——蕎麦食べたい。
そんな彼女の気まぐれとしか言えない一言によって、俺の二週間ぶりの休日は打ち砕かれた。彼女はこうと決めたら絶対曲げない。ほしいものはほしいし、食べたいものは好きなときに食べるのが一番美味しいのだと言うのだ。そりゃその通りだが、俺の都合に対しての配慮はないのだろうか。
「蕎麦ならその辺で」
「十割蕎麦が食べたい」
「近くにあったかなぁ十割蕎麦」
「信濃の田園風景を見ながら食べたい」
布団の中で通話終了の画面を映す電話に嘆息した。さようなら俺の休日。
◇
これから蕎麦を食べるというのに、彼女は駅弁を買って新幹線に乗り込んだ。窓際の席を嬉々として占拠し、車窓を眺めながら弁当を頬張っていた。張り込みで徹夜明けの俺はくたびれた体を座席に沈め、早々に眠りに着いた。ときどき彼女が話しかけてくるが、返事をしたかどうかは記憶にない。
「何にもなーい」
信濃の無人駅に降り立つと、彩度の高い景色が広がっていた。青い山並み、広がる田園、日本晴れの空。蝉の声がそこかしこから聞こえてくる。目線を遠くへ向ければ、田んぼの向こうには焦茶色の家屋が点在している。畦道を白い軽トラックがのんびり走っていた。
腕を上げて伸びをしている彼女の背中に訊ねる。
「お蕎麦屋さん調べてあるの?」
「歩いてれば着くでしょ」
あっけらかんと彼女は言った。俺はマジかと呟き、跳ねるように歩き出した彼女のあとに続く。
彼女の無計画で無鉄砲で行き当たりばったりな行動にはほとほと呆れる。日頃、仕事に取り掛かる前には対象の行動歴や素性を事細かに調べ上げる俺には甚だ理解できない。監察は戦闘のときには前線に立つわけではないが、敵地に単身乗り込むこともある。助けのない場所で孤軍奮闘しなくてはいけない。ある種、最も危険な役割でもある。
つい今朝方までもそんな緊張状態の中にいた。やっと緊張の糸を緩め、あとは副長や隊長に任せて俺は短い休息を有意義に過ごそうと思っていたのに。
「遅いぞ山崎ーっ」
足取りの重い俺とは逆に、彼女は颯爽と長閑な道を進んでいく。蕎麦屋の看板が見当たらないどころか、人っ子ひとりいない。下ろし立てだという金糸雀色の着物はどんなに離れていっても目立つ。
山崎ー、とまた呼ばれる。おかしい。きみがこの世に生を受けて産声を上げたとき、俺はとっくのとうに二本の足で立って自分で言語を操っていた。ミントンだってしていた。歳の差をものともせず、俺を呼び捨てにして、呼びつけて、そのくせ一人でどんどん歩いていく。勝手だ。勝手だけど、俺にはきみを拒むことができないんだから不思議だ。
首に汗が滲む。照りつける太陽の日差しは寝不足で上がりきらない瞼にやさしくない。遮るように掌を太陽に翳して目を眇めていると、彼女の声が聞こえる。
「自転車だ」
どう見たってゴミ捨て場にある自転車に彼女は手をかけていた。重なるブラウン管テレビを退けて、ハンドルを掴んで自転車を起こしている。薄汚れたママチャリだ。
「それ捨ててあるんじゃないの」
彼女が自転車を起こしている間に追いついてしまった。しゃがんでタイヤの空気圧を確かめていた彼女が、長い髪を一つに括り出す。うなじには薄らと汗が浮き出て、後れ毛が首筋に張り付いていた。
サドルの汚れを簡単に、本当に簡単に撫でて払い、彼女は自転車に跨る。その着物、下ろし立てだって言ってたじゃないか。
「まだ走るよ」
彼女は「よっ」と掛け声と共にペダルを漕ぎ出した。が、ふらふらとよろめく。蛇行しながら向かう先には水を張った田んぼがある。俺は思わず叫びながら駆け出した。
「危ない危ない危ない!」
田んぼに落下する前に荷台を掴んで引き止めた。息を切らす俺を笑顔の彼女が振り返る。細めた目が弧を描き、白い歯が覗いている。
「あはは、ブレーキ効きづらいみたい」
「みたいじゃねーよ! 走るからって走らせればいいってもんじゃないだろ」
とりあえず彼女と、彼女の着物を護ることはできた。そのまま田んぼに突っ込んでいたら大惨事だった。江戸ならまだしも、こんな店も民家も遥か彼方にあるような田舎で着替えなどそうそう用意できない。
腰を引いて彼女が乗ったままの自転車を道に戻す。安全圏に入り安堵していると、彼女がじっとこちらを見ていることに気がついた。彼女の髪が風で揺れる。なに? と訊ねると、彼女はふっと微笑んだ。
「わたし、さがるのそういうところ好きだな」
「えっ?」
「でも大丈夫。コツは掴んだ」
「コツ?」
「ブレーキ、ぎゅっとじゃなくってそっと握ればいける」
擬音しか使ってないじゃないか。本当に大丈夫なのか。そんな心配をよそに、彼女は慎重にペダルを漕ぎ始めた。初めて補助輪を外して自転車に乗る子どもを見守るように、俺は彼女の背中を見ていた。最初の数メートルは少し曲がりくねって進んでいたが、やがてまっすぐに走っていく。嬉しそうにほらね、と言う彼女が遠ざかっていく。
下戸の彼女は素面であの明るさで、機嫌を損ねることがあってもすぐに立ち直る。俺があれこれ悩む問題にも、自分の思うままの答えを答えとしてしまうのだ。正解や不正解は関係なく、それがいいのだと笑う。
靡く髪が糸のように輝いている。聳える山の向こうから、もくもくと積乱雲が昇っている。降り注ぐ陽光と、やかましい蝉たち。ぼろぼろのママチャリと、鮮やかな金糸雀色の着物。
「ねーっ、第一村人発見したー!」
振り返って白い腕を大きく振る彼女。寝不足の俺にはとても眩しい。それはもう、直視できないくらい。世界中の画家をかき集めたって、きみのうつくしさを描くことなんてできやしない。
できることなら、きみがこの世に産まれたそのとき、その場所に俺もいて、一番にきみの産声を聞きたかった。
「さがるー。山崎さがるー」
彼女のいる世界を目に灼きつける。けれど、どんなに世界が美しくても彼女の前では全部ただの背景だ。彼女のいる世界はどんな場所だって彼女主演の映画のワンシーンで、俺はエキストラ。彼女の映る世界を邪魔しないのだから、エキストラでいい。わりと本気でそう思っているのに、彼女は自転車を置いて、俺の元へ駆け寄ってくる。早く行こう、と俺の手を握って、一緒に走り出す。
「ねえ、最後まで付き合ってね」
しょうがないなぁなんて言いながら、小さな手を握り返す。
笑顔で主演女優にねだられてしまえば、俺に拒否権なんてないのだ。
エキストラと恋
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*焼きおにぎりさん 山崎退
更新楽しみにしていただいてありがとうございます。砂糖漬けみたいな話が苦手なので、文章の雰囲気なども気に入っていただけてよかったです。
美味しい思いをする山崎というリクエストでしたが、結果美味しい思いをしているかは疑問ですね……魅力的で奔放な彼女に振り回されるのも満更でもない山崎になりました。山崎だとちょっとキザな言い回しも許されるような気がするので今回すごく新鮮で楽しかったです。
リクエストありがとうございました!また遊びにきてください!
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