目が合うなり、きょとんとされた。黒い髪に黒い服に身を包んだその人は数秒固まり、店の看板を確かめるように見上げた。そして横の自販機を見て、わたしへ視線を戻す。
「あの、孫です」
カウンターから身を乗り出し、既の所でガラスに気付いて身を引く。暇に任せて、手垢一つ残さずガラスを拭いたばかりだった。落ち着かないわたしの挙動に何も言わないその人に「おばあちゃん、入院してて」と付け足す。自己紹介と事の成り行きを簡潔に説明し終えると、眼光鋭いその人は孫、と繰り返した。しかし数秒後、前髪の奥で眉を顰める。
「あ? 入院?」
「神棚の掃除中に脚立から落ちて、腰を痛めて。大江戸病院に」
ぽかんとして、少し間を置いて「そうか」とこぼされる。間が空くのが居た堪れず、どれでしょう、とカウンターの下のガラスケースを指す。彼はガラスケースの端を指差し、マヨボロ、と言った。ケースの中から言われた通りのものを出して代金を受け取る。指が長い。目つきは良くないが、鼻筋は通っていて唇の形も良い。惚れ惚れするほど男前だ。
煙草を持ち、その人は踵を返す。が、踏み止まり、振り返る。
「婆さんに養生するよう伝えといてくれ」
「……ありがとうございます」
寂しい商店街を颯爽と行く背中を見送る。疎らに歩く人々の視線を意に介さない姿は、凛としていた。
◇
少し先に大型商業施設ができてから、商店街は一気に廃れてしまった。人を流すように交通網も整備され、誰もがバス一本で何でも揃えることができるようになった。今や商店街に来るのは店の顔馴染みや年配の人ばかり。全盛期には競って軒を連ねていた専門店も、ほとんどがシャッターを下ろしたままになっている。わたしが店番をするようになって二週間、ぴくりとも動かない店がいくつもある。
おばあちゃんは、長年この商店街で煙草屋を営んでいる。寂れていく街を小窓から眺めながら煙草を吹かし、時々来る客を軽口と軽快な嫌味でもてなすのだ。幼い頃には、まとまった休みがあるとわたしもよく来ていた。決して愛想が良いとは言えないおばあちゃんだが、孫のわたしにはいろいろな話をしてくれたものだ。
「マヨボロをくれ」
「わっ」
急に顔を出されて驚いてしまった。土方さんは「何びびってんだ」と片眉を上げ、マヨボロ、ともう一度言った。慌ててケースから取り出す。土方さんは黒い財布から札を出している。
「ペース、早くないですか?」
「これがねえと落ち着かねえんだよ」
土方さんは買った煙草のフィルターを早速剥がし、一本咥える。動作には淀みがない。
昨今、コンビニで気軽に買える煙草を煙草屋でわざわざ買う人は少ない。それに、人体への影響を慮る故に、世間では禁煙が推奨されている。それでも煙草は古くからの嗜好品であるし、一定の愛好家はいる。
土方さんもまた、その一人だった。しかもかなりのヘビースモーカー。煙草を売っている身で喫煙者の体を心配するのはお門違いだと思うが、肺の病気にかかるのではないかと密かに心配している。本音を言えば、煙草なんて何が美味しいのかさっぱりわからないが——店先でライターに火を灯し、煙草を指で挟み煙を吐き出す土方さんの姿は、なんとも様になっている。
紫煙がまっすぐ空に立ち昇り、消えていく。ガラス越し、斜め後ろから見る黒い制服。きっとモテるんだろうなとぼんやり思った。
「婆さんは元気か」
土方さんはおばあちゃんの煙草屋の常連で、煙草を買うと一服しながら世間話をするのが常だった。店番がわたしになっても、その習慣は続けることにしたらしい。
「元気ですよ。体は動かなくても口は動きますから。病院のご飯が味気ないって文句言って、挙げ句の果てに塩とかソースとか持ち込んで、看護師さんに没収されたそうです」
軽く肩を竦める。おばあちゃんは愚痴っていたが、愚痴りたいのは看護師さんのほうだろう。元気のいい年寄り、しかも口が減らない。質が悪い。菓子折りを差し入れしなければいけないだろうかと本気で思っている。
「年に似合わず味の濃いもんが好きなんだな。高血圧になるぞ」
「なってます。太く短く生きるって口癖で、好きなものは死ぬまでやめないって豪語してます」
「そういうところは気が合うな」
土方さんは目線を正面に向けたまま、口角だけを上げた。そして煙草を咥え、一息吸う。ゆっくりと煙を吐き出し、改めて口を開く。
「たしか八十近いんじゃなかったか」
「よく知ってますね」
「あの婆さん、口は悪いが話好きだったからな」
——あんな強面のくせ、意外にしゃべるんだよ、あの男。
すごい男前が店に来たとおばあちゃんに話すと、土方さんだと教えてくれた。お互いに似たような印象を抱いていることがおかしく、声に出さずに笑う。しかし、ばれてしまった。怪訝な顔をされる。
「なに笑ってんだ」
「いえ、なんでもありません」
目はすぐに逸らされ、土方さんは壁から背を起こした。じゃあな、といつもの去り際の挨拶。
「またどうぞ」
「ああ」
黒い背を見送ると、街はがらんどうに戻る。今日はいつにも増してひっそりしている。何もないのにやけに人が多い日もあれば、人っ子ひとりいない日もある。人は皆、考えることはだいたい同じだ。天気がいいから外に出ようとか、雨が降ってるから家にいようとか、そんな単純な思考の繰り返し。
変わらない景色に飽きて、カウンターの下に置いていた朝刊を出す。クロスワードは暇人には打ってつけだ。
黙々と正方形の空欄を埋め続け、大した時間もかからずに終える。鉛筆を置いて、ずっと俯いていたせいで凝り固まった首を回す。小窓から見えるものは相変わらず。
日を追うごとに活気を失っていく街を、おばあちゃんはちっとも嘆いていない。長年同じ場所で、同じ時間、煙草を吸いながら街を見続けているが、愛着なんてないのだと言う。ただ、ここにいるのが当たり前になっただけだと温度もなく言っていた。しかし、病院の窓に映ったその表情はどこか物憂げだった。励まそうと言葉を選んではみたが、結局はそのあとのリハビリが億劫なだけだった。
「年寄りを勝手に感傷に浸らせるんじゃないよ。これでも毎日気楽にやってんだ」
ジジイもとっくに死んだしね、と銀歯を見せるおばあちゃんの顔ときたら、悪魔かと言いたくなった。いや、本当に悪魔なら、ドロップアウトした孫に居場所を与えてはくれないのだけど。
朝刊を閉じる。夕暮れが眩しくなってきたので、店を閉めた。明日は部屋の壁掃除でもしよう。おばあちゃんがどこでも煙草を吸うので、ヤニだらけだ。
◇
特に意味はないが、仕事中はエプロンをしている。昔おばあちゃんが使っていたもので、ちょうど膝丈くらいの長さのもの。今は腰が曲がっているので小柄に見えるが、若かりし頃のおばあちゃんはわたしと背丈が同じくらいだったようだ。
そうしてると、昔の婆さんそっくりだね、と微笑んだのは、常連の歯抜けのおじいさんだった。気っ風のいい女でね、やくざもんでも放っておけない人だったよ。死んだ旦那はその筋の人だったよ。あれ、知らなかった?
とんでもない事実を見ず知らずのおじいさんに告げられ、ぽかんとしてしまった。間抜けにも、ああそうなんですか、としか返せなかった。おじいちゃんは写真の中でしか知らない。両親は公務員なので、堅気なはず。だから、やらかして仕事を辞めて逃げた娘にもあんなにきびしいのだ。
「マヨボロ」
明後日の方向に考えを巡らせていたので、また土方さんの存在に気付かなかった。仕事中にぼさっとするな、と注意され、すみませんと謝る。この人は上司みたいな振る舞いをする。それが少し懐かしく、もっと聞きたいような聞きたくないような、どっちつかずのところで心が揺れる。
「あれ、右手……」
お金を出した土方さんの右手に包帯が巻いてあった。
「仕事でな」
煙草を取り、いつものようにフィルターを剥がす。しかし、指の動きもぎこちない。大丈夫ですか? と問うと、慣れてると返された。
土方さんは真選組の副長で——面と向かってそういう話をしたことはないが——、はじめのうちは目の前にいるお客さんが、たまにテレビに映るその人と同一人物だと認識ができなかった。画面の中の土方さんが、険しい表情ばかりしているせいかもしれない。わたしの前にいる土方さんは、仏頂面が多いものの、特別無愛想という感じもなかった。話せば返ってくるし、自ら声をかけてくれることも多い。鬼の副長と言えど、普通の人間なのだ。
それでも、痛々しい包帯を慣れてるの一言で返されると、別の世界線にいる人なのだと実感する。わたしなんかおばあちゃんが入院したと聞いただけで冷や汗が止まらなくて、汚いサンダルで病院に駆けつけた。談話室で花札に興じる姿を見たときは深い溜め息をついたものだ。
土方さんが煙草を咥える。懐のライターを探るが、どうやら忘れたようだ。
「すまねえ、一個もらえるか」
「はい、どうぞ」
安いライターを棚から出す。財布を持つので、慌てて「お金はいいです」と断った。
「商売になんねえだろうが」
「ライターはもらってないって言ってたので」
「婆さんが?」
こくこくと頷く。疑り深い眼差しを向けられるが、本当だと念押しした。実際、本当の話だ。
土方さんはしばらく思案し、財布を尻ポケットにしまい込んだ。
「……じゃあ、ここで火をつけるだけでいい。持ち帰らねえから、それはここに置いとけ。次に来たとき、またそのライターを使う」
わたしがここにいつまでいるかはわからない。けれど当たり前のように取り付けてくれた約束が、わたしがここにいることを当然にしてくれた。それがなんだか嬉しくて、くすぐったい。勝手に綻ぶ顔で、わかりましたと言った。
ライターに向かって伸びてきた手を遮る。不思議そうにする土方さんに、「指がうまく動かせないでしょう」と店を出た。ガラス越しではない、真正面に立って見上げた土方さんは思いのほか背が高い。切れ長の目は鋭いように見えて、きれいな二重をしている。嫌味なくらい整った顔立ちだ。
「火、付けれんのか」
「できますよ」
とは言ったものの、ライターを使ったことはない。見様見真似でヤスリに親指を当てて下に向けて回転させる。音はするが、火は出ない。数回繰り返すが、やはり火は出ない。首を捻っていると、痺れを切らした土方さんの掌が覆うようにわたしの手に重なってきた。
「貸せ」
わたしのものより一回り太い指が、ヤスリを擦る。すると、一発で火が灯った。空気中に解き放たれた小さな火が揺蕩う。そんなものより、重なった手が熱い。いろいろなことに目を丸くしていると、土方さんが身を屈めて煙草に火を付ける。眼前に黒い髪と、伏せた豊かなまつ毛がある。
二秒ほどで、土方さんは姿勢を戻して手も離した。待望の煙をじっくり味わっている。わたしは揺蕩う火を見つめていた。
「蓋閉めろ」
「へ、あ、はい」
ぱちんと軽い音ともにライターの蓋を閉める。
今のは、なんだったんだろう。
「おまえ、誰にでもそういうことするのか」
頭上からの声に、顔を上げる。土方さんは煙草を吸いながらわたしを一瞥した。
何を訊かれたのか、どんな意味があるのか考え込み、ずいぶん間を空けてようやく口を開いた。
「しまません」
「どこで噛んでんだ」
「し、ま、せん」
「そうか」
ならいい、と土方さんは呟く。ならいい? ならいいって、どういうことだろう。混乱する頭を整理する暇もなく、土方さんはじゃあな、といつものように帰っていった。
お店の中に戻り、しばらくぼんやりとしていた。カウンターの下には朝刊が置かれているが、開く気にはならない。土方さんの手の熱さや、指の感触が消えていかない。
手に持ったままだったライターを見遣る。親指でヤスリを擦るが、掠れた音が出るだけだった。もう一度、二度——。
不意に電子音が鳴り響く。部屋の中に携帯を置きっぱなしにしていた。呼びつけるようなそれに急かされて携帯を見ると、血の気が引いた。
◇
土方さんはわざと気配を消しているのではないだろうか。足音の一つもさせずに現れるのだから、きっと確信犯に違いない。
「今更気付いたのか」
指摘すると、あっけらかんと言われた。開いた口が塞がらない。
「毎回律儀に驚いてくれるもんだから、面白くてな」
土方さんはくつくつと喉の奥で笑った。茫然としていたわたしは「性格が悪い」と呟く。
「それも今更だな。世間では鬼呼ばわりされてんだぞ」
土方さんに悪怯れる様子はない。あまりに堂々とされるので反論できず、言葉を飲み込んだ。
マヨボロ、と土方さんが言う。伸びた右手に包帯は既にない。ちらりと見ただけでは傷痕があるのかも確認できず、見送る。土方さんはフィルターを剥がし、一本咥える。ライターを差し出すと土方さんはそれを受け取り、自分で火を付けた。
街はいつもと何ら変わる様子はなく、今日も閑散としている。閑古鳥さえ去ったようだ。
たまに、この街と共に朽ちていくのも悪くないのではないかと考える。おそらく、おばあちゃんはその気なのだ。この店を譲ってほしいと言ったら、どんな顔をするだろう。土方さんは、変わらず来てくれるだろうか。わたしはおばあちゃんのように気の利いた話をすることはできない。あと数年待ってもらえれば、多少はマシになるはずだけど。
紛うことない逃避行を脳内で企てていると、現実に引き戻される。カウンターの下に突っ込んでいた携帯電話が震え出した。着信音は鳴らないようになっているが、バイブレーションだけするようにしてあった。
「鳴ってるぞ」
木製のカウンターは思っていたよりも振動音が強い。電話に出ようとしないわたしに、土方さんは怪訝な顔を向けた。「いや、はい」と妙な返事をしたのが間違いだった。土方さんが眉間に皺を作る。
電話は事切れたように振動をやめた。ほっと安堵したのも束の間、土方さんが体を正面に向けてこちらを睨んでいた。
「おまえ、なんか面倒なことに首突っ込んでるんじゃねえだろうな」
「え」
「俺ァ警察だ。何かあるなら言え。言えねえようなことか」
言えないようなことでは——ある。幻滅されるようなことを、この人には言いたくない。
刃の切っ先のような瞳がわたしを捉える。尋問される犯罪者の気持ちが少しわかる。逃げ道などない。わたしが駆け込むところなどどこにもない。目が無様に泳ぐ。
無言の圧力が長く続き、どうにか声を絞り出す。
「前の職場の上司です」
土方さんは咥えていた煙草を指に挟み、手を下ろした。で? と催促される。わたしは視線を彷徨わせ、ガラスの隅を見ながら頼りない声音で続ける。
「付き合ってたんですけど、その人、婚約者がいて……」
顔が見られない。口にすると、まざまざとあの人との日々が思い出される。愛されていると信じていた、幸福を感じていた。それが音もなく壊れ、崩れていくとき。
「婚約は破棄するって、きみが好きだって、別れるって言いながら、全然そんな気配なくて……。挙げ句の果てに会社で吊るし上げにされて、その人もわたしも仕事を辞めざるを得なくなって……当たり前ですよね、知らなかったじゃ済まされない……それに、知ってからも、やめなかったわたしが悪いし……」
「今の電話は」
低い声が空気を裂くように割り入る。知らぬ間に滲んでいた苦笑いが消える。
「えっと、その人……。婚約者との結婚が破談になって、もう一度やり直したいって、この前電話があって」
懇願するように言われた。もうきみしかいない、信じてほしい、きみのことを愛してる——。わたしが信じると思っているなら、あの人は相当のバカだ。あんなに格好良くて素敵だったはずなのに、どうしようもない男としか思えなくなっている。でも、そんな言葉に心が揺れるわたしも相当のバカだった。辛うじてそれはできないと電話を切ったが、すぐさま後悔に襲われた。あの人は本当に寂しいのではないだろうか。話くらいなら、聞いてもよかったのではないか。その先にあるものをわかっているのに、引き返すことができない。
煙草の匂いが一層強くなった。土方さんが紫煙を吐き出している。ごくありふれた、つまらない不倫の話だ。そんな態度になるのも仕方がない。しかし、まさか自分が当事者になるだなんて想像さえしていなかった。
土方さんが僅かに口を開く。そのとき、再び振動音が始まった。立て続けに電話がかかってきたことは今まで一度もない。何かあったのではないか。不安が過り、携帯電話をカウンターの下から出す。
「出るな」
動きが止まる。手の中で携帯が縋るように震えている。
「寄越せ」
土方さんが掌を差し伸べる。でも、と躊躇うわたしを土方さんが眼光を鋭くして睨む。
「言っておくが、そういうヤローは何度でも同じことを繰り返すぞ」
あまりに率直すぎる言葉が槍のように突き刺さる。職場で親しかった同僚はわたしを遠巻きにしたり、上辺だけで慰めたりもした。両親は、娘の失態を恥じて核心には触れずにわたしを追い払った。
唯一、おばあちゃんだけがバカだねぇとケタケタ笑った。わたしにとっては笑い事ではない。とても落ち込んだし、自分が惨めでどうしようもなかったのに。アンタはアタシに似て男運がない、と頭を撫でた手は、とても優しかった。ほろほろと涙がこぼれ、病室で気の済むまで泣いた。
ガラスの下部、空いた場所から土方さんの手が入る。腕をぐいと強く引かれ、携帯は奪われた。携帯は未だにわたしを呼んでいる。
「あ、土方さんっ」
「うるせぇな。第一、前の男の連絡先なんぞ残しとくんじゃねえ」
「け、消せないですよ」
「おまえモテねえだろ」
「余計なお世話……」
土方さんが通話ボタンを押す。あっと声を上げそうになって、なぜか聞かれたらまずと思い唇を閉じる。土方さんはわたしを一瞥し、電話を耳に当てる。
「もしもし」
煙が風に流れ、線を描いた。わたしは無意識に固唾を飲む。
「未練タラタラなとこ悪いが、この女はもうテメェなんぞと会う気はねえし会わせるつもりもねえ。今度電話なりツラ見せるなりしたら、そのときは相応の…………あ?」
土方さんが険しい表情を作る。おそらく一方的に彼が話しているのだろう。電話越しの一触即発の空気に、こちらがはらはらしてしまう。
土方さんは暫し黙り込み、そして——。
「土方十四郎だ。奪う気があるなら俺のところに来い」
そう告げ、電話を切った。ボタンを押す様は苛立たしげだった。
返された電話を見る。電話帳からは、あの人の名前がきれいに消えていた。独善的な行いに言葉を失うわたしを土方さんが「これで晴れて自由だな」と嘲笑った。
しばらく愕然としていたが、おずおずと訊ねる。先程の発言が気になっていた。名前を名乗ったことだ。
「あの……実名告白していいんですか……」
「俺は何も後ろめたいことなんざねえ」
あっさりと言われる。わたしが言いたいのはそういうことではない。
「面倒なことになったりしませんか? 土方さん、有名人なのに。迷惑じゃないですか?」
「何度も言わせんな。後ろめたいことは何もないし迷惑でもない。それに、いろいろ都合も良くなった」
「……都合?」
「俺がいいってんだからいいんだよ」
「…………腑に落ちないんですけど」
「なんでもかんでも飲み下そうとするな。そんなもん知るかで済ませておきゃいいことだってあるんだよ」
わたしの心配を他所に、土方さんは煙草を美味しそうに吸っている。
何が都合が良いんだろう。仮に彼が逆恨みで土方さんの元へ本当に行ったとしたら、どうするのだろう。あれこれと危惧するが、余裕綽々な姿を見ていると、そんなものは不要なのだろうかと思ってしまった。
◇
「結果オーライじゃないか」
部分入れ歯を消毒液に浸しながら、おばあちゃんは口をもごもごと動かした。わたしは「えぇ……」と肩を落とした。
お見舞いに持ってきたカステラを平らげ、おばあちゃんが一息ついたあと、先日の土方さんの暴挙を話した。結果、あの人から今まで連絡はなく、土方さんの元にも現れてはいないらしい。真選組副長に女のために喧嘩を売りに行くほど、彼も血迷ってはいなかったようだ。それは僥倖だが、問題なのは土方さんに恋人ができたらしいと一部で噂されていることだった。
「いいじゃないか、あんな男前。多少の気性の荒さだの、強引さは愛嬌だよ。優良物件だよぉ」
露骨な品定めに「やめてよ、その言い方」と顔を顰める。幸い、周囲のベッドに人はいなかった。電気ポットで粉末のお茶を溶かし、おばあちゃんに渡す。
「いい人だとは思うけど、申し訳なくて」
「何がだい」
「わたしみたいのと噂になってるのが……」
口内を洗ったお茶を飲み込み、おばあちゃんは息を吐く。煙草持ってないのかと訊かれるので、あるわけないでしょと答える。入院生活の一番の弊害は禁煙を余儀なくされることらしかった。味の薄い食事にはもう慣れたようだ。
お茶をもう一口飲み、おばあちゃんはベッドの上で座り直す。そして噛み締めるように、土方さんの言葉を繰り返す。
「晴れて自由、ね」
「ん?」
「心置きなくってことかねぇ。まあ、優良物件な事に違いないが、色恋には不得手のようだね」
「何の話?」
「アンタ、やっぱりアタシの孫だよ。男運がない」
「……認知症かな」
「アタシャボケてないよ。それより、あの男、頻繁に来るのかい」
土方さんが来るのは、週に一回くらいだろうか。たまに見廻りの途中だと言って、ふらりと現れることもある。あんなに人気のない場所でも一応は見廻りに来なくてはいけないのだから、大変だろう。
おばあちゃんはわたしの話を聞き、「へえ」とにやにやしていた。
「アタシがいるときはまとめて買い込んで、あまり顔を出さなかったもんだけど」
「へー……そうなんだ」
わたしの明るいとも暗いとも取れない受け答えが面白くなかったのか、おばあちゃんはわかりやすく脱力した。そういうところはアタシに似てない、とがっかりされる。
「まあいいや。あんまり店を空けるんじゃないよ」
「はいはい」
また来るよと言い置いて病院を出た。バスに乗って帰路に着く。
今日も今日とて商店街は心寂しい。夕暮れに染まる街の上空を鳥の群れが飛んでいく。
すれ違う人に、「おかえり」と声をかけられ、「ただいま」と返す。その応酬に、幼い頃を思い出す。
近頃思うのは、このうらぶれた街にも息づく人はいて、人がいる限り、街が絶えることはないということ。きっと世界が明日終わることになっても、ここでおばあちゃんは煙草を吹かしている。その居住まいも、きっといつか、誰かの思い出になる。街や道に残る、何気ない思い出と共に。
「ずいぶん遅いお帰りだな」
長い影が視界に映る。店の前に、土方さんが立っていた。火のついていない煙草を噛み、時間を潰していたらしい。
「もう店仕舞いの時間ですよ」
「終日閉めてた奴が何言ってやがる」
土方さん専用の使いかけライターの中身は、半分ほど減っている。全部使い切る前には、おばあちゃんが退院してくるだろう。けれど、すぐには体は思うようには動かないから、しばらくわたしも一緒に住むことになった。その先のことはまだ何も決まっていない。
「考えたんだが」
店の中に入り、マヨボロを出す。一緒に掴んだライターが手から落ちて床を滑った。しゃがんでそれを拾っていると、想定外の言葉が降ってくる。
「おまえ、うちに来るか」
「はい?」
ライターを拾い、立ち上がろうとした拍子にカウンターに頭をぶつけた。鈍い音と痛みが走るが、それよりも。
ぽかんとするわたしに、土方さんがやや早口で言葉を重ねていく。
「勘違いすんな、うちって言っても屯所だ、屯所。女中の手が足りねえから募集してるんだが、なかなか人が来ねえ。おまえきれい好きっぽいし、もし、良ければだが……」
意味を理解し、徐々に痛み出す後頭部を撫でる。土方さんはマヨボロを既に持っていて、ライターを差し出すが視線を明後日の方向に向けていて気が付かない。仕方なしにライターを持って店を出る。夕暮れの光を受ける黒い隊服は艶やかに見える。
「土方さん、それだと本当にわたしが土方さんの恋人だって言われますよ」
「言っただろうが。迷惑じゃねえって」
「…………ん?」
眉根を寄せる。土方さんの厚い耳が、夕日で染まっている。
「火、つけれるようになったか」
「え、はい」
ヤスリを擦ると、火花が散る。浮かぶように灯った炎が、ゆらりと揺れる。炎は身を屈めた土方さんの煙草の先をじりじりと焦がしていく。それは、夕日よりも鮮烈に輝いていた。
灯火
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*檜さん 土方十四郎
企画にご参加いただきありがとうございます。土方さんで恋に落ちた瞬間でした。目に見えるような落ち方ではなくなってしまった上に、背景を考え過ぎてまとまらず長くなってしまいました。私が書くと土方さんは易々と接触してくれないので、こんな感じでいいのかな?と不安に思いつつ書きましたが……。根気良く読んでいただければ嬉しいです。楽しんでいただけますように!
すっかり秋めいてきて肌寒い日も増えてきますので、体調にはお気をつけてお過ごしください。これからもどうぞよろしくお願いします。リクエストありがとうございました!
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