子だ」 
 
 たとえ知り合いであってもその話は吹聴しない。そもそもあれは求婚じゃない。口酸っぱく言い聞かせ、閉店時間に店を出た。残った酒はキープボトルにして、あず美さんの件は信頼の置ける同心である小銭形に協力を仰ぐことにした。変態ドMオヤジだが、ああ見えて役には立つ。
 深夜の街は依然として活気付いている。かまっ娘倶楽部の裏口で待っていると、すっぴんになったヅラが出てくる。指名手配犯のくせに堂々としたもので、変装もしていない。夜なので人目にはつきにくいだろうが、大通りを二人で歩くのはさすがにまずい。野良猫や無法者しか通らないような、細い道を選んで歩いた。

「なんで未だに憶えてるかなぁ」

 腑に落ちずにこぼす。しかも、真実を歪曲したまま。いい迷惑だ。

「さてな。あの頃はおまえを見てると、ひどく息が詰まる思いをしたせいかもしれん」

 狭い路地にポリバケツが転がっている。残飯をつつくカラス。ワンカップで酒盛りする住所不定者たち。刺青の入った手で煙草を吸う若人。うらぶれたスナックの裏で項垂れる天人。こんなにも世界は自由なのに、息が詰まる。きっとわたしがおかしいのだろう。

「辰馬にも同じようなこと言われたよ」

 あれは終戦後、澱のようになっていたときだ。江戸に向かう前に最後に話したのが辰馬だった。辰馬の泣きっ面は初めて見たので、よく憶えている。
 ヅラは「坂本と同じというのは気に食わんな」と顎に手を当てる。

「して、坂本には会ってるのか」
「最近は全然。会うとうるさいんだもん」

 声がでかいのもあるが、痩せたとか太ったとか、彼氏はできたかとかきれいになったとか、親戚のおじさん並みに鬱陶しい絡みをしてくるのだ。足蹴にされていると気付いているのかいないのか、まったく折れないのでうんざりする。

「どうせ宇宙で詐欺みたいな商売をしているんだろう。まあエリザベスの件は感謝してやらんでもないが、おまえは詐欺師となんか付き合っちゃいかんぞ」
「テロリストに言われたくない」

 軽く腕をど突く。華奢に見えて、筋肉で覆われた身体はびくともしない。

「銀時とは頻繁に会っているようだな。たまに出歩いてると聞くぞ」

 長い髪が夜風で靡く。その奥に、白装束の夜叉の姿が残像のようにちらつく。

「俺を仲間外れにして、何をこそこそしてるんだ」
「こそこそって……銀時はヅラと違って今は一般市民だから」
「二人でUNOとかやってないだろうな」
「やってないわ。普通にぶらぶらしてるだけ」
「女がブラブラとか言うな! はしたない!」
「なにを想像してんのよ。はしたないのはアンタの頭でしょうが」

 路地裏を抜け、広い通りに出る。繁華街から離れ、夜も遅いせいか人気はない。民家の明かりも絶えている。背の高い街灯に、蛾が集まっているのが見えた。
 根城に帰るヅラとの別れ道に差し掛かる。この前会ったときと違う方向だった。指名手配犯故に、住まいは頻繁に変えているらしい。

「おまえはまだ屯所に寝泊まりしているのか」
「え? ああ、うん」

 思い立ったように訊かれたので素直に答えると、ヅラは重苦しく腕を組む。

「嫁入り前の娘が男所帯で暮らすというのはいかがなものだろう」
「なに、藪から棒に」
「棒とか言うな! はしたない!」
「はっ倒すよ」

 大真面目な顔して堅物然としているが、脳内では人並みにすけべなことを考えている普通の男なのだ。いや、人並み以上かもしれない。
 ヅラは咳払いし、場を取り直す。

「真選組を辞めたくなったらいつでも俺の元へ来い。立派な攘夷志士にしてやろう」

 またそれか。攘夷志士になれと誘い文句を言われるのは実は初めてではない。ヅラは事あるごとに、真選組など辞めろと言ってわたしを攘夷志士側に引き摺り込もうとするのだ。毎度断ってはいるのだけれど、どうにもしつこい。

「悪いけど、そっちにはいけないよ。けっこう楽しくやってるんだ」

 楽しいことばかりではない。でも、今はまだ、離れる気にはならない。「アゴ美さんのことも気がかりだし」と付け足すと、ヅラは肩の力を抜き、息を吐いた。そして「あいわかった」と拗ねたようにそっぽを向く。

「じゃあ誘わないけど、それでいいんだな。もう攘夷志士になりたいって言ってきても遅いからな。明日になって言ってももう受け付けないけどいいんだな。今ならまだ間に合うんだけどなーいいのかなそんなこと言っちゃってー」

 面倒臭いったらありゃしない。しかし、どうということのない応酬でふざけ合ったり、飾りなく接したりすることができる相手は希少だ。決して面と向かっては言わないが、ヅラといると落ち着く。何も持たない自分のままでいられる。ありのままの自分を受け入れてくれる相手がいるのは、幸福なことだ。それでも、だからこそ、言えないこともあるのだけれど。
 いいのか? いいのか? としつこく食い下がってくるヅラの横髪を引っ張ると、ヅラが「あだっ」と声を上げる。近付いた耳元に、顔を寄せる。 
 
「攘夷志士にならないと、会ってくれないなら考える」

 ヅラがきょとんとする。その阿呆面に微笑む。

「今のアウトか」

 警察としては言ってはならなかったか、と過ぎるが、今更とも思う。艶のある髪から手を離すと、さらりと掌から流れていく。
 数拍呆けていたヅラは、傾いていた姿勢を戻す。

「……おまえが楽しくやってるというのに、引き剥がせるわけあるまい」
「ありがと」
「あと、今のは軽率に男にしないほうがいいぞ」
「ヅラにしかしないよ」
「ヅラじゃない桂だ」

 ヅラはやれやれと肩を竦める。別れのあいさつもせず、わたしたちはそれぞれの帰路に着いた。
 違った道を引き返す気は互いにない。紆余曲折を経て、途中で交わることはなくても、きっと行き着くところは同じになる。離れていたって、姿を探しあえばいつか再び出会う日はやってくる。そうしてわたしたちは、同じ終幕を迎えるのだ。
 いつか、幕の降りるその日には。
  





top
ALICE+