この晴れた良き日に、なんてことを考えてるんだろうと自虐した。
澄んだ青空の下、鐘の音が響いている。夢のような白い門扉の奥では、今頃無数の花びらが舞い踊っている。今日この日が人生の最高地点と言わんばかりの眩い笑顔で、頭から爪先まで祝辞を浴びながら、未来を誓い合った二人が並んでいる。
はあ、と細く長い息を吐く。その息を掻き消すように、エンジン音が割り込んでくる。銀色のスクーターは秋陽を浴びて鈍く光っていた。
「普通、逃げ出すのは花嫁だろ」
スクーターを停めた銀さんはヘルメットを外し、わたしに向かって投げる。両手で受け取ったそれは硬く、日を浴びて温かかった。つるりとした曲線を撫で、ヘルメットを被る。エンジン音を絶えず鳴らすスクーターの後ろに跨ると、銀さんはゴーグルを身に付けた。「参列者が途中退場しねえだろ」とぶつぶつ言っている。
「ゲボ吐きそうですって言って出てきた」
「幸せの絶頂にいる人間の前でなに言ってんだ」
どっしりとシートに落ち着いている腰を見つめ、逡巡した末に着流しを握った。スクーターは待っていたかのようにゆっくりと走り出す。振り落とされるのではないかと心配になり、手に力を込めた。
風を切るスクーターは、道路交通法を遵守した速さで走る。静閑な街並みを抜け、江戸の中心部へ出ていく。聳えるターミナルは今日も威風堂々とした佇まいだった。
銀さんの着流しの裾がバタバタと靡いている。わたしのかっちりとセットした髪型は崩れない。前髪だけが気になり、けれど手を離すこともできず放置している。化粧はいつも以上にきちんとしているし、眉もきれいにかけたのでおでこが出てもいいのだけど、普段出してないので気になる。
赤信号でスクーターが停車する。日曜日の昼間、道路は混み合っている。
「で、とりあえず家まで送ればいいんですかお嬢様ァ」
「うーん、牛丼食べたくない?」
「ゲボ吐きそうなんじゃなかったっけ」
「引っ込んだ」
挙式の途中で抜けてきたので、お腹に何も入れてないのだった。あと少し我慢すれば、披露宴でご馳走が食べられたのに。今更惜しいと思っても遅い。
スクーターは有名チェーン店の前で停まった。駐車場ではなく、路肩だった。銀さんは「買ってくる」と手を差し出す。きょとんとしていると「金」と催促された。ああ、お金か、お金。膝に挟んでいたバッグを開く。
「そんな小せえカバンに荷物入んの?」
「財布と携帯とリップくらいだから」
「へー」
どうでもよさそうに返事をされる。ホワイトゴールドのバッグは角のないころんとしたデザインで、可愛らしくて上品だけれどがま口を開いても大して荷物は入らない。今日のために新調したものだったが、あまり人目に触れることもなく役目を終えてしまった。レンタルにすればよかったかなあと、料理のことと共に後悔している。
千円札を渡すと、銀さんは店の中へ消えていった。眼前にあった背中がなくなると、急に視界が開けてしまった。視線の向ける場所もなく、なんとなく人通りや車の通りを眺めた。街行く人は各々目的を持って歩いている——ように見えるのは、わたしに心の置き所がないせいだろうか。
「おまた〜」
すぐに銀さんが戻ってきた。持ってろと牛丼が入った袋を膝に乗せられる。
スクーターに銀さんが跨ると、車体が重さに一段沈む。間も無くして、再び走り出す。二、三分だろうか。走った先にある、噴水を囲む広場に着く。子どもたちが走っていたり、老夫婦が和やかな表情で歩んでいる。穏やかな日常風景と、昇って滴る透明な水。銀さんは噴水を正面にするベンチに座り、「早く来い」と隣を叩く。目的はわたしが持っている牛丼である。
「お店の中でよかったのに」
「天気いいし、たまにゃいいだろ」
並んで牛丼を広げる。プラスチックの蓋を外すと、ふんわりといい匂いがした。ナントカ牛のステーキもいいけれど、舌に馴染んだ味もいいものだ。
「依頼代はこれでチャラね」
箸で肉を摘みながら横目で銀さんを見遣る。銀さんは久しぶりらしい肉に舌鼓を打っていたが、しばらくして「はあ?」とありえないと言わんばかりにわたしを見返した。
「いきなり呼びつけといて、牛丼一杯でチャラになるかよ。俺ァな、読みかけのジャンプほっぽって来てやってんだぞ。すぐ来てなんて言うからメシも食べずに原付ぶっ飛ばしてさぁ」
「パフェもつける」
「いや今ね、パティシエ監修のチョコレートパフェってのが出ててマジそれ食いたかったんだわ」
この変わり身の早さは見習いたい。銀さんは次の目的が決まり牛丼を掻き込む。そんなに急がなくてもいいじゃないと言ったら、売り切れたらどうするんだと眉根を寄せられた。もしも今日食べられなければ、明日でも明後日でも奢るのに。
結果、早々に牛丼を食べ終えた銀さんだったが、財布であるわたしを待つ羽目になった。咀嚼する様を見られているのは居心地が悪く、体を斜めに向けて花壇の草むらを見ながら食事する。
「せっかくめかし込んで可愛いの着てんのに、なんで抜けてきたんだよ」
ご飯が喉に詰まり、グフっと低い声が漏れた。噎せ始めると、銀さんは「あーあー」と呆れながら背を摩ってくれる。
「ちょっと茶ぁ買ってくるから待ってろ」
背中にあった手が離れていく。息を整えながら自販機に向かっていく銀さんを目で追いかける。
——落ち着け。可愛いっていうのは、着物のことじゃないか。
深呼吸をして、肩の力を抜いてベンチに座り直す。不意打ちで油断していた。
ペットボトルを持ってきた銀さんに「ありがとう」とお礼を言う。一口お茶を飲み、落ち着いたところで回顧する。
今日は、友人の結婚式に招待されたのだった。とても親しいというわけではない。ただ、式に大勢を呼びたいという見栄に付き合わされただけだった。それはとっくにわかっていたことだった。知人でも不参列という人はけっこういた。それでものこのこと行ってしまったのは、断るわけもなかったからだ。
荘厳な十字架の前で愛を誓い合う二人を見たとき、言いようのない嫌悪に襲われた。吐き気がしたと言ったのは、強ち間違いではない。
「僻みじゃねーの」
「僻み……」
「だってそうとしか考えらんねえじゃん」
身も蓋もない言葉に何も言い返せない。銀さんは耳をほじくり、耳垢を息で吹き飛ばした。この男にわたしの繊細な機微はわかりっこないのかもしれない。わたしは咳払いをして力説する。
「あのね、僻みだとしてもそんな真っ黒い僻みじゃないのよ。こう、不安とか、心配事とかいろいろ綯い交ぜになった複雑なものなの。単細胞の銀さんにはわかんないだろうけど、女には情緒がおかしくなるときがあるの」
「女の子の日?」
「ちが……くもないけど、今は違う」
「はあ〜? 意味わかんねえわ」
食べかけの牛丼を口に詰め込んでいく。汁を吸い込んだ米は柔らかくなっていて、玉ねぎくらいしか歯応えのあるものがない。流すように全て平らげ、張り付いた米粒一つ残さず器を空にした。隣を見ると、銀さんは片足を膝に乗せて退屈そうに前方を眺めていた。
わかってもらおうとは思わない。自分のことを理解してほしいなんて傲慢だ。自分は自分でしかないし、他社と完全に理解し得ることなどない。それでも悲しいかな、孤独を癒すために人は他者と交流を持ちたがるし、傷付けられても恋をする。絶対に振り向くことなどないとわかっている人を、好きになってしまうこともある。
風が草木を揺らす。その靡き方とは相反して、わたしには風が当たらない。隣の銀さんの着流しや髪が、ふわふわと揺れていた。
意図しているわけじゃないのだと思う。作為的にできるなら、今頃この男はもっとわかりやすくモテている。いや、実際には傍から見れば好意を持たれているのは明らかなのに、当の本人が気付いてない。相手を異性として意識してないから、おそらく最初から射程内には置いてないのだ。そういう相手には平然と憎まれ口も叩くし無遠慮な態度で接するけれど、意識せずやさしくもできる。そのギャップに女性は落ちる。
靡く髪を見ながら、深い溜め息をつく。恋敵は多いのに誰も相手にされてないというのは、なんて虚しいんだろう。そもそも、この男に好意を持っているのは美しく我も強い女性ばかりだ。わたしのような凡庸な女では勝算がない——。
まずい。また落ち込んできた。
「実家帰ろうかな……」
散歩をする白熊のような大型犬が通っていくと、実家の犬が浮かび呟いた。長毛でおおらかな性格で、抱きつくととても安心する。
銀さんはわたしの飲みかけのお茶を手に取って飲み始めた。内心では目玉が飛び出るほどびっくりしたけれど、顔には出なかった。驚きすぎて声も出なかった。
「実家どこだっけ」
呆気に取られていたわたしを怪訝な顔で銀さんが見る。「聞いてる?」と言われ、ああ、と慌てて返事する。しかし、何を訊かれたのか頭から抜けてしまっていた。
「なんだっけ」
「なんだっけじゃねーよ。実家どこ」
「……江戸の隅の隅。遠い田舎」
「んなとこ戻ってどうすんの」
「どう……? ここにいても何も変わらない、から」
「変わりてえの?」
矢継ぎ早の質問に「ええっと」と吃る。
「変えたいのはてめー自身か、それとも周りか、それによっちゃいろいろ違ってくるんじゃねえの」
声色に浮つきがなくなっている。わたしはベンチに置かれたペットボトルを目で追う。半分ほど減っている。
なんか、詰められてる?
「難しい話しようとしてる? 説教モード?」
「そんなんじゃねえよ。ただ思いつきで言ってんなら、ちゃんと考えろよっつー話」
「いや、でも、銀さんと違って、わたしにはここにずっといる意味もないから」
「意味ねえ」
語尾が落ちた。銀さんと違って、は余計だった。口が滑ったと言えば簡単なのに、本音だから訂正できなかった。
「おまえのほうこそ、難しく考えすぎなんじゃねえの」
銀さんは首にかけていたゴーグルを目まで持ち上げる。
「俺は、おまえがいなくなったらつまんねえかなって思うよ」
ゆっくりと銀さんが腰を上げると、風が直に当たってくる。吹き渡る風はすっかり冷たく、わたしは田舎の山並みを思い出した。そろそろ紅葉が見られる頃になっているはずだ。
歩きはじめた銀さんに倣って腰を上げる。ゴミ箱にゴミを突っ込んで、お茶を忘れていることに気付く。取りに戻ると、ぴっちりと閉められた蓋が目につく。持っていても荷物になるので、一息に流し込んだ。
「わたしは銀さんに、そんなふうに言ってもらえるような人間じゃないよ」
お茶を飲み干し、エンジンをかけている銀さんの後ろに座る。着流しを握りながらおずおずと言うと、銀さんは顔を横に向け、視線だけを寄越す。
人の幸せを妬んだり、将来に不安になって逃げようとしたり、優しさに付け込んで呼びつけたり。そんなさもしい人間だ。子どものように純粋にはなれず、かといって大人と胸を張って言えるほど達観できてもいない。短絡的で卑しくて、欲望だけがどろどろと止め処なく流れ出ていく。
またよくないほうに考えが向いている。昨日のわたしも明日のわたしも、こんな面倒なことは言わない。よりによって今日のわたしでなければ——呼んだのは自分だけれど——銀さんに惨めな自分を見せずに済んだのに。
低い音でエンジンが唸る。「おまえ」と銀さんが言う。わたしは俯いたまま顔を上げられない。
「自分のことテレサ・テンだとでも思ってんの?」
——テレサ・テン?
「聖人じゃあるまいし、誰もオメーにそんなもん求めちゃいねえよ」
あと、さっきも思ったけど落ちるぞ——。そう言って、銀さんはわたしの手を掴んで自分の腰に無理やり回した。まるでシートベルトだった。
密着した背中にひたりと頬がくっつくと、声と共に振動が伝わってくる気がした。スクーターはゆるゆると走り出す。
「人間、うまいもん食って風呂入ってあったまって、布団で寝りゃ大概のことは解決すんだよ。しゃあねえ、優しい銀さんがパフェ食わせてやろう。おまえの金で」
「やっぱわたしのなんだ……」
「当たり前だろ、俺は金ねーんだから」
「開き直ってる」
「事実だし真実だからねコレ悲しいことに」
「ふ……はは」
笑いが漏れる。おもしろいことなんかねーよと銀さんが少し声を張り上げる。
道路に出たスクーターは車の波に飲まれることなく、まっすぐに目的の場所へ向かう。
小さな不満は数えればきりがない。けれど、取り立てて大きな不満はない。日々の暮らしで、無理に問題を見つけようとすれば際限なくそれは溢れてくる。流れていく日々の中で、人はあまりに些細なことに気を取られ過ぎて、幸福を拾い集めることを忘れてしまう。隣にいる大切な人の、もっと近い場所を求めてしまう。呼べば来てくれたり、気楽に話したりしてくれるだけで、本当は十分なのに。
広い背中に染み込ませるように「ありがとう」と呟いてみる。好きだとは言えなかった。今はまだ、この関係を切り崩す勇気がない。
「銀さん」
「んあ?」
「さっきの、テレサ・テンじゃなくてマザー・テレサの間違いじゃない?」
「ほじくり返してんじゃねーよ。銀さん、過去は振り返らない主義だから」
カーブに差しかかると、銀さんは片手をわたしの腕に添えた。布越しに感じる掌は、温かだった。
包摂
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*匿名さん 坂田銀時
リクエストありがとうございます。しんどいときに銀さんにそばにいてほしいなっていう妄想から生まれた話でした。落ち込んでるときには銀さんは笑わせてくれるような気がします。
秋が深まり冷えてきますので、体調にはお気をつけください。これからもよろしくお願いします。企画にご参加いただきありがとうございました!
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