呑み屋で会ったオヤジが言っていた。恋愛に於いて必要なのはすれ違いだと。
古今東西、テレビドラマも映画も漫画も、恋愛にはすれ違いがつきものだ。すれ違うからこそ恋は燃え上がる。それが一時の幻覚だとしても、目を覆われているうちは酔いしれることができる。恐ろしいのは、幻覚が醒めたときだ。
「カミさんには疎まれるし、娘には臭いだうるさいだ言われてよぉ」
頭髪の薄くなったオヤジは赤ら顔で愚痴っていた。俺は茶化しながら、どこか冷めた気持ちでその話を聞いていた。
「銀さんも結婚するんなら気をつけなよ。女は結婚して子供ができた途端変わるんだ」
「亭主がこんなところで毎晩のように飲んだくれてりゃ鬼嫁にもなるっつーの」
オヤジはこれがささやかな楽しみなのだと猪口を傾けた。銀さんだって、としつこく繰り返される。しかし、俺は元より誰かと一生を添い遂げる気はないし、子どもも作る気はない。相手の幸も不幸も背負って生きていけるような真っ当な人間ではない。相手を自分の業に巻き込むこともできやしない。ただ、時々嘯くように愛を感じていられたらいい。臆病な俺には、そのくらいがちょうどいい。
胃の中に目一杯酒を溜め込んで、千鳥足で夜道を歩く。そこら中から蛙の声が聞こえる。黒い雲が半月にかかり、頼りない街灯が明滅していた。
呑み屋から徒歩二十分、長屋に辿り着く。明かりのついている部屋の前で止まり、懐から探り出した鍵を鍵穴に差し込む。扉を開けると、振り向いた女が柔和な笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
ナマエは既に寝巻き姿で湯呑みを洗っていた。覚束ない足取りで部屋を進み、ナマエを背後から抱きすくめた。彼女は「わ」と驚いたように声を上げたが、すぐにくすくすと笑い始めた。
「すっごいお酒臭い」
「風呂沸いてる?」
「もう冷めました。明日にすれば?」
「くせえんだろ? 一緒に寝れねえじゃん」
「心配しなくてもいいのに」
柔らかい身体をきつく抱きしめ、動けないと笑うナマエの首筋に顔を埋める。身に余る幸福だと思う。ナマエのことは大切だが、今の関係を続けていけたらそれでいいと思っている。ナマエは物分かりのいい女だから、もしかしたら俺の心中を察しているかもしれない。それでも、言葉にならないうちは構わなかった。ナマエは俺を受け入れ、微笑みかけてくれる。それで十分だった。
首筋から香る甘い匂いを鼻腔いっぱいに吸い込む。胸が満たされていく感覚。この温もりを手放さずにいられるなら、なんだってできそうだ。
「あー、ずっとこうしてたい」
ナマエは微笑んだまま俺を見遣った。小さな顔にある大きな瞳が弧を描く。
「早く寝ましょう」
あやすように促され、渋々頷いた。
翌朝、頭痛に起こされた。おはよう、と言ったナマエの顔は逆光でよく見えなかった。
◇
ナマエがいなくなった。いつものように長屋に行くと、そこには家財道具すらなかった。置き手紙の一つもない。神隠しにでもあったかのようだった。
空っぽの部屋を見て呆然とした。そして無我夢中で街を駆けずり回った。ナマエの影を探して、二人で歩いた道をなぞり、飯屋を片っ端から覗いた。居酒屋、銭湯、宿屋——果ては狭い路地にまで。この街にはナマエと過ごした時間が溢れ返っていて、どこへ行っても匂いがするような気がする。なのに、どこにもいない。
まさか事件に巻き込まれたのだろうか。真っ先にその可能性が過ったが、ならば部屋が空っぽになっているのはなぜだ。
ひりひりと手先が痺れる。ナマエは、自らの意思で姿を消した。なぜか、問いかけても答えは出てこない。愛想を尽かされた? でも、つい二日前も会った。彼女は笑っていた。いつもと変わらないように見えていた。いや、そう見えていただけだったのか——。
棒のような足で万事屋に戻った。もちろん万事屋にもナマエの姿はない。神楽や新八も交えて食卓を囲んで団欒をしていたのは、いつのことだったか。下のスナックで最後に一緒に呑んだのは、いつだったか。思い起こせば最近はあまりそういうこともなかった。
電話ががなるように鳴る。疲労困憊だが、条件反射で受話器を取った。
「銀さん?」
聞き慣れた、穏やかな声だった。俺は乾いた口内で言葉を彷徨わせ、やっと絞り出す。しかし、それは焦燥と安堵と怒りの混じったものだった。
「おまえ、今どこにいる」
「ごめんなさい、心配かけて」
「ごめんじゃねえよ、どこにいるって訊いてんだよ」
受話器を握る手が小刻みに震える。足元の机を蹴り飛ばしたい衝動に駆られるが、辛うじて踏み止まった。定春が部屋の奥からこちらを窺っていた。
「ごめんなさい。それは答えられない」
ナマエはゆっくりと一つ一つの音を置くように話す。俺と対比するように落ち着き払っていて、無性に腹が立った。どうにか激情を抑え込むが、問い詰めるのを止められない。端々に苛立ちが出てしまう。
「答えられないってなに? 一人で旅行でも行くの? それとも他に好きな男でもできた? そいつと一緒にいんの? 俺さぁ言ったよね? 元彼と会うの禁止だし男と二人になるのもだめだって」
「言いましたね。でも、わたしが了承したことありましたっけ」
「そんな屁理屈通ると思ってんのかよ。つーか敬語やめろ」
ナマエの元彼のことなんて聞きたくもないので確かめたことはないが、器量はいいし頭もいい。過去に男が数人いても不思議じゃない。俺の知らない間に誰と会っているのか、どんな時間を過ごしているのか、ナマエは自分のことを話さないから知らないことが多いのが事実だ。ただ、俺といるときのナマエはとてもやさしく笑う。全ての不安を払拭してくれるような笑顔だ。それに凭れかかっていた。ナマエが許してくれていたから。
ざわめく胸の奥で、鼓動が早まっていく。今、電話を切られれば所在も本心も知る術はない。受話器と手の中に汗が籠る。
「銀さん」
ナマエの声は、いつも心地良い安心をくれる。けれど、今は不安を煽るだけだった。
「わたしはこのままでいいなんて思ったこと、一度もありませんよ」
「は?」
「銀さんはずっとこうしてたいとか、このままでいたいって宙に浮いたようなこと言ってたけど、わたしはそう思ってなかった」
失笑が漏れた。
「なんでいきなりそんなこと言うんだよ」
「いきなりじゃありません。銀さんが気付いてないだけで、いろいろね、重なってた」
「早く言えよ。てか敬語やめろって」
「銀さんが取り留めのないことだって片付けることを、いちいち引き合いに出す?」
「俺はナマエの言うことを簡単に片付けやしない」
「今だからそう言うんですよ」
「敬語やめろよ!」
「銀さん、大怪我して動けなくなったことありましたよね。志村さんの家にお見舞いに行ったわたしに、なんて言ったか覚えてる?」
怪我をするのは頻繁にあることなので、正直なところいつどこでのことを指しているのかわからない。眼球が小さく揺れる。電話口の笑顔が容易く脳裏に浮かぶ。
「なんでいるの? って」
「……」
「なんでって、なんで? わたしが行ったらいけなかったのかなって」
「……おまえ、もしかして俺とお妙になんか」
「そういうのないですから」
ぴしゃりと言い切られた。
「わたしね、銀さんのことは好きです。今も、誰よりも好きです」
続け様に紡がれた言葉は好意を示すものなのに、ひとつも嬉しくない。抱きしめあっているときに耳元で囁かれるような、蜂蜜のように甘くて滑らかな響きはない。ただ淡々と、冷めた温度で繋がれる。
「でも、銀さんの周りのひとは好きになれない」
「……はぁ?」
「銀さんの一番は新八くんや神楽ちゃんでしょう。わたしは二番手にも三番手にもなれない」
悲観しているわけでもない。それが事実だと突きつけられる。
「んなこと」
「銀さんが他の誰を大事にしようと、ないとは思いますけど、仮にどこかで別の女の人を抱いてようと構わないんです。最後にわたしのところに帰ってくるなら」
電話越しに救急車のサイレンが聞こえる。それは近付いて、すぐに去っていく。
「でも、死にかけたときでもわたしのところには来なかった。寧ろ来ないでほしいくらいだった」
「それはおまえに見せたくなくて」
「そういう人だってわかってて好きになったんです。だから、これはわたしの落ち度です」
落ち度——。煮えたぎっていた腹も、汗が滲んでいた掌も一気に冷えていく。これまでの時間を全て否定されたような気がした。交わした言葉の数々も、熱も、笑顔も全てがまぼろしだった。
「そう思ってんの?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
踏切の警報音が鳴っている。彼女は電車に乗って、どこか遠くへ行くのだ。俺のいない場所へ行く。
「……わかった」
静かに受話器を置く。窓の外では霧雨が降っている。薄ら白く染まる街並みに消えていくナマエの姿が目に見えるようだった。
机に手を着いて前髪を掻き毟った。恋愛はすれ違ってこそ盛り上がるだなんて、傍観者の意見でしかない。当事者はすれ違っていることにも気付かず、気付いたときには手遅れだ。現実世界はドラマや映画のように都合良く転んではくれない。対話を惜しめば不安や猜疑が生まれるのは当然だ。相手が自分の何もかもを受け入れ、許してくれているなんてただの勘違い。
音もなく降る雨が街を包む。ナマエは雨が好きだった。藤色の傘が気に入っていて、それを差すことができるからだった。なんでそんなことを思い出すのか、早くも未練がましいことを考えていて自嘲した。女に振られるのは初めてじゃないのに、どうしてこう気分が落ち込むのか。
こういうときは酒に溺れるのが手っ取り早い。まだ昼間だが、かぶき町には昼夜問わず酒が呑める店は山ほどある。進まない足を無理やりに動かして玄関へ行くと、ちょうど新八と神楽が買い物袋を提げて帰ってきた。
「あれ、銀さんどこ行くんですか? 雨降ってますよ」
「どこでもいいだろ」
呑気な新八に投げやりに返す。隣で傘を閉じていた神楽に目が止まった。その手に、藤色の見覚えのある傘があった。
「神楽、その傘。ナマエのじゃねえのか」
「えっ? ああ、もらったアル。ナマエ、もうあんまり外に出られないからって言って」
「神楽ちゃん」
制するように新八が口を挟む。神楽はまずいといった表情を見せた。
「おい、おまえらなんか知ってんのか」
二人は揃って目を合わせ、伏せる。それだけで何かを隠していることは明白だった。
沈黙が続いた。微かな雨音がする。下の階からババアとキャサリンの声が聞こえる。
やがて神楽が重々しい雰囲気で口火を切る。
「ごめん、銀ちゃん。ナマエには銀ちゃんには言わないでって頼まれてたアル」
嫌な汗が流れる。なんだよ、と急かすと、神楽は俯いたままゆっくりと話す。
「ナマエ、病気なんだって。治らないって、言ってたアル。ごはんも食べられなくなってきて、好きなお酒も呑めないし、そのうち自由に動くこともできなくなるって……」
そんなの聞いてない。確かに最近、一緒にいてもあまり食が進んでいない様子はあったし、酒好きなのにあまり呑んでもいなかった。訊くとダイエットだとか、健康診断で引っかかったとか、そんなことを言っていた。俺はそのたびにそんなの気にするなと言っていた。ナマエは太ってないし、一緒に呑めないと楽しくないと言った。そのたわいのない一言が、ナマエを追い詰めていたのかもしれない。針のように刺し続けていたのかもしれない。しかし、どうやってそれを防ぐことができただろうか。俺は何も知らなかったのだ。
神楽が話すことをやめると、新八が眉を下げて代わりに引き継ぐ。
「ホスピスっていう、そういうところに行く準備をしているそうです。会えなくなっても手紙を書くねって言ってました。銀さんにはまだ言う勇気がないけど、そのうちにちゃんと言うって」
「電話がきた」
「え?」
「ナマエから。俺にはそんなん一個も言わなかった」
二人が目を丸くしている。神楽の手にある傘の石突から雨粒が垂れている。
ブーツを履いて、二人の横をすり抜ける。
「おまえら、ナマエがどこに行くか知ってんのか」
「そこまでは……」
新八が気まずそうに呟く。俺はわかった、とだけ返して、万事屋を出た。
走りながら、頭の中に電話越しに聞いたナマエの言葉を並べていく。きっとどれも嘘はなかった。こんなどうしようもない男に惚れてしまったから、おまえは俺を置いていくんだろう。俺の周りの人間に嫉妬して、けれど心の底から疎ましいと思うこともできなくて、本当は弱っていく自分を誰かに救ってほしくて、弱音を吐きたくて、だからガキどもに話したんだろう。なんて茶番だ。おまえは俺なんかよりずっと頭のいい女だと思ってたのに、それは思い込みだったらしい。おまえは俺以上にバカでどうしようもないよ。
怖いなら、頼ればよかったのに。
心細いなら、そばにいてほしいと手を引けばよかったのに。
言えない気持ちがあるなら、せめて抱きしめればよかったのに。
でもそれをさせないようにしていたのも、俺だったのだろうか。やっぱりバカでどうしようもないのは、俺だったのだろうか。
濡れたアスファルトを駆け抜け、江戸で一番大きな駅に飛び込む。行き交う人の波に逆らって階段を上がっていく。
人でごった返すホームに辿り着き、肩で息をしながら辺りを見渡した。暴れるように忙しなく動き回る俺を周囲の人間が迷惑そうに見ている。
電車が線路の向こうから顔を出す。駅構内に独特なメロディが響く。必死に目を凝らしていると、向かいのホームにその姿を見つけた。
「ナマエ!」
叫ぶと、ナマエがこちらを向く。遠くて表情が見えない。電車が徐行運転をしながら迫っている。そんなものは構うものかと、線路に飛び降りた。敷き詰められた石を蹴り飛ばして駆け抜け、周囲の制止の声も無視してナマエの元へ走る。駅員が喚いている。電車は空気を切り裂くような音を立てる。
線路を走り抜け、高い石の壁に手を掛けてなんとか攀じ登った。電車は本来の停止位置で停車した。駅員が眉を吊り上げて迫ってくるので、面食らっているナマエの手首を掴んで一緒に走り出した。
人混みを縫っていくと、簡単に駅員を撒くことはできた。キオスクの横手に二人で屈んで息を潜める。
「銀さん……」
戸惑うナマエが俺を見つめている。
「なんで来るの……」
影のような人の足がたくさん通り過ぎていく。脇では小銭を数える音がする。誰も俺たちに一瞥もくれない。
座ったままナマエの身体を抱きしめる。嗅ぎ慣れた匂いがした。温かい体温を感じた。耳元で聞こえる震え始めた吐息も、押し殺した泣き声も、全部。これは、醒めるような夢じゃない。幻なんかじゃない。幻になど、できはしない。
幻影
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*匿名さん 坂田銀時
会話劇が書きたかったのと喧嘩(にはなってないけど)が書きたかった話です。
ありきたりなオチですが楽しんでいただけますように!リクエストありがとうございました!
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