およそ温度の感じられない鉄の床に、生温かさを残す血痕が残っていた。それを辿っていくと、鉄柱の裏に蹲る背中があった。その背中にそっと触れ、ゆっくりと摩る。微かに上下していた身体が徐々に動きを鎮めていく。彼の期限を測ることを憚るようになり、ずいぶんと月日が経つ。その間にも、終わりは近付いていた。
 しばらく背を摩っていたが、やがて彼は徐に立ち上がった。その足はしっかりと伸びている。触れていた手を握り込み、白髪を見上げる。

「頭領、虚さまが」
「わかった」

 一言で全てを汲み取る彼はとても聡明なひとで、それ故に先回りをして自らを犠牲にすることが多かった。わたしはいつも間に合わなくて、ただ命を削る彼を見ているだけだった。
 踵を返す彼の背中を追いかける。彼の一歩はわたしの半歩で、その差は縮まることはなく距離が空くばかりだった。わたしを待つほど寛容ではない彼は、前だけを見て歩んでいく。埋めようとしても埋まらない溝を飛び越えようとしても、彼はわたしを追い返す。

「頭領、次はわたしも連れていってください」
「足手纏いはいらん」
「わたしだって奈落の一員です。もし戦いの中で命を落とすことがあっても本望です。あなたのそばなら」
「吐かすな」

 一蹴され、立ち止まる。一度振り返った彼は、何も言わずに去ってしまった。あの人が忠誠を尽くすものの元へ。
 彼の四肢は彼のものではない。献身と自己犠牲の境目を失くした彼を、誰が護ってくれるのだろう。
 歯痒さと虚しさを抱え、わたしは目を伏せた。





 地球に降り立つのは久しぶりだった。けれど、生まれ故郷といえど何の感慨も湧かない。幼い頃からろくな思い出はない。
 塔の高層階から灰色の空が見える。常日頃空を超えた宇宙を漂っていても、地球から見る空はどこか遠く見える。
 窓枠に腰掛け、しとしとと降り続ける雨を眺めていた。手元には研ぎかけの愛刀がある。いつどこで仕事に呼ばれるかわからないので、常に武器の手入れは欠かさない。しかし、ここ数日のわたしは何をしていても上の空だった。彼が何日も帰ってこないせいだった。
 奈落の頭領である彼は、わたしの預かり知らぬところで多岐に渡り動いている。長く姿を見せないことはよくある。なのに、どうしてこんなに胸騒ぎがするのか——。延々と降り続ける雨が不安を煽ってくる。だから地球は嫌いなのだ。
 不意に襖が叩かれる。ノックというより勢い余った音だった。不審に思いながら、刀を手にそろそろと襖に近付いた。耳をそばだてると、か細い呼吸音が聞こえた。ぞっとして襖を開けると、赤い装束に身を包んだ彼が倒れてきた。床に着く前に身体をなんとか支える。
 掌にぬるい感触があった。真っ赤に染まった装束は元々は白かったはずだった。血の気を失った彼の顔を見て、言葉もなく愕然とした。

「朧さま」

 どうにか捻り出した声は上擦っている。頭領と呼べと口酸っぱく言われているのに、口を衝いて出るのは彼の名前だった。
 衝撃を与えないように床に横たえさせ、溢れ出る血を止めるように腹部に手を添える。恐ろしくて彼の期限を測ることをやめたのが悔やまれる。どうか、まだ行かないで。願いながら部屋中の治療道具を引っ張り出し、止血と縫合をした。痛みに顔を歪める彼を見て、わたしは泣きそうなほど安堵した。痛みを感じてくれているうちは、まだ生きている。
 畳に血が染みついている。青褪めた彼の頬に手の甲を当てると、閉じられていた瞳が僅かに開いた。目が合い、朧さま、と繰り返す。彼は消えそうな息を吐き、いつものように言った。

「頭領と呼べ」

 厚みのある手を握る。彼は再び目を閉じた。胸元に耳を当てると、鼓動が聞こえる。
 ぴくりとも動かなくなった彼を見つめていた。雨音は静かに続く。彼が望むのは、彼が忠誠を誓うもののそばにあることのみで、そこにわたしはいない。あなたの四肢が、心があなたのものでないように、わたしの全てもわたしのためにあるのではない。あなたのためにありたい。地獄の果てで救ってくれた、あなたのために。
 水を調達するために桶を持って部屋を出た。廊下を進んでいくと、前方に烏の羽が見えた。光の届かない洞穴の底のような、漆黒。そこに浮かんだ長い髪が靡く。背筋が冷え、一瞬息が止まった。

「朧があなたの元に行っていますね」

 柔和な笑みを浮かべた虚さまが鷹揚に言った。わたしは顔を俯けて頷いた。

「ええ、ひどい怪我で……」
「ただの人間の器では不死の血は許容し切れない。再生能力も目に見えて落ちています」

 弧を描く瞳と口元。言葉の通り、彼はただの人間だ。苦痛も悲哀も人並みにあり、それを途方もない時間抱えて生きている。ただひとり、目の前の烏のために。桶を持つ手に力が入る。

「なにか、救う手立てはないんでしょうか?」
「ありません。それが残念なことに真実です」

 それにそんな方法があれば、わたしはとっくにこの世にいません、と虚さまが笑みを深くした。また背筋に悪寒が走る。わたしはこの烏の前では、うまく呼吸ができない。返す言葉が出てこず、深々と頭を下げて横を通り過ぎた。それを引き止めるように声がかけられる。

「朧の羽を奪わないでもらえますか」

 意味がわからず振り返る。虚さまは穏やかな声色で続けた。

「あなたが待っている限り、朧は必ずあなたの元に帰るでしょう。あなたを失わないために、朧はその手を汚し続けるでしょう。ですが、暗殺者に必要なのは心安らげる拠り所などではない」
「……何を仰っているのかわかりません」

 失笑された。口角が寸分の違いもなく均等に上がっている。

「これだから頭の悪い女は嫌いですよ」

 人間を侮蔑する眼差しだった。押し寄せる流氷のようにゆっくりと迫ってくる。

「あなたがいることで、朧には迷いが生まれる。羽を失い飛べなくなった烏に、用はありません。終わりを待つ前に私が終わらせてあげましょう。知っていますか? 烏は共食いをするんですよ」
「頭領は、あなたのために」
「朧が忠誠を誓ったのは私であって私ではありません。おや、知りませんでしたか」
「それでも、あなたのためにあの人は戦い続けます」
「そうですね。哀れなものです。人はあるものを信仰することで自分の存在意義を得ることができる」

 大きく、冷たい掌が肩に乗る。そこからまるで動けなくなるような重圧を感じる。耳元で囁かれた言葉は、脳内を刺すように巡っていった。

「あなたの存在意義を失いたくなければ、引き際を見誤らないように」

 烏は足音もなく遠ざかっていく。そうだ。烏は飛ぶものだ。常世を孤独に彷徨うもの。不吉を引き連れて人々の前に降り立つもの。
 空の桶を抱え、重い足で部屋に戻った。彼は横たわったまま、窓の外を見ていた。
 傍に座り、白髪に触れる。少し硬い髪は灰色にくすんで見える。彼はわたしを見上げ、ゆるゆると口を開いた。

「雨は嫌いと言ったな」
「ええ」
「私は悪くないと思っている。こんな空では飛ぶ気も失せるからな」
「……飛びたくない日があるんですか?」
「烏にも巣はある」

 結局、わたしはあなたの羽を奪うことはできない。だから、せめて祈る。この雨が、長く長く降り続けますように。あなたの巣が、少しでも護られますように。





烏の巣





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*匿名さん 朧
全部の作品が大好きと言っていただけですごく嬉しいです!ありがとうございます!
リクエストは朧でしたが虚さまのほうがしゃべってます……朧が来るとは思ってなかったので朧の登場回をいろいろ見返しました。彼の来歴を考えると安らげる場所があったらいいなと思ったのでこんなタイトルになりました。
お暇なときにまた遊びに来てください。リクエストありがとうございました!






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