「後悔してる?」

 広い背中に訊ねる。しなる背骨がベッドサイドのランプに照らされている。気怠い体。腰が少し痛い。日々柔軟や稽古は欠かさないが、さすがに疲れた。銀時は顔だけをこちらに向け、苦々しい表情を作った。

「当たり前だろうがコノヤロー」

 その手には空の財布。ひっくり返しても小銭一つ出てこない。落ちてくるのは塵くらいのものだ。銀時はあそこでやめときゃよかったなどとぶつぶつ呟いている。パチンコだろうと競馬だろうと遊興に耽るのは自由だし、お金をどう使おうと個人の勝手だ。けれど、負けるとわかっているのにその先へ進んでしまう心理はよくわからない。
 わたしは布団に包まったまま転がった。衝突した銀時の背中は微動だにしない。腕を伸ばしてランプの明かりを絞る。室内が薄闇に包まれていく。

「ねえ、布団」

 布団を引っ張られる。しかし、わたしは断固として離さなかった。

「ねえ、俺、裸。風邪引くんですけど」
「着ればいいじゃん」
「たまには全部曝け出して寝たい日だってあるだろうが」
「その粗末なもんを晒して?」

 銀時は口元をひくつかせる。

「その粗末なもん今すぐてめーの減らず口に突っ込んでもいいんだぞ」
「不合意。犯罪」
「けっ、すっかり警察の犬になりやがって」

 ふんと鼻を鳴らし、銀時は無理やり布団を剥ぎ取った。わたしは身を翻し、うつ伏せになった。銀時は仰向けになって寝転ぶ。枕はわたしが占領しているので、銀時は腕を枕にしていた。横目で見られ、「おっぱい潰れるぞ」と余計な世話を焼かれる。

「お気遣い痛み入りますどうぞお構いなく」
「かっわいくねぇーマジで」

 もう寝るのだと意思表示のために瞼を閉じた。浮いた布団から隙間風が入ってくる。
 終わりの見えない道の途中にいる。背後には、迫ってくる壁がある。引き返すことはできない。進み続ければ、行き止まりに突き当たるのだろうか。その道の先に何かがあるのだろうか。その答えは、行き着かなければきっとわからない。誰にも、わからない。





 わたしと銀時は、戦争を生き延びた。しかし、わたしと銀時は同じ境遇にあったわけでも、同門だったわけでもない。戦場で出逢い、仲間となり、あることをきっかけに崩壊した。あれは偶然の事故でも、必然の事象でもない。わたしたちは弱く、脆かった。それだけだった。
 銀時が大きな喪失を味わったことは知っている。それは銀時が攘夷戦争に赴くきっかけになった根源で、銀時は何かを護るために剣を握っていた。詳しいことはよく知らない。銀時は肝心なことを話さない男だった。けれど、それが彼の人生の終点であり、起点でもあったに違いない。
 終戦後、わたしは行き場もなくふらふらと暮らしていた。寺子屋を出て武家だった実家の下っ端として長年雑用をし、末女だからという理由でお国を取り戻すため働いてこい——つまり追い出されただけだが——と戦争に駆り出されたわたしは、定職に就いたことがなかった。雑用ばかりしていたおかげで細かい仕事は大概なんでもできたけれど、どこに行っても空虚感があった。ここはわたしのいるところなのだろうか。部屋の隅に置いた刀を見ていると、つい溜め息が漏れた。足元はいつも浮いていた。
 ある日、浪士組が真選組と名を変えて江戸を護る武装警察組織となることを知った。廃刀令が敷かれ、肩身の狭い思いをしているところへ舞い込んだその報せに、はじめは興味本位で屯所を覗いた。開け放たれた門の奥で竹刀を振るう姿に、目を奪われた。そこには光が差していた。
 白夜叉だの、狂乱の貴公子だのといった異名を持たないわたしを誰も元攘夷志士だとは知らない。面接と剣技の試験を受け、わたしは真選組に入隊することが決まった。ひとつの隊を任されるようになるまで、そう時間はかからなかった。
 真選組の隊長を拝命し、警察庁長官の松平片栗粉と共に顔見せという名の接待にお上の元へ連れ出された。酒は好きだが、気を遣う酒は好きじゃない。わたしは酔うこともなく、帰路に着いた。一方の長官は、したたかに酔っていた。

「オウ、そういやぁ栗子がまたオメェに会いたがってんだよ」

 顔を赤らめ、千鳥足の長官に肩を貸しながら歩く。わたしは遺伝子の不思議さえ感じる、長官の娘の顔を頭の中に浮かべた。

「いつでも声かけてって伝えておいてください」

 長官は巻き舌で「助かるぜ」と微笑んだ。しかし、娘はどうせマヨラ様のことを訊きたいだけなのだ。子煩悩なこの親父には言えないが、娘はマヨラ様もとい、副長に恋をしている。娘はわたしから副長の好みの女性のタイプだとか、好きなものを聞き出すのに必死なのだ。堅物の副長が彼女に傾く気配は、今のところない。
 タクシーを拾える大通りまで出ると、頬に雨粒が当たった。頭上の暗闇から、ぽつりぽつりと雨が降り始める。わたしは慌てて足を縺れさせる長官を引きずり、道路に向かって手を挙げた。無数のヘッドライトが通り過ぎる中、七台目でようやくタクシーが停まった。長官を無理やり押し込め、自宅の住所を告げてドアを閉める。走り去るタクシーを見送っている合間にも、雨足は強くなっていく。
 近場のコンビニに駆け込み、傘を買うついでに適当なつまみと缶ビールを買った。会計を終え、コンビニを出ようとすると、雑誌コーナーで視界の隅に映った人影が目についた。相手もこちらを見ていた。

「……銀時?」

 呟いた声が落ちていく。目を丸くする銀時の口からも、ぽろりとわたしの名前が落ちていった。
 戦争が終わり、旧友たちが散り散りになっていく中で、銀時の所在を知る者は誰もいなかった。銀時と肩を並べて戦っていた高杉やヅラでさえ知らないことを、わたしが知るはずもなかった。所詮、その程度だった。当時はそう割り切って、毎日のように思い出していた銀時の顔も日毎に浮かばなくなっていった。なのに、長らく聞いていなかったその声音は、つい昨日も聞いたような馴染みがあった。思い出すなんて意識する暇もないほど、銀時はわたしの中に根付いていたのだ。
 まるで十年の月日など無かったかのように、わたしと銀時はすぐに打ち解けた。わたしの買った傘の中にふたりで入り、公園の東屋で缶ビールを飲んだ。降り続く雨が紫陽花を優しく打つ。蛙の声がずっと聞こえていた。

「ていうかおまえ、その格好まさか真選組?」

 銀時がしげしげとわたしを見て言った。頷くと、なぜか項垂れられた。

「マジかよ。ないわー。税金泥棒に成り果てたか」
「なに、その言い方。まさか警察の厄介になるようなことしてるんじゃ」
「ちげえよ、アイツらが勝手に突っかかってくんの」

 俺は善良な市民だと威張る。善良な市民が木刀なんて持って歩くだろうか。かつて真剣を携えていたその腰を一瞥し、ビールを呷る。

「しかし、おまえが警察ね……」

 銀時もビールを呷る。既に二本の空き缶が木製の机に並んでいる。銀時は酒好きだが、そう強くない。既に頬を上気させていた。昔は髪に覆われて見えなかった耳の先も、少し赤くなっている。

「わたしもそう思う」
「なにが?」
「似合わねーって思ってるんでしょ」
「んなことねえよ。おまえは……」

 言葉が途切れる。つまみに買っていたピーナッツを摘んで口に運ぶ。銀時は虚ろな目で、遊具を濡らす雨を見ていた。
 結局、待っても続きは聞くことができなかった。わたしは携帯電話で時間を確認し、ビニール袋にごみを入れていく。夜勤でもない限り、屯所を無断で空けることは許されていない。そろそろ帰ろう、と銀時を促すと、不意に手を掴まれた。生温かい温度に包まれる手が動かない。
 銀時は半端に腰を上げたわたしを見上げ、ゆらりと立ち上がる。掴んだ手はそのままに、唇を寄せられる。まずい、と思ったときには、もう遅かった。


 誘い文句のひとつもないまま、薄汚れたホテルの部屋になだれ込み、夢中で抱き合った。素肌が擦れるたび、全身に痺れが走るたびに記憶が鮮明に掘り起こされていく。本来は生産的であるはずの行為に、わたしたちは何も生み出すことをしない。ただ、ぬくもりを分かち合って、深い場所に落ちていく。底がある沼なら、どれだけよかっただろう。

「もしかして、ずっとしてねえの?」

 何度か繰り返したのちに、銀時は訊ねた。散々無遠慮に触って乱してきたくせに、今更訊くことかと思った。けれど、声がうまく出てこなくてただ頷いた。息が上がって苦しかった。

「……銀時は、遊郭とか行ってるでしょ?」

 戦況が落ち着くと、合間を縫って男たちが遊郭に繰り出していくのを何度も見ている。戦いに明け暮れる日々の中で、それが彼らを癒やすものだと頭では理解していた。けれど、まだ十代だったわたしは完全には咀嚼できずにいた。今は、平気で遊郭と口にすることもできるけれど。あの頃のわたしは青かった。
 銀時は一瞬面食らい、すぐに眉間に皺を寄せた。あのな、と呆れた調子で言う。

「ガキども預かってる身でそうそう遊びに行けるわけねえだろ。これでも気ぃ遣ってんだよ。エロ本すら持ち込んでないからね」
「子ども?」
「万事屋やってんの。従業員が、ダメガネと暴食チャイナ娘。あとはバカでかい犬」

 なんだそのパーティ。想像がつかない。銀時はわたしの髪を撫で、口付けを繰り返す。唇を食まれ、舌を差し出すとそっと絡め取っていく。口内に押し込まれる厚い舌を吸う。銀時は、キスが好きだったっけ。ぼうっとする頭で考えた。明瞭になっていく記憶を漁るけれど、すぐにどうでもよくなった。わたしたちは朝まで求め合った。





 あのとき、銀時は何を言いかけたのだろう。警察なんて自分には似合わないと言ったわたしを、どう思っていたのだろう。
 柔らかな羽毛布団を退け、半身を起こす。寝癖のついた髪を撫でつけ、隣で眠る銀時を見遣る。時刻は午前三時を回ったところだった。
 のろのろとベッドを降りて、冷蔵庫から出した水を一口飲んだ。足元に脱ぎ散らかした衣類が散乱している。もう少し行儀良くならないものか。流水紋の着流しを拾い上げ、布団を被って寝ている銀時の上に投げた。自分の下着を拾い上げ、手早く身に付けていく。今日は副長から外泊許可を得ているので朝帰りしようと問題はないのだが、最近、組内でわたしに男がいると噂になっている。火消しのため、今のうちに帰りたい。朝には何食わぬ顔で朝議に出るために。
 ズボンを履いてシャツを羽織る。ボタンを留めていると、雨音が耳についた。
 窓を開けると、隣のビルの壁が見える。その隙間に勢いよく雨が降り注いでいる。

「帰んの」

 枕に顔を埋めた銀時がこちらを見ていた。窓を閉め、ベッドに座る。スプリングが軋み、僅かにお尻が沈んだ。

「傘持ってる?」
「ない」
「なんで」
「なんでって……降るとは思ってなかったし」

 銀時はお天気お姉さんの結野アナにご執心で、彼女の出演するテレビ番組は欠かさず見ている。なのに、眼中にあるのは思い人のことだけなのか、天気予報の内容はろくに聞いていない。今日だって、夜から雨だと予報くらい出ていただろう。わたしは手ぶらで歩くのが好きなので、元々傘は出掛けに降っていない限り持たない主義だ。
 タクシーでも呼ぼうか。財布を覗くが、部屋代を払えばそんな余裕なくなってしまう。

「泊まってけば?」

 肘を立て、頭を支えながら銀時が言う。そもそも銀時が無一文になるまでパチンコなどしなければよかったのに。まだ三時だぜ、と欠伸をする銀時を振り返る。

「噂になってる」
「なにが」
「わたしに男がいるって。潰したいの。そういう……関係のない話は」

 銀時は「ふーん」と鼻をほじった。ざあざあと雨の音が続いている。

「余計な詮索されたくないし、干渉もしない。経験則上、踏み込んでいいことなんて何一つなかった。あの人たちとは、対等な仲間でいたいの」
「俺は仲間じゃなかった?」
「え?」

 余白を置かずに訊ねられたので、間抜けな返答をしてしまった。銀時は身動ぎし、こちらに背を向けた。眠りにつこうとしているようだが、寝息は聞こえない。
 失ったものを指折り数える。眩く光るものに手を伸ばしたものの、結局わたしの手からはたくさんのものが零れ落ちていった。ままならない現実の中、触れ合っているときだけは満たされた気になる。わたしたちが同じ生き物だと思える。
 寂しさや虚しさを埋めるこの行為に、本当は意味なんかない。銀時はわたしがいなくても生きていくことができる。わたしだって、銀時がいなくても息を吸って吐いて過ごすことくらいできる。そのくらい容易いことなのに、いつの間にかそこにいることが当然になって、いつか来る別れを考えないようになっている。目を逸らしたって仕方がないのに。
 ベッドに乗り、寝るには不似合いなズボンとシャツのまま布団を捲って潜る。背中に頬を寄せると、銀時が動く。向かい合う形になり、どちらからともなく体を寄せ合う。鼓動と、体温。決して交わらないのに、混じり合う夢を見る。
 終わりの見えない道の途中にいる。背後には、迫ってくる壁がある。引き返すことはできない。進み続ければ、行き止まりに突き当たるのだろうか。その道の先に何かがあるのだろうか。その答えは、行き着かなければきっとわからない。誰にも、わからない。わたしにも、銀時にも。
 確かなことは、この道がどちらかが息絶えるまで続くということだった。
 目を閉じると果てのない暗闇が広がる。雨は垂直に降り続け、時折窓を叩いた。





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