「結婚するか」
茄子の漬物が箸から落ちる。銀時は味噌汁を最後まで啜り、あーとおじさん臭い声を上げた。平行線を描く双眸と正面から目が合う。わたしは開いた口をそのままに呆然とした。
「返事は」
「……は」
「あ、いちご牛乳ねえんだわ。買ってきといて」
「……はい」
空いた食器を持って、銀時はソファから腰を上げる。そのまま台所へまっすぐに向かってしまった。
テレビの中のアナウンサーへ目を移す。美女がこちらに微笑みかけている。
さて、次はお天気のコーナーです。結野アナー。
バタバタと足音を立てて銀時が居間に戻ってくる。間に合ったと安堵してテレビの前に鎮座している。わたしはしばらくその後頭部を見つめ、やがて漬物を摘み直して口に入れた。咀嚼音が耳を占める。上の空のわたしの耳には、それ以外の音は一切届かなかった。銀時の行ってきますの声さえも。
一人になり、朝食の後片付けをして掃除を始めた。掃除機をかけながら銀時の言葉を反芻する。
——とりあえず、いちご牛乳は買ってこないと。
◇
「幻聴?」
通い慣れた和室にわたしの困惑の声が響く。机を挟んで向かいに座るお妙さんは、お茶を啜って笑顔を浮かべた。均等に上がった口角が美しい。
「ナマエさん、主語と術語ってご存知かしら」
「存じ上げてます」
「いくらわたしが賢くて美人でも全能ではないわ。押しかけてきたんだから順を追ってちゃんと説明してちょうだい」
「すいません」
思い返せば、はっきりとした好意を示す告白とか、付き合おうとか、そういったものはなかった。気付けば隣にいることが増えて、うっかり触れてしまって、触れられてしまって、万事屋に上がり込むことが当然になっていた。銀時がわたしを追い返すことはなかったので、邪魔にはされてないんだなぁ安心安心——。なんて悠長に構えていたら早数年。
「女の数年にどのくらい価値があるかわかってるの?」
お妙さんは眉を顰めた。仰る通りだ。もう数年後には三十路を迎える齢になってしまった。これから結婚して出産して子育てをして、子育てが落ち着いたら少しずつ仕事を再開して老後は夫と田舎で家庭菜園をしながら過ごして、老衰して子どもと孫に囲まれて死んでいく。そんな一昔前のテンプレートに乗っかることがすべてだとは思わない。が、そんな将来を夢見た時期があることは確かだ。平凡は高望みであることを知ったのは、つい最近の話。
わたしよりも年下なのに、わたし以上に現実をシビアに見つめるお妙さんは呆れて溜め息を吐いた。
「あの天然パーマも大概だけど、あなたも大概マヌケだわ。どうして確かめないの?」
「確かめる?」
「わたしたち、付き合ってるの? って」
「えー……それは、さぁ」
「女の純潔を汚しておいて、あまつさえ何年もずるずると関係を続けてたんでしょう」
「いや、お妙さんが思うほど爛れた関係ではないはず……」
居心地が悪くなってもう空の湯呑みを傾けた。責めるような眼差しが痛い。
爛れた関係ではないはずだ。銀時の昔のことは知らないが、少なくとも今の彼に風俗に遊びに行く金銭的な余裕はないし、新八くんや神楽ちゃんといった青少年に対する気遣いも持ち合わせている。悪友とエロ本やアダルトビデオの貸し借りはしているようだが、それは男性なら誰もがしていることなので目を瞑っている。
いや、おそらく、銀時は不貞行為を働いたとしても、それが何だと開き直るに違いない。おまえに関係あるのかと言われておしまいな気がする。むしろわたしのほうが不貞行為の相手かもしれない。実はどこかに本命の女性がいる可能性も無きにしも非ず。あの男は普段は金にがめつい上に誘惑に弱いダメ人間だが、心の芯はまっすぐで義理人情に厚いのだ。知らず知らずのうちに人を惹きつけてしまう魅力があるから、本人が嘆くほどモテていないわけではない。
考え始めると迷路のように思考が巡り、頭痛がしてくる。これを続けて一週間経っている。
そう、一週間だ。聞き間違いでなければ、あの日、銀時は結婚という言葉を口にした。しかし、あれから一週間、何の沙汰もない。
「だからもうあれは幻だったのかと思い始めてて……ていうか、今までのことも全部幻だったんじゃないかと」
「ぶん殴ってあげましょうか。そしたら現実か幻かわかるわ」
着物の袖をたくし上げるお妙さんに勢いよくかぶりを振る。彼女の細腕から繰り出される鉄拳はゴリラの鉄槌と変わらない。
腰を落として座り直したお妙さんは、また溜め息を吐いた。彼女の言う通り、わたしはもっと早い段階で訊くべきだったのだ。わたしと銀時の関係を明白にしなければならなかった。それをしなかったのは、わたしが彼と離れたくなかったからだ。自業自得である。銀時にとってわたしは、邪険にするほどでもなく、家事を肩代わりしてくれて、時々抱ける女だったのだ。
「まあ、本当に結婚するつもりなら銀さんのほうから何か動きがあるんじゃないかしら。返事してないんでしょう?」
「してない……なんかすぐいちご牛乳の話になって」
「ふざけた男だわ。女の一生より自分の甘味なのかしら」
あなたも少し考えたほうがいいんじゃない? とお妙さんは諭すように言った。落ちていた肩を更に落とす。考えるも何も、もう手遅れだなんて言えやしない。どんなに都合の良いだけの相手でも、わたしは銀時のことが好きなんだから。
晴天を雀の群れが飛んでいる。囀りだけが聞こえる屋敷に、ふと不思議に思って訊ねた。
「あれ、新八くんは?」
「朝から仕事よ。最近忙しいみたい」
「へえ……」
万事屋が繁盛しているなんて珍しい。あの結婚という単語が飛び出た日から、わたしは万事屋に顔を出していない。彼らが元気に仕事をしているならそれでいい。
◇
お妙さんの家から帰路に着く途中、本屋に立ち寄った。雑誌コーナーで足を止め、結婚情報誌のコーナーを眺める。表紙には眩いばかりの笑顔を浮かべた女性がいる。花束を持っていたり、ドレスを着ていたり、とにかく輝いている。幸せの押し売りか。僻みが真っ先に過ぎって振り払う。仮に求婚されていたとしたら、こんなに荒んだ気分にはならないだろう。マリッジブルー? ブルーどころか……。
夕暮れに染まる街に、赤提灯が灯っていく。万事屋に寄ろうか考えて、やめておこうと踵を返した。会ったところで確かめる勇気はない。そんなこと言ったっけ、えっそういうの期待されてた? なんて返された日には寝込む。三日三晩は寝込む。
「あ、ナマエさん?」
振り返ると、買い物袋を提げた新八くんが立っていた。袋から飛び出た長ネギが所帯染みている。
「こんばんは。最近来ないから気になってたんですよ」
「来ないって言ったって、一週間くらいだよ」
「三日に一回は来てた人が七日も顔出さなかったら気になりますよ」
銀時も神楽ちゃんもいない。つつがなく話していたつもりだったが、新八くんは気がついて「銀さんなら」と口にした。聞きたいような聞きたくないような。けれど、もう口を塞ぐことはできなかった。
「吉原に用心棒の仕事で帰ってきませんよ」
「吉原」
繰り返すと、新八くんははっとして慌てる。
「本当に用心棒ですよ。別にやましいことなんてないですよ。いくら救世主だって煽てられても、あの人積極的な女性は好きじゃないとか言うし」
「ああ、よく言ってるね」
平坦に返すと、新八くんは微妙な表情のまま苦笑いした。
「銀さんと喧嘩でもしたんですか?」
「銀時がそう言ってた?」
「いや……」
新八くんが心配しても、銀時はわたしのことなんか一切話題に出さない。なるほど。そうですよね、と頷いた。じゃああれもやっぱり幻聴ということでファイナルアンサー。もしくは一時の気の迷い。血迷っただけのこと。
「何もないよ」
笑顔を貼り付けて新八くんと別れた。困ったように眉を下げた顔で見送られてしまった。
なんて虚しい。今こうして悩んでいるのも独り相撲に違いない。宝くじでも買って帰ろうかな。好きな人に愛されるより、三億円当たるほうがきっと確率が高い。
◇
三億円は当たらなかった。ついでに銀時からも連絡はない。毎日仕事と家の往復で、銀時に出会う前の自分に戻ったようだった。呑みに出かけることもなく、体調はとてもいい。けれど、心には未だ穴が空いたままだ。
仕事からの帰り道、不動産屋の窓ガラスに貼ってある物件資料に目が止まった。元々かぶき町に住み始めたのは職場に近いからというだけの理由だった。そこでたまたま銀時に会い、流れるようにここまで来た。何も考えていなかった。銀時から何も言われないことに胡座をかいて、わたしも銀時に気持ちを伝えたことはなかった。なにか一言でも伝えていたら、今頃こんなふうに自然消滅を待つこともなかったのだろうか。もう消滅したようなものだけれど。
「見つけた」
肩が跳ねた。思い切り振り向くと、わたしの髪が銀時の顔に当たった。いてっと声がして、息がかかるほどそばにいたのだと気付く。気配を消すのは銀時の悪い癖だ。
「え、えー……うわ、なんでいるの」
戸惑いながら後退りする。一週間、二週間、いや、それ以上。久しぶりに会う銀時は、以前と何も変わっていない。当たり前だ。そんなにすぐに人の様相は変わらない。
窓ガラスに背中がぶつかる。銀時は距離を詰めてこないのに、逃げようとしている自分がおかしい。銀時は怪訝な顔で首を傾げた。全身から不穏な空気が滲み出ている。
「なんでって、てめーが帰ってこねえから」
「帰る? どこに」
「うち。万事屋。マリッジブルーっていうの? そういうのかと思って放っといたけどさすがに日が空きすぎだし」
呆気に取られる。数拍置いて、往来の先を指差した。
「わたしの家、向こうなんだけど」
「別居婚かぁ? そんなん許してねーけど」
「はぁ……はあ?」
一度は飲み込みかけた言葉を戻す。頭の中が混乱している。脳の回線から火花が散っている。
困惑しているわたしの様子を見ていた銀時は、え? と腕を組んだ。たくさんの人が銀時の背後を行き交っている。しかし、誰もこちらに一瞥もくれない。わたしの目の焦点は、ずっと銀時に当たっている。
銀時は足元を見てしばらく考え込み、勢いよく顔を上げる。
「おまえ、俺の言ったこと覚えてないの」
銀時の言ったこと——。言うべきことが口から出てこない。代わりの言葉を探し、どんどん記憶を遡っていく。
「味噌汁しょっぱい……」
「そんなこと言ってねえ」
「言った、絶対言った」
食い気味で突っ込む。銀時は唇をひくつかせた。
「言ったかもしんねえけどそれじゃなくて」
「目玉焼きが固いとか」
「言ってない」
「貧乳って」
「それは言った」
なんでそんなことは覚えているんだ。腑に落ちないがわたしもちゃんと記憶にある。ということは、今もそう思っているわけで。少し悔しくなって自分の胸元に視線を落とした。
視界に銀時の黒いブーツが映り込む。広告だらけの窓に銀時が片手を着く。視線を持ち上げると、銀時の顔が目の前にあった。ひえ、とつい悲鳴を上げた。久しぶりすぎていつもの死んだ魚の目がきらめいて見える。恐る恐るもう一度見てみると、やっぱりきらめいて見えた。
「わかってんだろ」
「けっ……血行促進」
「オイコラ」
聞いたことのない低い声で脅される。逃げ道を探して眼球を彷徨わせるが、ついに両手で逃げ場を塞がれてしまった。こんなに詰められるとは思っていなかった。なぜ詰められているのか、理由はわかっている。今更ながら、あれは幻聴ではなかったと感じている。今までの日々も、幻なんかじゃなかった。だって、かかる息が熱い。
「俺さぁ、おまえが断ると思ってねえんだけど」
「……じゃあ、ちゃんと言って」
「言ったろうが。おまえも返事したし」
「あれはいちご牛乳に対する返事で」
「いちご牛乳と結婚する気かてめー。まあいちご牛乳も広義では俺だ。イコール俺だ」
「暴論が過ぎる!」
「うるっせえなぁ、おまえは」
左側に着いた銀時の手が首に触れる。髪を撫でられ、するすると引き寄せられてわたしの額は銀時の肩口にくっついた。街の喧騒が耳を占める。それをいとも容易く打ち消す、ずっと焦がれていた声。
「うるっせえけど、おまえがいい」
それから数日後、決して高価とは言えないが、ちゃんとサイズの合った指輪を渡された。仕事を真面目にしていたのも全部そのためだったと知ったのは、またその後の話。
ドリーム・デイ
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*匿名さん 坂田銀時
数ヶ月前から訪問してくださっているとのこと、ありがとうございます。
拙い文章ですが好きと言っていただけて嬉しいです〜これからも遊びにきてください。
今回かなり横暴な銀さんになりましたが、たまにはこのくらい勝手でも許されるのではと思ってます。
リクエストありがとうございました!お身体にはお気をつけてお過ごしください。
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