雨音が鼓膜を塞ぐ。荒い自分の呼吸が遠くで聞こえる。
 土は雨で泥濘んでいる。そこにあったはずの草花は、二度と再生しないほど踏み潰されている。
 目を上げると、死体の山の隙間から黒い煙が昇っている。燻っているのは炎で、そこに拾うべき息はない。人間も天人も関係ない。無数の生き物だったものが地面で朽ち果てている。まるで地獄絵図だ。
 血濡れた手を雨が洗っていく。刃毀れした刀身に輝きはない。

「行くぞ」

 微かな声がした。見ると、高杉が立っている。高杉は目が合った刹那に眉を顰め、しかし何も言わずに踵を返した。鉛のように重い足を引き摺り、その後に続いた。
 ここが地獄だとしたら、鬼はわたしたちに他ならない。





 大地を穿つ雨は仲間たちを埋めた場所にも平等に降り続けた。戦場から建屋に戻り、屋根の下から潰れたそれを眺めていたものの、何の感慨も湧かない。頭の中は真っ黒く塗り潰され、思考することが一切できない。
 身体中が痛むが、包帯を巻いた左腕が殊更痛んだ。利き手を庇うあまり左手を負傷するのはよくあることだったが、まともに斬られてしまって動かすのも億劫だった。錨を括り付けられたように足が動かないのは、足首にも傷があるせいだった。傷だらけの身体で、頭はものを考えないのに、心臓は今も動いている。いっそのこと心臓ごと引き裂いてしまえば楽になれるのに。
 跳ねる雨を見るのをやめ、広間に向かった。広間には負傷者がたくさん横たえていた。わたしの怪我はまだましなほうで、四肢を動かすことができない者もいた。連れ帰ったものの、息絶える者もいた。

「順に手当てしてやってくれ」

 すぐに後ろからヅラが来て、わたしに消毒液や包帯を渡した。兵士の身内だろう、攘夷派の医師が二人ほど部屋の隅で縫合手術をしていた。呻く声は絶え間なく、室内は血とアルコールの匂いが充満していた。
 横たわる男の脇に座った。ガーゼに消毒液を染み込ませ、そっと額から頬にかけて走る傷に当てた。苦悶に歪んだ表情が、ガーゼを離すとふっと和らぐ。虚ろな目と視線がぶつかる。何か言いたげに口が動くが、乾いた吐息が出るだけで音はない。

「……なに?」

 泥水の匂いのする顔に耳を近付ける。しかし、やはり何も聞き取れなかった。顔を上げると、男の口角が僅かに上がる。わたしは黙って、手当てを続けた。瀕死に近いとわかっている仲間にも手当てをした。か細い呼吸音や、苦しい、痛いと囁く声を聞き続けることが課せられた義務のように思えた。目を逸らしてはいけない、耳を背けてはいけないと自分に言い聞かせ、口内を噛んだ。
 手当を終え、夜中に部屋に戻った。が、銀時の姿はなかった。今日はほとんど姿を見ていない。銀時は奇襲作戦組で、わたしとは別働隊だった。彼らの働きがなければ、おそらく死傷者はまだ増えただろう。
 湯浴みもしないまま布団に倒れる。薄い布団はクッションにならず、身体に痛みが走る。
 仰向けになり、天井を見上げた。疲労と虚しさが同時に去来する。もう限界だった。





 深い沼に足を取られていた。前へ進もうにも足が思うように動かず、遠くに光はあるのに届く気がしない。
 夢だとわかっているのに、光へ向かって手を伸ばす。すると、足を掴まれた。振り返ると、同郷の死んだ仲間が地を這っていた。わたしの足を掴む彼の手が爆ぜる。跡形もなく、木っ端微塵に。小間切れの肉片と成り果てた彼を拾い上げていく。ふと気付くと、沼は真っ赤だった。どろどろと重く、それはわたしを絡め取り自由を奪っていく。沼に浮かび上がる、幾人もの仲間たちの顔。伸びてくる数多の手に全身を覆われていく。
 息ができない。動くこともできない。ふっと眼前に、爆ぜたはずの彼の顔が現れた。笑っているでも怒っているでも悲しんでいるでもない。見開かれた瞳に、吸い込まれていく。

「うおっ、びびったぁ」

 飛び上がった途端、銀時の声がした。目を丸くした銀時が「急に起きるなよ」と睨む。
 起こした半身の背中を撫で摩ると、汗でびっしょり濡れていた。悪夢にうなされるなんて経験がなく、深い溜め息を吐いた。額にも汗をかいている。左腕が小さく痙攣していた。それを気取られないよう、布団に左腕を入れて右手で額を拭った。銀時はこれから眠るところだったのか、敷布団に尻を落として座っていた。

「……何時?」
「二時くらいじゃね?」

 部屋に入ったのが零時を回った頃だったから、二時間も経っていないということか。わたしは早鳴る鼓動を落ち着けるように再度深呼吸した。銀時は怪訝な顔でこちらを窺っている。

「顔色悪いぞ」
「血が足りないんだよ」
「生理か」
「ふざけんな」

 つい暴言を吐く。が、今のは絶対に銀時が悪い。最悪な気分のときに最低な発言を浴びせられ、眉間に皺が寄った。まだ動悸が治らない。

「……いつ戻ったの」

 ごまかすように話を振る。銀時は片膝を立てて頬杖を着いた。目線は正面を向いている。

「さっき。後始末に時間がかかった」
「後始末って?」
「足がつかねぇようにいろいろな」

 わたしよりも凄惨な場所から帰ってきているだろうに、銀時はいつもと変わらなかった。敵を斬ることに慣れ切っているように見える。同世代の中でも銀時の剣の腕はずば抜けていたし、機転の利かせ方も優れていた。縦横無尽に大地を駆け抜け、飛び回り、次々に敵を薙ぎ倒していく様は見ていて爽快でさえあった。わたしはあんなふうにはなれない。戦場にいるときは無我夢中なので余計な思考を巡らせる暇もないのだが、冷静になるとだめだった。
 銀時が布団に潜っていく。屋根を雨が叩いている。左腕の痙攣は治っていた。

「訊いてもいい?」
「眠いんだけど」
「なんでこんなところに来たの」

 それは以前、銀時からわたしへ投げかけられた質問だった。まだ戦場へ来て間もない頃だった。生き物を斬ることに抵抗感を抱えたままで、食欲もなく、毎晩のように胃液を吐き出していた。そんなときでも、銀時はあっけらかんとしていた。その飄々とした態度に自分の不甲斐なさを突きつけられているようで、腹立たしかった。
 背を向けて寝るのが常だった銀時は、珍しく仰向けになって腕を枕代りにした。

「約束した」

 初めて聞く声音だった。

「……約束を果たしたら?」
「あ?」
「どこへ行くの?」
「さあ。どこへでも行くさ」
「……そう。いいね」
「いいかぁ?」
「いいと思う。銀時には、似合うよ」

 青い空に浮かぶ雲のように、輝く川の水のように流れていく生き方は、きっとわたしにはできない。沼に足を取られて、身動きできずにいるわたしには。
 目頭が熱くなる。もう、苦しくて堪らない。帰りたいのに帰る場所がわからない。戦が終わったら、わたしはどうしたらいいのだろう。何をして生きていけばいいのだろう。もう誰も失いたくないし、斬りたくない。でも、戦が終わったあとのことを考えるとどうしようもなく不安になる。子どものように駄々を捏ねたくなる。助けてほしいわけじゃない。ただ、誰かにそばにいてほしい。ひとりで踠き苦しむのはもう嫌だ。
 びりっと腕に電気が走るような痛みがあった。包帯の下から血が滲んでいる。うなされている間に下敷きにでもしたのだろうか。足首を見てみると、まだ生々しい傷痕があった。腕に続いて足まで痛んでくる。
 布団の中で膝を立て、俯いて腕を摩る。鼻の奥がツンとする。吐き出す場のない感情が胸の中でぐるぐると回り、抑えきれず溢れ出てしまいそうになる。けれど、今にも泣き出してしまいそうな自分を客観視しているわたしもいる。ここには銀時がいる。ここで泣くのはずるいんじゃないのと侮蔑している。
 衣擦れの音がする。まずいと思った。銀時が起き上がる。

「オイ、怪我してんのか」

 この男はこちらが勘付いてほしくないときほど聡い。

「してない」
「嘘つけ、血の匂いがすんだよ」
「せ……生理」
「バカか。見せろ」
「やめて変態」
「てめ……そこじゃねえっつの」

 わたしの後ろには壁しかない。迫ってくる銀時から逃れることはできず、腕を掴まれる。ちょうど親指が腕の傷口を押し、息を呑んだ。銀時は呆れて息を吐いた。顔を見られていないせいか、薄闇のせいか、わたしの潤んだ目には気付いていない。

「血ぃ出てんじゃねーか」
「このくらいなんでもない」

 声が震えないよう喉を締めた。怪我人が強がってんじゃねえよ、と銀時の手が包帯を解いていく。筋張った指は丁寧に、傷に触れないように慎重に動いている。
 するすると布団の上に重なっていく包帯を見ながら、空いた右手で目を擦った。動くものを追っただけだろう、銀時の目がわたしの顔へ向けられた。目線がかち合い、銀時は動きを止めた。

「え、泣くほど痛い?」

 視界は滲んでいるが、涙はこぼれていない。わたしは洟を啜り、かぶりを振った。

「痛いんじゃない」
「じゃあなに」
「もうやめたい」

 銀時は薄く唇を開けたまま、じっとわたしを見つめていた。呆気に取られているようにも見えた。しかし、止めることはできなかった。一度口にしてしまうと、堰を切ったように想いが溢れてくる。だめだ、だめだと思うのに、それは次々に。

「誰も救えない自分が憎い。早く戦争が終わればいいと思ってるのに、終わったあとのことを考えるのが怖い。どうしたらいいかわからない。何もないのが怖い。本当は、みんなを護りたい。なのに、何もできなくて……」

 徐々に声が上擦っていく。一筋の涙が頬を伝う。
 支離滅裂なことを言っている自覚はあったが、組み立てる頭もなかった。天井からこちらを見下ろしているもう一人の自分が、冷たい眼差しを向けている。泣いてどうなるの? そうやって同情してもらうのを待ってるだけじゃないの? ずるいね、そうやって自分ばかり助けてもらおうとするんだ。おまえは何も救えないのに。

「こんなになってまで、生きていたくない。もう死んだほうがいい」

 包帯の隙間から鋭利な刃物で斬られた傷が覗いている。赤い血肉は空気に晒されている。そこから壊死してしまえばいい。いずれ死ぬのなら、どこで死んでも同じだ。何度も見てきたじゃないか。感じてきたじゃないか。
 肉の腐っていく饐えたにおい。
 獣に荒らされ、蛆が湧き、食い尽くされていく人間だったもの。
 果てには跡形もなく、そこには白い骨だけが残る。けれどそれさえ消えてなくなっていく。跡形もなく消えていく。わたしも、そうして消えてしまいたい。
 また涙が落ちた。左腕は掴まれたままで動かせず、右手で何度も目元を擦った。

「……ごめん、忘れて」

 鋭い痛みが腕を刺す。銀時の親指が強く傷口を押している。

「二度と言うな」

 押し殺した一言には、綯い交ぜになった感情が滲み出ていた。

「どんだけ辛くても、おまえは」 
「なにがわかんの、アンタに」

 瞬発的な反感が湧き上がる。誰よりも速く、誰よりも強く、戦場を駆ける銀時にはわからない。何も護ることができず、弱い自分を俯瞰で見てようやく己を保っているわたしのことなんて、わかるわけがない。
 口を衝いて出た言葉に、すぐに言ってはいけないことだったと気付いた。しかし、振り払おうとした腕を一層強く握られ、親指の食い込んだ傷口が痛む。

「わかるよ。俺だって、今日だって何人目の前で死んだかわからねえ」

 しんとした部屋の中、銀時の言葉が静かに続く。

「自分を護るためじゃねえ。そいつの使い方を教わったはずなのに、なんにもできてる気がしねえ」

 銀時の目が部屋の隅の刀に向けられる。ぼろぼろの鞘に収められた刀は、物も言わず、ただそこにある。

「でも、今逃げたらだめなんだよ。全部無駄になる。約束したんだよ」

 紅色の双眸がこちらを向く。蝋燭の頼りなく揺蕩う火のように、瞳の奥が揺らいでいる。いつの間にか腕の傷から、じわりと血が染み出ていた。なのに、痛いの一言も出てこない。離してとも言えず、振り払うこともできない。
 銀時は唇を噛み締める。そして一度俯いたあとにゆるゆると顔を上げ、申し訳なさそうに眉を下げた。その唇から、血が滲んでいた。雫となって垂れ落ちそうになっている。

「もう寝る」
「待って、血が」

 こぼれそうになる血を指で拭う。かさついた唇に、滴が朱を塗る。銀時は目を丸くして固まっている。
 その目を見つめ、布団の上で身を寄せ、血の滴る腕で銀時を抱きしめた。きつく抱きしめると、鼻腔をひとつの匂いが埋めていく。固まっていた銀時は、わたしの背に腕を回した。心臓の鼓動と、ひとの体温を感じる。あたたかくて、苦しくなった。
 込み上げてくる涙が、止め処なく溢れて流れていく。濡れる肩口に気付いたのか、銀時が離れていった。

「ナマエ」

 初めて名前を呼ばれた。はらはらと落ちてゆく涙を撫でられ、そっと唇を重ねられる。拙いキスは血の味がした。
 それから、何度も唇を重ねた。唇を食み、ぶつかる舌を絡める。肉厚な舌に口内を蹂躙され、眩暈がした。
 銀時の唇が、首筋に動いた。びくりと身体が跳ねると、動きが止まる。こちらを見上げる銀時に迷いが見えて、わたしは首を横に振る。柔らかな銀色の髪を撫で、大丈夫と呟いた。

「消して」

 その手で全部消してほしい。祈りが伝わったのかはわからない。銀時はゆっくりとわたしを布団に倒し、衣服を剥いでいった。剥き出しになる傷だらけの身体に、柔らかな舌と硬い指が触れていく。
 わたしはそのとき、確かに感じたのだ。全く別の生き物であるはずの目の前の男と、共鳴するもの。拭えない、逃れられない孤独の共有。触れれば切れる糸のように、か細い繋がり。張り裂けそうな心の亀裂。敵さえ恐れるこの男にも人並みの弱さはあって、割り切っているように見せかけても、懺悔したくなるような後悔はある。重ねる罪悪への罰を切望する瞬間がある。どれだけ強く高く手を伸ばしても、届かないものがある。
 ねえ銀時。計り知れない業を背負った銀時のすべてを、わたしが受け入れられるとはとても思えない。けれど、わたしの浅く小さな胸で足りるのなら、余すことなく注いでほしい。溢れてしまっても飲み干すから。その一端でもいいから、分け与えてほしい。
 解かれたままの包帯が布団に散らばる。わたしの血が銀時の剥き出しの肌に少しずつ染みをつける。四肢が縺れるように絡まり、銀時は力任せに腰を打ちつけた。血の流れ出るような痛みではない、圧迫感と切ない痛みに声が出る。銀時が姿勢を前に傾けるたび、荒い息が間近で聞こえ、生きていることを実感した。もっと感じていたくて、夢中になって腕を回した。銀時は時折、唸るような声を漏らした。
 身体の中で、銀時のものが熱く脈打つのを感じた。銀時は瞬時に離れようとしたけれど、回した腕に力を込めると居直るように深く埋め、わたしの手首をきつく握りしめた。どくどくと痙攣し、そこから生温かいものが広がっていくのがわかる。
 数秒の間、銀時はわたしに重なったまま動かなかった。やがて離れると、身体の一部が抜け落ちてしまったかのような喪失感が生まれる。

「……ナマエ」

 謝られるのが怖くて、力の入らない腕で銀時の首を引き寄せた。少しでも動くと、体液か血か、股から太腿を何かが伝う。銀時のものが流れ出ていくような気がして、惜しい気がした。
 俯いていた銀時が、わたしの身体を強く抱きしめる。生きた人間の匂いがする。まだあたたかい肌と肉の感触がある。互いの心音が、すぐそこにある。それだけ確かめあえれば、十分だった。
 十分だった、はずだった。





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