深い霧の烟る山奥に、守り神と崇められる強大な力を持った妖狐がいる。
体毛は輝く白銀。長い爪と鋭い牙を持ち、鬼火を自在に操る。吹き荒ぶ山地の風に九本の尾を靡かせるその姿は、神々しいほど美しい。
常世と現世の狭間にいるその妖狐は、悠久の時を生き永らえている。たったひとりで。
「妖怪に生きてるって表現はどうかと思うぞ」
背後からの声に飛び上がる。反射で文机ごと隠すように巻物に覆い被さったが、反動で筆が転がり落ちて畳に墨を撒き散らしてしまった。銀時は「あーあー」と呆れた声を出し、筆を拾った。この男はどうして気配を絶って近付いてくるのだ。
「あとその厨二くさい言い回しもやめたら?」
銀時は畳を手で擦ったが、汚れが広がるだけだった。自分でも薄々臭いと思っていた文言に対して突っ込まれ、ひくりと口元が引き攣る。
「このくらいのほうが読者の興味を引くでしょ」
「妖怪絵巻なんて今時ガキでも見ねえよ」
「そんなことない」
「昨今のガキは擦れてるから信じやしねえって」
「いると思うのが楽しいの。ていうか、わたしは信じてるから」
銀時は硯に筆を戻し、生返事をして悠々と台所へ消えていった。戸棚の饅頭食っていーの? と訊かれ、三個までだと答える。奴は甘いものが好きで、制限しなければお菓子の類は底を尽きるまで食べる。お供え物として買ったものなのに。
身体を起こし、巻物を広げる。そこには猫又や鵺、鴉天狗、蛟などが描かれている。その中でも一際大きく描かれているのが、九尾の妖狐だ。それは今にも紙面から飛び出てきそうな躍動感があり、赤い瞳は鋭くこちらを睨んでいる。
絵の九尾をそっと撫でる。思いを馳せていると、銀時が顔を覗かせる。
「オイナマエ、饅頭三十もねえぞ」
「誰が三十って言った? 三個って言ったんだけど」
「マジか。全部食っちゃった」
まあいいよな、と銀時は悪怯れる様子もなくあっけらかんとして言った。わたしはふつふつと怒りが湧き上がるのを堪え、深い溜め息を吐く。わたしだって甘いもの食べたかったのに。居候の身でどうしてこんなに図々しいのだろう。
銀時は甘い息を吐きながらわたしの隣に座った。入れ替わるように立ち上がると、どこ行くんだと訊かれる。
「町でお昼食べる約束してる」
「またお仲間さんか」
「本を書く仕事をしてる人って周りにいないんだもの。意見交換とかもしたいの」
わたしは普段、読本を書く仕事をしている。今回、趣味が高じて妖怪絵巻を作成することになった。わたしが妖怪好きだと以前から知っている作家仲間が、本を出せばいいと紹介してくれたのだ。近頃の子供たちは妖怪というものを知らない子も多いし、未知とのふれあいは好奇心を刺激する。悪いことをすれば化け物がやってくるという教育的機能もある——そうだが、わたしとしてはそんなことはどうでもよかった。わたしが願うことは妖怪というものを広く知ってもらうこと。そして、彼らを疎むことなく受け入れてほしいということ。
いそいそと出かける準備をしていると、銀時は「あっそう」と声色を落とした。銀時は人の多い町に降りるのが嫌いで、わたしがいるときは家から出ることがほとんどない。たまに夜になって酒を呑みに出かけることがある程度だ。
「一緒に行く?」
「行かねえ」
ダメ元で訊いてみると案の定即答された。退屈なら一緒に来てもいい——ただし仕事の話を邪魔しないように——と何度か言っているのだが、今のところ快諾されたことはない。人見知りなんてする柄じゃないくせに、知らない奴に会うのは嫌いだと言うのだ。
畳の上にごろりと寝転ぶ銀時の背を見遣る。背中から不貞腐れているとしっかり伝わってくる。銀時は図体は大きいのに子どもみたいなところがある。しかし、最近何かと町に出ることが多くなってしまったし、あまり相手をしていないのも事実だ。わたしが罪悪感を覚えるのはお門違いな気もするが、少し気にかかる。
「今度あんみつ食べに行こう」
苦し紛れの提案に、銀時が頭を僅かに動かしてわたしを一瞥した。砂糖さえ舐める甘党だ。釣られないわけがない。体を翻してこちらを向く。
「二人で?」
「アンタ他に人がいると来ないでしょ」
「今度っていつ?」
「今度は今度」
「忘れんなよ」
ゆっくりと体を起こした銀時が強請るように見つめてくる。まっすぐな眼差しに押し負け、わたしは「大丈夫」と何度も頷いた。銀時は満足そうに顔を綻ばせ、風呂掃除してくると意気揚々と部屋を出ていった。掃除なんて滅多にしないのに、現金な男だ。
軽く支度を済ませ、家を出た。町中の喧騒と蒸し暑さには毎度参ってしまう。木漏れ日のない中では陽光は殺人兵器ではないかと思うほどだ。心なしか蝉まで暑いと叫んでいるように聞こえる。だのに隣の先生は外套を羽織った羽織姿で、視覚的に暑さを助長してくる。
飲食店の並ぶ通りを歩きながら、先生が店の看板を指差す。
「蕎麦でも食べますか。冷やし中華もいいですね」
「冷やし中華いいですね」
「じゃああそこに入りましょう」
色褪せた冷やし中華始めましたという幟の立った店に入る。こじんまりとした中華料理屋で、昼時だというのに客足は疎らだった。厨房から出てきた腰の曲がった老婆が「何にします?」と早々に訊ねてくる。まだ席にも着いていないのに。
「冷やし中華を二つ」
先生が帽子を外しながら二本指を立てる。頭髪が汗で湿って額に張り付いていた。
「醤油と胡麻があるけど」
「僕は醤油で。きみは?」
「あ、胡麻で」
老婆はハイハイと頷き、厨房へ消えていった。醤油イチ、胡麻イチと嗄れた声が聞こえてくる。
わたしたちは壁沿いに並んだテーブルに向かい合って座った。先生は外套を脱いで椅子の背凭れに掛けた。天井の冷房が唸り声を上げながら冷風を吐き出している。外気温との差が激しく、長時間いたら冷えてしまいそうだった。
「進捗状況はどうですか」
老婆が持ってきたお冷やに口をつけながらかぶりを振る。
「もう少し時間がかかります」
「そうかい。ゆっくりやってくださいね」
にこりと微笑まれる。先生は生粋の読書家であり人気作家で、佇まいから文学を意識している。最近では書評を頼まれることもあるという所謂売れっ子だ。しかし、彼は自分の才を鼻に掛けることもなく、とても鷹揚で穏やかな人だった。こうして新人のわたしにも気配りをしてくれている。
わたしと先生が交流を持つようになったきっかけは、数年の前の新人発掘プロジェクトだった。落選覚悟で投稿した小説が入賞したのだ。大賞ではなかったけれど、それを機に仕事は増え、今ではマイナー誌だが連載も持っている。それに興味を持った先生がわたしに連絡をしてきてくれた。同業の知り合いなどいなかったわたしにはとても嬉しかった。
先日、妖怪を元に物語を書きたいと話したら、先生は賛同してくれた。大人に響くものを作るのは難しいから、まずは子どもたちに向けて絵巻にしたらどうだろうと助言してくれた。好きなものを形にできる。これほど作家冥利に尽きることはない。わたしは二つ返事をして筆を取った。
「今はどのあたりですか?」
「えっと、九尾の狐のところです。思い入れがあるので時間がかかってて」
「思い入れ?」
お待ちどうさま、と老婆が冷やし中華を運んできた。二人で割り箸を手に取り、麺を啜る。口当たりの優しい胡麻だれは香ばしい匂いがする。
「信じてもらえたことないのであんまり話さないようにしてるんですけど、わたし、小さい頃九尾に会ったことがあるんです」
「会った?」
怪訝な表情を向けられる。やはり信じてもらえないだろうか。苦笑すると、先生は「いや、聞きたい」と続きを促した。久しぶりに話すことなので、わたしは頭の中で記憶を整理してから話した。
両親を幼いときに亡くしたわたしは伯母に育てられた。気が弱くて引っ込み思案だったわたしは、周囲の子どもたちによくいじめられていた。親がいないとか、貧乏人とか、とにかく理由なんてなんでもありで、けれどどれも伯母に言うことはできなかった。お金がないのも、両親がいないのも伯母のせいではない。伯母は不仲だった妹の娘であるわたしを受け入れ、真摯に向き合い育ててくれた。子どもながらに感謝をしていたので、彼女の気を揉ませるようなことはしたくなかった。
ある日、山奥にある古い神社に一人で行けと言われた。そこには恐ろしい狐の妖怪が出ると昔から言い伝えられていた。おまえが行って確かめてこい、もし本当にいたら食われるかもよ、と面白半分で見送られ、わたしは逆らうこともできず、怖々山道を進んだ。
深い霧に覆われた山の中、半べそをかきながら歩いた。歩き続け、立ち込める霧の奥で不気味に姿を現したのは赤い鳥居。その奥に古い社があった。
——ここまで来たんだから、もういいよね……?
神社に着いたときには、もう涙が落ちてしまいそうだった。不甲斐ないやら怖いやら寂しいやらで感情は決壊寸前だった。危ういところで踏みとどまっていたものを壊したのは、真っ白な霧の中、真っ白な頭をしたものだった。
「なんだ、ガキか」
低く冷めた声に飛び上がる。社の屋根に人間がいた。しかし、その背には大きな九本の尾が広がり、頭からは尖った獣の耳が生えていた。その周囲には漂う鬼火。——狐の妖怪。食べられる。
わたしは泣き出して踵を返した。けれど、すぐに足を縺れさせて転んでしまった。背後にゆっくりと迫ってくる九尾に恐れ慄き、わたしは咄嗟に懐から包み紙に包まれた饅頭を二つ出した。
「ごっごめんなさい! こっこれあげるから許してください!」
両手で饅頭を差し出し、地面にべったりくっついて謝った。足音は止まっていた。そうっと顔を上げると、長い爪の指先が饅頭を一つ摘んでいくのが見えた。九尾の狐はまじまじと饅頭を四方から眺め、紙を剥がしてそれを口に放り込んだ。しばらくそれを咀嚼し、飲み込む。ぽかんとしてそれを見つめていると、九尾はもう一つの饅頭を手に取り、紙を剥がし口に入れた。あっという間に二個食べ終え、わたしを見下ろす。
「もうねえの?」
混乱していたわたしは、なにを訊かれているのかわからなかった。口を開けっぱなしにしたまま放心していると、九尾は拳を握り爪を隠し、手の甲でわたしの頬を拭った。骨が当たって痛かった。
「泣いてねえで答えろや」
「あ、えっと、ごべんなさい」
「何それ何語?」
「もうないの……あ、うちに帰れば、もう少しある、あります」
「じゃあ持ってきて」
「は、はい」
ようやく立ち上がり、勢いよく頭を下げた。逃げるように駆け出すと、あっと後ろで引き止めるように声が上がった。
「この辺蛇とか猪出るから、夜は来るなよ。明日来い明日」
「は……はい」
急いで山を降りたが、辺りは真っ暗になっていた。もちろんわたしを山へ向かわせた子どもたちはいなくなっていた。一人で自宅に帰ると、伯母が遅かったねと芋煮を作っていた。わたしは九尾に会ったことを一切話さず、伯母と芋煮を食べた。夕食後に伯母が店の残りだと饅頭を出してきたけれど、わたしはそれをその場で食べずに押し入れにしまった。伯母は菓子屋で働いていて、余った甘味をよく家に持ち帰ってきていた。
翌日、饅頭を二つ持って山に向かった。神社では九尾が待っていた。九尾は早速饅頭を平らげた。明日も持ってこいと言われ、わたしは次の日も饅頭を持っていった。そんなことが何度か続いた。
里にいればいじめられるし、家にいれば伯母に遊んでこないのかと訊かれる。わたしが社にいる時間は次第に長くなっていった。伯母のことは好きだけれど、伯母は子どもの小さな諍いなど気に留めない人だったので、わたしがいじめられていることなど全く気付いていなかった。気付いたとしても、恐らくそんなの一発ぶん殴れと言って終わりだと思う。
どこにいても息が詰まる。膝を抱えて息を吐くと、九尾は指を舐めてわたしを一瞥した。
「おまえ、ガキンチョのくせに一人でこんなとこ来ていいの」
「……好きで来てるんじゃないもん」
「あーわかった。おまえいじめられてんの?」
「……」
「図星か」
かわいそうになぁ、と九尾は愉快そうに笑った。妖怪になんか人間の気持ちはわからない。わたしはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。しかし、九尾はさして気にせず訊ねる。
「家族は?」
「……おばさんがいる」
「親は?」
「死んじゃった。おばさんも、もうすぐ死んじゃうと思う」
「なんで」
「……お薬、どんどん増えてるけど、たぶんよくならない」
伯母は隠れて薬を飲んでいた。わたしには知られていないと思っていたようだが、錠剤がいくつも机の引き出しに入っているのを見たことがある。その数が増えるたび、言い様のない不安に襲われた。
「ふーん。じゃあおまえ、ひとりぼっちなの」
「うん……」
ふーん、と九尾は繰り返した。雲のような尻尾が、それぞれ別の生命体のように揺れている。
鳥居にはよく見ると亀裂ができていた。社も煤けた色になっており、しめ縄はほつれている。神様は信仰する者がいないと力が弱まっていくと伯母から聞いたことがある。だから毎日祈り、その対価にわたしたちを見守ってもらうのだ。周囲を見渡しても人気はなく、神社の周りの雑草は伸び放題になっている。きっと長い間、人が来ていないのだ。
「あなたはひとりで寂しくないの?」
「人間と一緒にしないでくれる」
辺りを覆う霧が深くなっていく。真っ白い世界は、先の見通せない闇と大して変わらない。
膝を抱えた腕にぎゅっと力を込めて俯く。僅かに風が起こる。見ると、大きな尻尾が動いていた。
「人間は寂しいと死ぬのか」
「……わかんない」
「おまえが死んだら、うまいもん食えなくなっちまうな」
尻尾が背中に触れた。顔を上げると、九尾が胡座をかいて頬杖を着いていた。ふわふわの毛がくすぐってくる。尾先に触れると、深い紅色の瞳がわたしを見据えた。
「じゃあ、あなた、わたしがひとりぼっちにならないようにずっと一緒にいてくれる?」
「あぁ?」
「代わりにお饅頭持ってくるし、このお社もきれいにする。だめ?」
「……」
九尾はしばらく考え込む素振りをみせたあと、小指を差し出した。指切り? そろそろと小指を出して、繋ぎ合わせる。
「約束?」
「妖怪は約束はしねえ。契約だ」
「ケイヤク?」
「破ったら罰が当たる」
「なんだ、そんなこと」
お饅頭はちゃんと持ってくるし、社も掃除する。絶対に破らないよと笑った。
「じゃあ、俺もおまえをひとりにはしねえよ」
「ふふ、絶対ね」
「ああ」
九尾の指はひんやりと冷たくて気持ちよかった。けれど、次の日社へ行くと九尾はいなかった。呼びかけても返事はなく、饅頭だけを置いて帰った。そんな日々が、今も続いている。九尾は影も見せないが、それでも神社には通い続けている。社が汚れていたり落ち葉が散らばっていたりしたら掃除をした。
妖怪からすれば些末なことだったのかもしれない。からかっただけなのかもしれない。でも、約束は約束だ。それに、わたしは初めて自分の寂しさを吐露し、それを受け入れてもらえたことが嬉しかった。嘘でもひとりにしないと言ってくれたことが、嬉しかったのだ。
「きみは律儀ですね」
先生は感心したように呟き、腕組みをした。
「でも、九尾は本当にいなくなったんでしょうか?」
器に残った胡麻だれにきゅうりの切れ端が浮いている。それを摘んで口に入れ、首を捻る。
「饅頭はいつもなくなってるんですよね。動物が食べてるのかもしれないけど……」
「案外、どこかできみを見守っているのかもしれませんね」
「そうですかね……」
頭上で唸り続ける冷房のせいで体が冷えてきた。身震いすると、先生はそろそろ出ましょうかと帽子と外套を身に付けた。外は相変わらず日射が厳しいというのに、やはりそれを着るのか。わたしは違う意味で感心した。
会計を終えて店を出る間際、入れ違いで入ってきた若い女性があっと驚いたように声を出した。口元に手を当てて、狼狽しながらこちらを見ている。先生はメディアに姿を出すことも多いから、顔は知れている。先生のファンだという人が握手を求めたりサインを求めたりすることはままある。またそのパターンかなあ、と他人事のように女性の出方を窺っていると、彼女は予想に反してわたしの前に立った。
「あ、あの、わたし、デビュー作からずっと作品を読んでて、すごく好きです!」
「えっ? わたしですか?」
驚きのあまり訊き返す。彼女は大仰に首を縦に振る。興奮しきりの彼女と、初めてのことにただ呆然とするわたしで、会話らしい会話はないまま別れた。遅れて彼女がわたしのファンだと思い知り、舞い上がるような気持ちになって足取りが軽くなっていった。先生は穏やかな表情をしていた。
「きみの作品をもっと多くの人に見てもらえるといいですね」
「はい。わたし、初めてやりがいみたいなものを感じてます」
「きみは才能があるんだから、あまり自分を卑下しないほうがいいですよ」
照れ臭くなって目線を立ち並ぶ店のほうへ向ける。そこに今川焼きを売っている店があった。銀時の顔が過り、先生に断って二つ買った。あとになって、饅頭を全部食べられて今川焼まで買って、自分の甘さに呆れてしまった。今川焼の中に詰まっている餡子よりも甘い。
「そういえば、まだ家には野良犬がいるんですか?」
先生には銀時のことを犬とごまかして伝えてあった。さすがに嫁入り前の女が男を家に住まわせているというのは外聞が悪い。やましいことは何もないにせよ、疑われても仕方がないので黙っている。
わたしは力なく笑って、ええまあ、と今川焼の入った紙袋を抱えた。
「もう飼い犬にしたらどうですか」
「飼い犬にしては言うこと聞かないし番犬にもなってないし……」
「手のかかる子ほどかわいいと言うでしょう」
不貞腐れた銀時の背中を思い出す。確かにかわいいところもある。ただ、このままずっと家に置いていてもいいものかどうか最近考える。
銀時は数年前に伯母が亡くなったときふらりと現れた男だ。住む場所も食べるものもないと言うので成り行きで家に住まわせることになったものの、今思えば迂闊だったと思う。身元どころか素性さえよく知らない男を家に上げてしまったのだ。けれど、銀時は日がな一日怠けて過ごすだけで特に危害を与えてこない。空間を占拠されているという面では若干邪魔くさいが、話し相手がいる日常は存外心地良いし楽しい。一人で暮らしていては感じ得ない忙しい感情の起伏も銀時がいるからこそだ。伯母を亡くして、腐らずにいられたのは銀時のおかげでもある。
銀時から家族の話は聞いたことがない。たまに飲み仲間だという友人らしい数人の話は聞くが、わたしは会ったことがない。興味を示すとおまえは会わないほうがいいと突っぱねられるのだ。一緒に暮らして長くなるけれど、知らないことのほうが多い。けれど銀時には銀時の人生がある。わたしのそばで一生を終えるわけにはいかないだろう。
先生と道を分かれて家に着くと、銀時が縁側で眠っていた。そよ風に揺れる銀色の髪を撫で、頭の上に今川焼の紙袋を置く。閉じられた瞼、静かな寝息。黙っていればいい男に見える。
部屋の文机には書きかけの妖怪絵巻がある。無造作に置いていってしまったが、銀時がきちんと丸めて紐で縛ってくれたようだ。台所の笊には、わたしの好物のいちじくがいくつも入っていた。
銀時がずっとここにいていいとは思わない。でも、追い出す理由もない。銀時が望んで出ていくときには、わたしは黙って見送らなければいけないのだろうか。
◇
星の瞬く山道を、黒い外套、黒い帽子を被った男が人目を避けるように歩いていた。夜とはいえ外気温は高い。男は背中にじっとりと汗をかいていた。山歩きに慣れていない男は、雑草や小石に足を取られながら歩を進めている。途中脇から茂みを揺らす音が聞こえ、男は肩を跳ねさせた。が、飛び出してきたのは野ウサギで、男は舌打ち混じりに溜め息を吐き出した。
男は江戸で著名な作家だった。著名とはいえ文学界では名が知れている程度で、本に感心のない類の人間からは認知されていない。狭い世界で長年苦渋を味わい、ようやく最近花が咲き始めたのだ。書く本は名前である程度は売れるようになり、書評を請け負うことも増えてきた。上り調子だ。このまま上り詰めていけば、一生食うに困らない生活を手に入れることができる。過去に受けてきた屈辱的な扱いも払拭できる。生活の安定より、男にとっては後者のほうが重大なことだった。
そんな明るい未来を描きはじめたときに、それは芽吹き始めた。デビュー作が賞を取り、着実に力をつけているその産まれたての作家は、まだ若い女だった。苦労も知らなさそうな青くて世間知らずな女。男は女の作品を読み、危機感を覚えていた。面白い物語を生み出す作家はいくらでもいるが、彼女の書く物語は胸がつまるような、他者の内部に深く入り込むものだった。
彼女はいつか売れる——。男は確信した。実際、文壇での彼女に対する評価は高かった。今はまだ稚拙な面があり当たり外れがあるが、確実に伸びてくる。
男は嫉妬と羨望に駆られた。何十年と紙と自分に向き合い、ようやく登り始めた場所に、ひよっこの作家が凄まじい速さで迫っている。芽は潰しておかねばならない。気付いたときには女に連絡を取り、その内情や彼女の為人を探っていた。
彼女は幼い頃に両親を亡くし、育ての親である伯母ともろくに交流を持てず、ひとりで過ごす時間が多かったらしい。そのせいか、一人で空想の世界に浸ることが屡々あった。その影響か、彼女は妖怪に傾倒していた。つい昼間も、彼女の妖怪話に付き合ったところだ。が、男は妖怪だの幽霊だの、オカルトの類には一切興味関心がない。世間一般的に見ても、妖怪という言葉を知っている者は多いが、所詮子ども騙しの空想上の化け物程度の認識だ。本気で信じている人間のほうがマジョリティーであるに違いない。
男はこれを好機と捉えた。今まで、彼女は人間ドラマを題材にした物語を多く書いているが、妖怪を題材にしたものを書いたことはない。大衆が求めるのは普遍的な物語だ。評価が上がりつつある彼女が急に路線変更、それも需要のないオカルトものを書きはじめれば、文壇も彼女を前面に押し出していくことはなくなるだろう。幸い、彼女には出版関係者と密な繋がりはないし、未だに持ち込みや投稿を続けている。それに、純粋な彼女は男を作家の先輩として心から慕っている。まさか男が自分を貶めようとしているとは思うまい。
「くそ、なんでこんな山に住んでるんだ」
男が独り言ち、顎から滴る汗を拭う。彼女の家は人里から離れた山の麓にあって、周囲に民家のない一軒家だった。生まれも育ちも都会だった男は、虫や獣の多い道に苛立ちが募るばかりだった。
本当は、妖怪絵巻が完成しても構わなかった。売れるはずがないと思っていたからだ。しかし、昼間に彼女の熱心なファンが現れた。真っ赤な顔で支離滅裂ながらも懸命に想いを伝えようとするその熱量は、彼女に深く執心していることが見てとれた。
女と分かれて帰路に着く途中、男は無性に焦燥に駆られた。文壇は常に新しい風を待っている。もしかしたら、彼女の変化を受け入れるかもしれない。大きな変化もなく、必死にしがみついている自分がまるで馬鹿みたいではないか。
男は汗ばむ手の中のマッチを握り締め、ようやく見えてきた広い一軒家に目を留めた。明かりはついていない。時刻は丑三つ時だ。寝ているのだろう。
家屋の裏に回ると、ガラス戸で仕切られた縁側がある。物音一つしない。聞こえるのは虫の鳴き声だけだ。
男は手のマッチを見た。自宅を出るときは焦りでつい手に取ってしまったが、だんだんと冷静になってきた。放火すれば、もう後には引けない。マッチ共々燃やしてしまえば証拠は残らないが、万が一、自分の姿をどこかで見られれば言い逃れできないかもしれない。しかし、ここまできて何もせず帰っては、彼女の勢いを止めることはできない。
足音を忍ばせ、ガラス戸から室内の様子を窺う。暗いが、豆電球の下の文机が見える。その傍らに女が寝ている。暑いのか、薄い布団を横に投げ飛ばしている。寝巻きははだけ、太ももまで素足が見えている。その滑らかな足の線に男は無意識のうちに生唾を飲み込んだ。ガラス戸に触れようと手を伸ばす。
「オイ」
突如頭上から降りかかった声に、男が反射で顔を上げた。星と月の浮かぶ夜空に、黒い影がある。屋根の上に人が座っていた。
「人様の家に入るときは、お邪魔しますって言うのが礼儀じゃねえのか」
誰何する間もなく声が降りかかる。高いところから見下ろされていることに屈辱を感じた男が、屋根の上を睨め上げる。
「何者だ、きみは」
「はぁ? そりゃこっちの台詞なんですけどぉ。ここは俺んちなの。自分の家にいて何が悪いんですかぁ」
屋根にいたその影が、ふわりと羽のように地上に降り立つ。男はすぐに目を見開いた。男の銀色の頭に、白い獣の耳が生えていた。そして額には狐の面を付けている。
——なんだ、こいつ。悪趣味だな。
男は訝しみ、銀髪を上から下までまじまじと見た。彼女に同棲している男がいるとは聞いたことがない。年頃だし、いても不自然ではないが、どうにも男っ気がないので考えたことがなかった。男は自分のことを棚に上げて銀髪を問い詰める。
「彼女に恋人がいるなんて聞いたことない。家族もいないと聞いている。いったいどういう関係なんだ」
「フホウシンニュウしといてよく言うなてめー。悪いけど、てめーに言うような関係じゃねえよ」
「なんだと?」
「いいか、二度は言わねえからよく聞けよ」
銀髪が一歩距離を詰めてくる。射抜くように眼光が鋭くなり、その威光に男が後退りする。見間違いか、銀髪の背後に揺らめく白銀の靄のようなものが見える。
「ここに近付くな。危害を加えるつもりなら、ナマエにも近付くな」
視界が白んでくる。男は瞬きを繰り返し、目を擦った。しかし、白けた世界は晴れない。辺りを見渡すと、知らぬ間に霧が烟りはじめていた。冷気が体を覆ってくる。つい先程まで汗が滲むほどだったのに、今は寒気がするほどだ。男は急変した周囲の様子に不気味ささえ感じていた。草木がざわめいている。
「言っとくけど、俺は冗談は言わねえぞ」
銀髪の低い声が地を這って足元から迫り上がってくる。男の目に、銀髪の背に広がる白い獣が見える。しかし目を凝らしてみれば、それは豊かな体毛を蓄えた動物の尾だった。九本に分かれたそれが、毛を逆立たせ、小さく動いている。辺りにぽつりぽつりと青い炎が浮かび上がる。
九尾の狐——。男は戦き、足をずり下げた先で石にぶつかり尻餅をついた。言葉も出ない男を嘲笑うように鬼火が漂う。
——案外、どこかできみを見守っているのかもしれませんね
軽口で言ったことが、まさか本当だったとは露ほども思わなかった。男は尻を引き摺って退がっていく。しかし、木に背中が当たり、それ以上逃げることは阻まれてしまった。
九尾は動けずにいる男の元に屈み、顎に手を添えて静かに問いかける。
「わかった? とにかく、ナマエには手出しすんなよ」
「な……なんで、おまえのような大妖怪が、あんな女に」
瞬間、長い爪が男の頬を掠めた。温い感触が頬から口元まで伝っていく。
「口の利き方には気をつけろよ、人間風情が。あんな女? てめーらが散々虐げてきたんだろ。今更くれてやるとでも思ってんの?」
男の手が小刻みに震える。知らぬ間にマッチは地面に転がっていた。男は直面する恐怖を前に、それでも尚、人間を超越した存在に言い表せない興奮を覚えていた。まるで妖怪など信じていなかったのに、頬を流れる血は本物で、憎悪に包まれた瞳は確かに自分の姿を映していた。
乾いた唇を噛み締め、どうにか声を絞り出す。
「なぜだ……や、約束したせいか」
「約束? 約束なんざしてねえよ。契約をしたんだ」
契約。彼女の回想話でも九尾はそう言ったらしかった。しかし、彼女の中ではそれは約束と大きな差異はないように感じられた。
「約束ってのは、破ったって責められる謂れはない。ただの口約束だからな。だが契約は違う。契約を違えば、代償が伴う。たとえばナマエが俺を突き放すのなら……そうだな、目か、足とか腕とかもらうとするか」
「は……」
男は呆気に取られる。彼女はその意味を知っているのだろうか。いや、幼い頃に交わした契りだ。理解しているわけがない。それを九尾はさも当然のように快諾させた。彼女の孤独につけ込んだのだ。
口を開けて固まる男に、九尾がくつくつと笑い出す。
「いや、それは言い過ぎだな。ナマエには五体満足でいてほしいからな。そうじゃなきゃ一緒に飯も食いに行けねえし、頭も撫でてもらえねえし。わりと気に入ってんだ、今の生活」
「……」
「だから、それを壊す奴には容赦しねえよ」
九尾は大きな掌を男の目に翳す。視界が闇に覆われ、やがて数秒で男は意識を失った。男が目を閉じる前に最後に見たのは、九尾の冷徹な微笑みだった。
◇
銀時は大きな尾を揺らしながら歩き慣れた廊下を進む。まだ暗闇の中、同居人の女は穏やかに眠り続けていた。
寝相の悪い彼女は、寝ているとき必ずと言っていいほど布団を蹴飛ばす。今夜も布団を明後日のほうに追いやっている。はだけた寝巻きから素足と胸元を惜しげもなく晒していたが、銀時が布団をかけ直してやった。
布団の重みが気に入らなかったのか、彼女は言葉にならない寝言を吐く。しかし、ものの数秒で再び眠りについた。
銀時は傍らに腰掛け、枕からはみ出た髪を撫でた。耳を長い爪と指でくすぐると、うっすらと目が開く。
ぼんやりとした彼女の目が銀時を捉える。銀時はひとつの音も聞き逃さないよう、耳をぴんと立てた。しかし、彼女はぼうっと銀時を見つめるだけで何も言わない。
「ナマエ」
痺れを切らして名前を呼ぶ。指の腹で頬を撫でてやると、布団から出たばかりの温かい指が銀時の冷たい手を掴んだ。小さく開いた唇がゆっくりと動く。
「会いにきてくれたの……?」
尾が揺れる。白銀の毛が、月明かりで銀糸のように光る。
「ありがとう……」
彼女は呟き、ゆるゆると再び目を閉じた。耳をそばだてると、微かな寝息が聞こえる。もう夢の中に落ちてしまったらしい。呑気で無垢な姿に、銀時は深い溜め息を吐いた。
「おまえはなにで俺を認識してんだ……二十年やそこらでヒトの顔忘れやがったかと思ってたのに」
口調は恨みがましいが、悪い気はしていなかった。しばらく寝顔を見つめ、力の抜けた手を下ろしてやった。爪には血が付いていた。
◇
ガラスの器に盛られた寒天、白玉、さくらんぼ、みかん、キウイ、小豆。目にも涼やかで、とても美しいあんみつ。それを容赦なく掬い取り、銀時は口に運んでいく。至福のときを満喫するように一口一口噛みしめている。
「あれ、おまえ進んでねえじゃん。いらないんならもらうけど」
銀時のスプーンがわたしのあんみつ目掛けて来る。それを器を掴んで避ける。
「あのね、ひとのものを取らない」
「だって食ってねえし」
「最近知覚過敏なの。冷たいものがしみるの」
「ぬるくなったらうまくないだろ」
銀時はスプーンを舐め、自分のあんみつを再び食べ始める。わたしはやれやれと肩を竦め、抹茶の白玉を掬って食べた。咀嚼しながら店外の人並みを眺める。
暑さを叫んでいた蝉の声は、晩夏を告げる物悲しい声に変わっていた。猛暑には日傘を差している淑女もいたが、今は皆清々しい顔で歩いている。最中にいるときは早く終わればいいとうんざりするのに、なぜか過ぎ去ると途端に夏が恋しくなる。とても魅力的な女性のようだと思った。
銀時はあんみつを早々に食べ終え、わたしも遅れて完食した。馴染みの菓子屋はかつて伯母が働いていたお店で、社に供える饅頭はいつもここで買っている。
「ちょっと待ってて」
「おう」
銀時を席に置いてカウンターで饅頭を買った。包んでもらっている間、何となしに壁へ目を向けると探し人の張り紙がしてあった。帽子を被った、見知った男性の顔写真がある。
「ああ、あの人」
レジにいた女性がわたしの視線を追う。有名な作家さんなのよね、と女性は続けた。追求されるのも面倒だったので、知り合いだとは言わず適当に相槌を打った。
先生が消えたのは、二週間ほど前になる。しかし、頻繁に連絡をとっていたわけではないので、わたしが先生が消息を絶ったと聞いたのはつい数日前のことだった。
先生は昔から創作活動に行き詰まると、ふらりと一人旅に出てしまうことがあるそうだ。そういうときは大体数日で帰ってくるそうだが、今回は期間が長い。待てど暮らせど帰ってこないので、先生の担当編集者が捜索願いを出した。今のところ、発見に繋がる手がかりは何もない。先生の自宅からも失踪に関係がありそうなものは見つかっていない。わたしのところにも警察が来たが、有力な情報は結局無かったため手ぶらで帰っていった。
「まるで神隠しにでもあったみたいだって騒いでるのよ」
女性は冗談混じりに言って笑ってみせた。わたしも愛想笑いで答えた。妖怪がいると信じている身では、あまり笑えない冗談だった。もしも本当に神隠しなら、先生は二度と帰ってこれないだろう。先生がいなくなってしまい、わたしの妖怪絵巻は未完成のままになっている。
銀時は席でお茶を啜っていた。饅頭を机に置き、わたしもお茶を啜る。湯呑みを見ている伏せた眼差しに、白い睫毛がかかっている。
「ねえ、銀時」
「んー? なぁ、このお茶苦くね?」
「銀時は、黙っていなくならないでね」
紅色の瞳が上を向く。沈黙に気まずくなり、顔を逸らした。明確な関係も約束もないのに、何を思い上がっているのだろう。
「ごめん、なんでもない。お茶は甘味に合うように……」
「いるよ」
「え?」
「おまえこそ、離れんなよ」
湯呑みを置いた銀時が微笑する。饅頭食べたい、と手が伸びてきた手が、わたしの指を掠める。それは、少し冷たかった。
銀糸の枷
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*ゆきさん おまかせ
長編も短編も読んでいただきありがとうございます!好きと言っていただけるだけですごく嬉しいです……これからもマイペースにやっていきますのでよろしくお願いします!
契約の話でリクエストいただいて、いろいろ考えた結果妖怪パロにしようと思い九尾銀時になりました。とはいえ夢主は銀時さんを人間と思ってるわけですが……。設定を盛って調子に乗って書いてたら長くなってしまいました。すみません。でも人外好きなので書くのは楽しかったです。また機会があれば九尾書きたいです!
これからもお暇なときに遊びにきてください。リクエストありがとうございました!
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