緑に侵食された廃屋に、その人はいた。横顔があまりに物憂げだったものだから、声をかけずにはいられなかった。
「何してるんですか?」
銀さんは廃屋の壁に凭れて突っ立っていた。おう、と素っ気なく返される。わたしは建物を見上げた。
木造二階建て、苔生した壁。窓はひび割れ、内側からガムテープで補強してあった。磨りガラスの玄関戸口は開け放たれており、薄暗い廊下と居間に繋がる暖簾が見える。屋根の上では烏が鳴き、その声が曇天に反響していた。もうすぐ雨が降る。
「雨、来ますよ」
「仕事中なんだよ」
わたしも銀さんも傘を持っていなかった。今朝の天気予報で結野アナは、確かに夕方には雨が降ると言っていた。したって仕方ない賭けに出ることは、誰しもあるはずだ。わたしも坂田さんも、二択を間違えたようだ。
「仕事って、新八くんたちは?」
「俺ひとり」
「……頬はどうしたんですか?」
銀さんの左の頬に白い絆創膏が貼ってあった。自分の頬を指差して訊ねると、銀さんは「ああ」と絆創膏を掻いて「大したことじゃない」と言った。
雨粒が地面に落ち、間も無くして怒涛の勢いで雨が降り始めた。銀さんの隣に避難し、屋根の下から雨を眺める。しかし、横殴りの雨は足元にまで迫ってくる。
「ひでえなこりゃ」
「中に入りましょう」
二人で屋内に入った。わたしが上がり框の前で草履を脱ごうともたもたしているうちに、銀さんはブーツのまま進んでいった。
「銀さん、靴」と慌てて引き止めるが、面倒そうに振り返られた。
「そんなんいーって。誰もいねえんだから」
「えぇ……」
板張りの廊下に足跡が水滴を残していく。いくら誰もいないとは言え、土足で家に上がるのは気が引けた。しかし、廊下の端端には虫の死骸が落ちているし、木屑やガラス片もある。気は引けるが——少々悩んだ末、躊躇いながら草履のまま上がる。おじゃまします、と心の中で呟いた。
暖簾を潜ると、狭い和室があった。埃を被った茶箪笥、ブラウン管テレビ、ちゃぶ台。壁の時計は十時を少し過ぎた辺りで止まっている。テレビ台には色褪せた写真立てがあった。家族写真だろう、二人の男女と幼い子どもが三人。写真は茶色く変色しているが、笑顔であることはわかる。
「雨漏りはしてねえな」
見知らぬ一家の郷愁に想いを馳せるわたしとは反対に、銀さんは雨を凌ぐ方法だけを考えていた。押し入れの襖を開けると、中から仏壇が現れた。こじんまりとしているが、劣化はそれほど見受けられない。
「じいさん、ちょっと雨宿りさせてもらうぜ」
白黒の遺影に、銀さんは一言断りを入れた。厳めしい顔の老夫がそこにはいた。これが遺影に使う写真だろうか、と疑問には思ったが、小さく頭を下げた。
和室からは裏庭が見えた。庭と言っても、雑草が生い茂り、剪定されていない木々が鬱蒼と枝葉を伸ばしているので、小さな山といっても過言ではない。雨が叩く窓の向こう、草木が滲んで見える。
一口に江戸と言っても広い。奥まった地域は未だ昔ながらの自然と古い家屋を残している。天人もあまり見かけない。しかし、都心部は開発が進み、目まぐるしく様相を変える。言わずもがな天人もたくさん歩いている。
わたしがならず者の集まるかぶき町に居を移したのは、数年前になる。雪の降る日、引っ越したばかりの長屋の戸口が外れ、寒さに凍えながら戸を嵌めようと四苦八苦していた。そこへ、赤ら顔の銀髪の男が通りがかった。何してんの、と訊かれ、事情を話すと、その人は酒気を撒き散らしながら歩み寄ってきた。足取りは覚束なかったものの、あっさりと戸を嵌めてくれた。そして、じゃあね、鍵は閉めろよ、と手を振りながら去っていった。わたしは、ふらつく背中をただ見送った。
「雨止んだら起こしてくんない。あと烏が降りてきたら頼むわ」
銀さんは煤けた畳の上で横になろうとしていた。大口を開けて欠伸をしている。
「寝不足なんですか?」
「んー、まあな」
「夢見でも悪い?」
「夢見は……」
銀さんは少し考え、普通だと答えた。夢を見ないとは言わない。
「何? 一緒に寝てくれんの?」
銀さんは茶化しながらカビの生えた畳を払い、やはり横になるのは諦めたようだった。壁に背を預けて片膝を立てる。
口角を緩く上げていた銀さんは、わたしの「いいですよ」という言葉に、驚いたように目を見開いた。その表情にしまったと思ったが、今更隠す必要もない。
「わたしでいいなら」
銀さんは、ゆるゆると目の力を抜いていった。呆れたように苦笑する。
「親切なのはおまえの美点だと思うけどね。中途半端な優しさは相手を傷付けることもあるんだよ。ていうか、冗談だっつーの。俺ァ知り合いと面倒になるのは御免なんだよ」
「じゃあ、今が初対面ってことにしませんか。胸なら貸します」
「しませんかじゃねーよ。しませんよ。胸も借りねーよ。女が自分を安売りするんじゃねえよ」
安売りではない。銀さんならと思うから言っているのに。
「わたしは、銀さんが元気でいてくれたらいいなって思うだけで」
「え、俺ってそんなに不健康に見える?」
二度目に会ったとき、名前を知った。彼はわたしのことなど憶えてなかったが、以来、街中で会うと他愛のない世間話をするようになった。欲望と本能だけで生きているように見せかけて、その実、見えない糸でがんじがらめになっていると知ったのは、いつだったか。彼は誰かを掬い取ろうとするために自らを犠牲にするのに、誰かが自分のために悶え苦しむことを良しとしないのだ。天秤にかけることもせず、自分を放ってしまう。自己犠牲という意識もないから厄介だ。
銀さんは眉を顰めている。つまり、わたしが言いたいのは、もっと自分を大事にしてほしいということだ。けれど、それをうまく言葉にできないし、説き伏せることもできない。だからせめてそばにいたい。叶うなら、隣にいることを許してほしい。
窓の隙間から吹き込む隙間風は湿っている。雨音は静まり、烏が嗄れた声で短く鳴いた。それが何度か続く。
「不健康な生活はもちろんやめたほうがいいと思いますけど、でも、銀さんにはなるべく傷ついてほしくなくて」
わたしの言葉を黙殺し、銀さんは天井を見上げて腰を上げた。銀さんが歩くたびに畳が撓む。板張りの廊下を進む硬い足音に、ぽかんとした。何か気に障ることを言っただろうか。
少しの間、その場から動けなかった。毛羽立つい草が掌を掠め、腰を上げて家を出た。銀さんは玄関前で空を見上げていた。重い雲が流れ、隙間から青空が見える。濡れた土の匂いがする。
「銀さん?」
烏の羽ばたきが聞こえる。続ける言葉に迷っていると、銀さんが振り返る。
「胸は貸さなくていいけど、手貸せ」
「えっ、手……」
「そういう意味じゃねーわ! おまえそればっかりか!」
怒鳴ったあとに、険しい顔で銀さんが着流しの袂を探る。よくよく見れば、袂や裾が茶色く汚れている。白地に鮮やかな流水紋に、その汚れは目立つ。
「そろそろメシの時間なんだけど、利口なのかビビりなのかちっとも出てきやしねえ」
出てきたのは猫缶だった。猫の写真と、まぐろの絵が描かれている。銀さんは家の横手に回り込み、軒下を覗き込んだ。目配せをされ、倣って軒下を覗く。程近い場所に、子猫が身を隠すように蹲っていた。キジトラの子猫は、怯えた眼差しでこちらを見ている。
「引っ張り出そうにも、俺の腕じゃ入らねえんだよ」
確かに軒下の隙間に銀さんの筋肉に覆われた腕は入りそうにない。わたしは猫と銀さんを見比べた。
「……その頬、もしかしてあの子に?」
「悪いようにはしねえってのに」
がに股になって腰を落とし、銀さんは缶の蓋を開けた。人間が嗅いでもいい匂いがする。しかし、子猫は相変わらず怯えて出てこない。きょろきょろと視線を回しているだけだ。
わたしは地面に膝を落とし、腕捲りをした。狭い軒下に手を差し込む。ふにゃりと柔らかい感触を確かめ、そっと腕を引いていく。片手に悠に乗った子猫の体には、草や土がたくさんついていた。胸に抱いて、それらを取っていく。子猫はか細い声でニャアニャア鳴いている。
「俺が抱いたときには暴れまくったくせに……」
不満げに唇を尖らせる銀さんに苦笑いする。
「怖かったんじゃないですか?」
「はぁ? こんなに優しい男どこにもいねえよ。俺ァあれ、マザー・テレサの生まれ変わりと呼ばれたこともあったようななかったような」
「あれですか、赤い帽子の配管工の」
「ありゃオバケだろーが」
地面に降ろすと、子猫はよたよたと猫缶に向かった。足が悪いのだろうか。重心が片側に寄っている。しかし食欲は旺盛で、無心に腹を満たしはじめる。
「名前はあるんですか?」
「あ? ミケとかって言ってたな」
「三毛じゃないのに?」
「ガキの考えることだからな」
首を傾げていると、どこかから高い声が聞こえてきた。声の主は駆け足でこちらに向かってくる少年だった。
「おじさーん! お母さん、飼っていいって!」
「おじさんじゃねえって何回言わせんだ、耳クソ溜まってんじゃねーの」
少年は銀さんの言葉になど耳を貸さず、まっすぐに子猫の元へ駆けてきた。こめかみから汗が一筋伝っていく。子猫の元にしゃがみ込み、ミケちゃん、うちに来れるよ。足も診てもらおうね。と少年は繰り返した。きょとんとするわたしに、少年は「カラスにいじめられてたんだ」と空を仰いだ。
ようやく得心がいった。仕事って、これだったのか。わたしは飛び立っていく烏を見上げた。まさか夜中見張っていたのだろうか。
猫缶を食べ終えた子猫を抱いて、少年は「おじさん、ありがとう」と飴玉を銀さんへ渡した。銀さんは「サンキュ」とそれを受け取り、やさしい笑みを浮かべた。子猫は小さな声で鳴いた。ありがとう、と言ったように聞こえたと言えば、あまりにロマンチスト過ぎて絶対に笑われるので黙っておいた。
帰路に着く少年と、新しい家に帰る子猫を見送る。銀さんは腕を上げて伸びをして、包み紙を剥がして飴玉を口に放った。横顔は満足げに見えた。
「おまえも食え」
飴玉を差し出されるが、わたしの手は土で汚れていた。銀さんは「ああそうか」と独り言のように呟き、包み紙を剥がしていく。
「口開けろ」
「えっ」
大口を開けたわけでもないのに、無理やり口に飴を押し込められた。そのとき、唇に一瞬指が当たった。舌の上に転がったそれは、懐かしい甘い味がした。
「さぁて、帰るかァ。晩メシ何にすっかなぁ。あ、おまえも食ってく?」
頭に後ろ手を回し、銀さんが歩き出す。わたしは戸惑いで口元を隠しながら、その背を追う。口内で飴玉を転がしていると、どんどん甘みが増していく。
「食材を集る気ですよね?」
「察しがいいな。いやいや今月マジでピンチでさぁ、ドッグフード生活に戻りそうなんだよねぇ」
ピンチというなら、お金になる仕事をすればいいのに——ああ、でも、こういう人だから、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。放っておけなくて、どうか幸せでいてほしいと願ってしまうのだ。
けれど、わたしが思っている以上に、彼は今の暮らしで満たされているのだろう。わたしが悲観するほど、彼は自分の人生を嘆いてはいない。それ以上を求めることはないけれど、今あるものを損なうことだけはないように、そのためにその身を削るのだ。
「何が食べたいんですか?」
「あーそうだな、肉がいいな」
「生姜焼きくらいなら作れますよ」
「やった、マジでか」
無邪気に笑う銀さんを横目に、そっと飴玉を口の端に追いやる。飴はすぐに噛んで飲み込んでしまう派のわたしだが、どうにもこの甘さは癖になる。いつまでも口の中で味わっていたいような、飲み込むのは惜しい気がした。
こんな些細な幸せを、いつまでも積み重ねていけたらいい。
かけらでも、集めて積み重ねれば、きっと描けるものはあるはずだから。
やさしいひと
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*匿名さん 坂田銀時
リクエストありがとうございます!
銀さんは自分の人生を悲観してないし、何なら今の暮らしを相当気に入ってるんだろうなあというお話でした。新八神楽を連れずに一人で依頼に行く銀さんも動物にも子どもにも優しい銀さんも好きなので趣味丸出しで書かせていただきました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。お体にはお気をつけてお過ごしください!
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