いけ好かない女だった。清楚で明るくて笑顔が可愛い。俺の理想像には程遠い女だった。素直さのかけらもなく、手と足はすぐに出るくせに、心根を晒すことはほとんどない。
 今も、変わらない。





「クッソ、ふつう置いてくかね……」

 鬱蒼と茂った藪の中を歩きながら独り言つ。陽は沈み、辺りは暗闇に包まれている。人里離れた山の中に街灯などあるはずもなく、煌々と輝く月だけが行先を照らしていた。滑る土を踏みしめながら歩を進めていると、頭上の木の葉が揺れた。ざわざわと風が鳴り、寒気に身震いした。
 戦地から拠点かつ寝床である屋敷に帰る途中、便意を催して仲間たちと別れた。山はあっという間に暗くなるので「すぐ終わるから待ってて」と頼んだのに、用を足して戻ると誰もいなかった。決して夜道が怖いとかではない。万が一敵が潜んでいたら危険だから、単独行動はしないほうがいいのだ。にも関わらず平然と仲間を置き去りにするなんて——奴ら、侍の風上にも置けない。俺は寒さに自分の体を抱きしめながら足早に山道を進んだ。
 下り道に差し掛かり、ふとそれまで聞こえなかったはずの音が耳をついた。肉食獣が獲物を捜して喉を鳴らすような、死にかけの草食獣が呻くような声。それは藪の奥から断続的に聞こえてくる。
 俺は足に絡みついてくる草の上を音を立てないよう慎重に歩いた。恐る恐る藪を掻き分けて声のするほうを覗くと、臙脂色の羽織が見えた。地べたに跪き、太い木の下で肩を上下させている。息を呑む。一呼吸置いてから声をかける。

「オイ」

 そいつはゆっくりと振り向いた。闇に浮かぶ顔は憔悴で蒼白になっている。左手には血の付いた抜き身の刃があった。唇の隙間からは、ひゅうひゅうと細い息が漏れている。夜露が大木の葉から落ちたのか、はたまた血痕か、羽織には点々としみができていた。
 弱った野生動物のように体を小さくして動かないその女に近付く。逃げるかと思ったが、女は逃げなかった。代わりに刀を握る手に力が籠った。俺はその手を一瞥し、女の目を見つめた。瞳の奥の光が揺れている。

「食うもん食わねえで、何を吐けるってんだ」

 木の根元には吐瀉物が薄らと溜まっていた。しかし、内容物はほとんど胃液しかないようだった。薄っぺらな腹には食べ物と呼べるものは収まっていないのだ。女は冷や汗だか脂汗だかが滲む額を腕で擦り、力のない声で呟いた。

「内臓が出るかもしれない」
「水上に出た深海魚かてめえは。人間は天人殺しても内臓吐かねえよ」
「人間もいた」
「人間殺しても同じだ」

 戦場へ来て、改めて自分が異端であることを知った。周りの連中は十代、二十代の血気盛んな連中ばかり。しかし、ほとんどは道場剣術止まりだったり、喧嘩こそ日常茶飯事だが真剣での斬り合いや殺し合いはしたことがなかったりする。戦地へ赴いたものの、早々に心身が壊れてしまって離れていく者はいる。それを超えてもなお、高尚な信念や、曲げられない意地、怯まない心を持った者が残る。この女のように罪悪感や、人を斬る生々しい感触に打ち拉がれていては、きっと先はない。俺はその感覚をとうに忘れていて、ときどき思い出す。血に濡れた己の掌を握り、開いてまた剣を取る。背負った業を降ろす気はない。
 深く長い息を吐き、女はゆっくりと立ち上がった。女は普段の口の悪さを引っ込め、無言で俺の脇をすり抜けた。初対面で女が役に立つのかと揶揄したときには正確に股間を蹴り上げてきた。その威勢さえ消えている。相当堪えていることは明白だった。それでも、女の足は寝床へ向かい、翌朝には戦場へ向かう。一体なにが女をそうまで駆り立たせるのか——。
 血をべっとりと付けた刃の銀色が月明かりに反射する。「鞘は?」と訊ねると「どっかいった」と簡潔に返ってきた。重そうな足取りで、しかしまっすぐに進んでいく背中に続いた。
「答えたくなかったらいいんだけど」と前置きして訊ねた。

「なんでこんなとこへ来た?」

 気は短かったが、女は無闇に人を傷つけるような人間でもなかった。況してや、幕府に恨みがあるわけでもなさそうだった。攘夷運動を声高に語る奴らの輪には決して入らない。どこか冷めた目で見ているふうだった。
 女はたっぷりと間を置いた。そして、最初は、と口火を切った。

「成り行きだった。父親に追い払われて、兄も姉も引き止めなくて、家を出てきた。生きてていいことなんてほとんどないし、野垂れ死ぬことになっても別に構わなかった。国も天人もどうでもいい。でも、わたしと一緒に来た奴は違う」

 女は辰馬と同船してきた。そこには女と同郷の男もいた。俺はよく知らない奴だった。爽やかな好青年だったというぼんやりした印象しかない。

「アイツは本当に国を取り戻したくてここに来た。家族に送り出されて、必ず帰ると約束してきた。こんなところで死ぬような奴じゃない」
「お熱いねぇ。そいつのためにてめえも命張って戦うのか」
「そのつもりだったよ」

 女は振り向き、そして前に向き直り歩を進め続ける。表情と言えるほどの表情はなかった。

「今日は目の前で仲間が頭を吹き飛ばされて、血が昇って天人の首を刎ねた。吐くほど苦しいのに、そのときは夢中で躊躇いもなく殺せる。歯止めが効かなくなる」

 話している内容は物騒なのに、芯を通した、落ち着いた声色で話す女だった。遊女のような妖艶さはないが、耳心地は良い。

「おかしいのはわかってる。無理だってことも、わかってる。戦争に来て誰も死なせないなんて……奪っておいて、奪わないでほしいなんて言えるわけがないことも……」

 言葉尻が震えて小さくなっていく。それでも足は止めない。
 少しだけ、女のことを理解できそうな気がした。
 女の頭が下がり、しかしすぐに上を向く。泣いてるのかと思い前に回りこむと、渇いた目でじろりと睨まれた。行手を阻む形になったので肩口を押された。柔らかい土の上で少しよろけ、やっぱり可愛くねえ、口端を上げる。
 どんどん前へ進む女のあとに続く。可愛くないが、どうも、悪い奴ではないらしい。

「ひとりでも死なせたくないのなら、おまえも死なねえ努力をしろ」
「……結局護れなかったのに?」
「どんなに想っても願っても、救えるものと救えないものはある。おまえだけじゃねえよ」

 女が足を止めた。坂道の下、屋敷の全容が見下ろせる。明かりはない。屋敷の裏には誰が始めたかもわからない、死んでいった仲間を埋めた墓地がある。しかし、亡骸を持ち帰ることができるほうが稀で、ほとんどは戦場に置き去りにされる。乾いた土の上で踏み潰され、冷たい川に流されていく。生き残った者にできることは、ほんの僅かだ。それでも、生き残ったら、生きていくしかない。

「あっ、立ちションしてる」

 女が指差した先は真っ暗な茂みで、俺には何も見えなかった。振り向いた女は「夜目が利くのが取り柄」と笑みを見せた。初めて見た笑顔に目をしばたかせる。あまりにも力なく、諦めたように笑うから。





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