薫るだけだとしても嬉しかった


 漣宗也には幼馴染が二人いた。
 一人は女、一人は男……どちらも上流階級の家である。
 女は宗也のことが好きということがよく分かる、お淑やかで引っ込み思案な可愛げのある女だった。
 男はそんな女の家との取引先であった。男は女とよく文通をする仲だったらしい。男が宗也と交流を持つきっかけになったのは、女が二人を引き合わせたのだ。
 幼馴染と言っても、宗也はこの二人に対して特段強い思いは持ち合わせていなかった。
 周りの大人から見たらどうかは知らないが、ただ幼馴染なだけの……友達とは言い難いような、知り合いというポジションの二人だったのだ。
 ただ、それでも女が自分のことを好きだというのは、二人に特別関心を持ち合わせぬ宗也でさえも分かることだったので、強いていうのなら『都合の良い女』と『その女についての話が出来る男』という認識だった。
 宗也の認識で言う『都合の良い女』とは、別の家との縁談を体良く断ることの出来る口実という意味である。
 宗也は次期漣家当主としての熱量が些か足りない男だった。父親が身を固めなさいと寄越してくるであろう多くの縁談話に対する関心も薄い。
 その点、あの女ときたら……幼馴染で、特段目をかけてやらなくても自分のことが好きで、お家柄も申し分ない。なんとも都合が良いことだろうか。
 だからこそ、適任だと思った。あの女を早くから自分の許嫁にしておけば、縁談話など最初からやってはこない。
 そして、あの女は大人しいので宗也に自分との伴侶として過ごす時間を強要してこない。
 精々、宗也に近況報告のような手紙を幼馴染の男を介して寄越してくるだけ。女の趣味なのかその便箋は爽やかなレモンの香りがするのだが、宗也はその手紙の封を開けてすらもいなかった。
 しかし、返事をしなくても不満の意を唱えられたことだって一度もないため、問題はなかった。
 つまり、宗也の最愛の弟である伯理に構ってやれる時間を確保しやすかったのだ。
 嗚呼、なんと……なんと都合の良いことか。
 それでも、白い結婚となればそれは二人の間に隙があると思われるだろう。婚約が御破算にならない程度に、女を漣家に呼び出しては適当な演劇を眺めたりなど、所謂デートと呼ばれるものに出掛けてはいた。
 その際には、何故か必ず「同じ幼馴染の俺を仲間外れにしないでくれよ」と男も毎回ついてきたが、宗也としては女と出掛けたという事実さえあれば良いし、女の方も男を快く受け入れていた。
 そのせいか、幼馴染同士である許嫁のデートに、もう一人の幼馴染がついてくるという、なんとも奇怪な状況に違和感を覚えることなど一度もなかった。
 暫くはそれでよかったのだ。
 よかったはずなのに。
 その時は突然やってきた。

 宗也は男を殺した。

「なあ、宗也。俺はあいつの処女を貰ったし、俺の童貞をあいつにあげたぞ。婚約者の操を簡単に横取りされちゃって随分と愚鈍で間抜けだなぁ」

 そんなことを言いやがったから。

「……」

 何度も、何度も殴りつけた。殺す気で殴った。
 それは嫉妬ではなかったが、家格も能力も下のその雑魚が、自分を馬鹿にするような愚行を働いたことにほんの少し腹が立った。それに加えて、見逃すことをすれば、自身の面子も立たなくなるから粛清した……その程度だった。
 男は思いのほか頑丈だった。男が妖術が使えるかどうかなど覚えちゃいなかったが、おそらく玄力の操作程度は出来るのであろう。
 だが、それだけだ。男は体のいたるところがめちゃくちゃになっている。肉は抉れ、骨は砕け散り、片目は潰れていた。時期、死ぬのだろう。
 それでも、男は微笑んでいた。身体から流れ出した血溜まりがまるでベッドに敷くシーツのよう……そこに仰向けになりながら、茹だるような暑さ、快晴の空の下、男は驚くほど心地良さそうだった。

「あいつがずっと寂しそうだったから」

 男が喋れば喋るほど、血が吹き出していく。
 そんなことは些細なことだとでも言うように、男は好き勝手に喋り始めた。

「だから、俺が言ったんだ。妬かせてやろうって。宗也がお前を好きになるようにって」

 宗也は漣家の庭で死に行く幼馴染をボーッと興味なさげに見下していた。
 
「言ってやったぞ、俺は。宗也はお前のことなんて全然興味なんてないぞ。でも、もう一人の幼馴染である俺なら。ずっとずっと一緒にいた俺なら……」

 そこまで言って、男は牙を剥くように大きく口を開ける。
 身体中のどこもかしこも痛くて痛くて仕方ないだろうに。
 視界に映る景色だってどんどん白んでいっているだろうに。

「あっはっはっは!」
 
 そんな自分なんてどうでもいい……心底、清々しそうに笑い出したのだ。
 気でも狂ったか、と宗也は男を眺めたまま片眉を上げる。
 この時まではまだ、宗也は自分の幼馴染たちのことなど本当にどうでもよかったのだ。
 しかし……。
 
「こんなチンケな俺だぞ!? 威葬なんて使わなくたって何度か強く殴っただけに死ぬような俺が! こんな俺とあいつが! 漣宗也! お前を……あっはは! お前だけを! 仲間外れにしてやったぞ! アッハッハ!」
「……っ!」
 
 そこでやっと宗也は初めて激しい怒りを抱いた。
 こんな雑魚が、自分を下に見た……そのことで、やっと実感し始めたのだ。
 男だけじゃない、あの女もだ。愚行はあの女も働いていたじゃないかと。
 あんな声の小さなカマトトが自分を裏切った。ずっとずっと俺しか見ていなかったくせに、こんな虫ケラみたいな奴にちょっと声をかけられただけでそっぽを向きやがった。
 簡単にころっと傾きやがって、あの阿婆擦れが、と……あの女が自分だけを愛していない事実に無性に腹が立ち始めたのだ。
 そして、待てなくなった。俺の女を唆しやがった間男がゆっくり心地よさそうに死んでいくのが我慢ならなかった。
 早くトドメを刺してやらなくてはと居ても立っても居られなくなり、宗也は男に向かって印を結ぶ……いっさいの遠慮もない全力の威葬をお見舞いし、醜い肉塊にしてやろうと。

「__威そ、」
「ほら、好きになった」

 その言葉を聞いて、はたと宗也は動きを止める。
 気付いたのだ……今まで『都合の良い女』としか思ってなかった彼女に、宗也は強い執着心を覚えてしまっていたことを。

「ははっ成功した、やった、ぞぉ」
 
 男の表情は完全に白くなってしまっていた。
 きっともう、数十秒もしないうちに死ぬのだろう……それなのに、この幼馴染の男は至極幸福そうな表情で宗也を見つめていた。
 宗也はやっと男に言葉をかけた……「何故ここまでして」と。

「ずっと、好きだったから」

 寂しそうなあの娘を放っておきたくはなかった。

「あいつはまだ、宗也のことが大好きだよ」
 
 だから、浮気をしたぞ、と堂々と言っても、女側への怒りを抱かぬ……弟だけしか愛してない漣宗也の想いを、大切な女の子の方にも向けてやってほしかった。
 だから、幸せだったのだ。宗也が、やっとあの娘に『独占欲』を覚えてくれたから。
 
「なあ、宗也。あいつに構ってやりなよ。あいつのこと、硝子細工に触れるようにひたすら柔く、ひたすら優しく愛でとくれよ。そんで、幸せにしてくれよ」

 男はそう言い残して、息絶えた。

 *

 漣宗也は愛妻家として有名になった。
 祝言を前にして、妻は不貞を働いたのだが、彼女だけは広い心で許してやった。
 妻に言い寄り唆したとはいえ、十数年共に過ごした友でさえも構わず殴り殺してしまうような、嫉妬深く並々ならぬ愛を向けている、と。
 そして、冷酷な性格とは裏腹に、妻にだけは毎日毎日愛を囁き……壊れ物を扱うように優しく接していた。無論、手を上げたことなど一度としてない。
 妻はあの時のことを反省しているし、後悔だってしている……自分の軽率な行動で、人が一人死ぬ事態になったのだから、と周りはそう認識している。
 あの男を殺してからの宗也は、妻からもらっていたはずの手紙を全て読み終えた。
 これまで放っておいた時間を取り戻すように……そんなことも書いたわね、と微笑む妻の横で数年前の彼女の日常を愛おしむように全て読んだ。
 だが、読み終えてから、その手紙は全部燃やそうとした。
 何故なら、その手紙を毎日届けに来ていたのはあの男だったから。
 あの男がきっかけで宗也は妻を愛するようになったとはいえ、それでも妻に手を出した男の手垢のついたものなど残しておきたくはなかったのだ。
 だが、妻が願った……「これは私に燃やさせてください」と。
 あの日、あの時、あんな恋心を抱いては特大の愛をしたため続けたのだ。
 気に入らぬと言うのなら、燃やすと言うのなら、せめて、私のこの手でやらせてください、と。

「……馬鹿なことね」

 パチパチと火花を散らしながら、ペール缶から覗く炎が揺らめいていた。
 女は一人で手紙を燃やしていた……ゆっくりゆっくり時間をかけて。
 手紙の量が多かったとはいえ、所詮はただの紙束だ。一気にペール缶に投入してしまえばあっという間に終わるというのにも関わらずだ。
 男は女のことが好きだった。ずっと好きだった。
 大切な女の子だったし、本当に幸せになってほしかった。その言葉に嘘はない。
 だが……。

「私だけじゃないのに」

 女が手紙を燃やしているのに時間がかかっている理由。
 それは燃やす前に、その手紙を一枚ずつ丁寧に炙っているからだ。
 わざわざ時間をかけてまで、二度手間であるような行動であったが……女だけは知っていた。
 この手紙を炙ると、見えていなかった文字が見えるようになることを。
 そして、それは女が書いたものではない。
 女が宗也へと送った愛の手紙には、もう一人分の想いが込められていたのだ。

「愛をしたためていたのは」
 
 なんとあの幼馴染の男は宗也と出会ったその瞬間から、宗也に恋に堕ちてしまっていたのだ。
 女へ抱いていた積年の恋心を吹き飛ばしてしまうほどに、衝撃的な一目惚れだった。
 男は幼馴染の女を心の底から信頼していたから、その想いは包み隠さず話していた。
 俺は宗也のことが好きだけど、この想いは絶対に伝えない。だけど、この溢れんばかりの気持ちを押し留めておいたままでは、きっと我慢ができない……助けて欲しい、と。

「だからこその手紙だったのだけれど」

 書くということは自分の気持ちを落ち着かせることに効果的らしい。頭を使って文章を書いているうちに冷静になれるのだ……だから、男は長い間、宗也への恋心を彼女以外に隠し通せてきた。
 そして、二人は宗也に気づかれぬように男が宗也への想いを綴る術を知っていた。
 宗也は混じってくれなかったけれど、二人でいつも遊んでいた……炙り出しという術を。
 男がレモン果汁にペン先を付けたガラスペンで予め手紙を書き、それが乾いた紙に女が再度宗也への手紙を書く。
 そうして、二人は何通も何通も、宗也に愛を渡していた。
 男が生きているうちには、ついぞ宗也が手紙を読むことはなかったし、今でも気付いちゃいないけれど……それでも、男の愛が染み込んだあの便箋を、宗也は丁寧に丁寧に撫でてくれた。

「あの頃、あの人は私のことなんて好きじゃなかったにしても……それでも、一応は許嫁である私に堂々と愛させてくれと言うのだもの。ちょっとくらい見せてくれたっていいわよね」

 そうして浮かび上がった文章は……なんと言うべきか、なかなかの内容であった。
 女や宗也に対しての恨み言は一切書かれていなかった。ひたすらに二人には幸せになって欲しいと。
 しかし、他に目立って書かれていたのは伯理のことばかりだ。やれ、今日は伯理はどこの部位を殴られていただの、伯理が縄跳びで宗也に背中をみみず腫れだらけにさせられていただの。
 そんな暴行現場を事細かく……そして、毎回毎回最後には『羨ましい』で締め括られていた。

「そりゃ、自分の想いなんて伝わらなくてもいいと思うわよね。私だったらこんなこと、相手に知られないまま逝きたいわ」

 女の脳内では男が「おねがーい」とおねだりしている姿が浮かんでいた。大丈夫、この手紙達は全て燃やしておいてあげましょう。

「……ちゃんと、幸せだったかしら」

 男は女を抱いたあと、軽い口調で「殺されてくるね」と言っていた……それがすごく寂しかった。
 男はこの先、数十年を女と友として生きるより、彼の弟に与えてもらえるような一世一代の暴力を望んだのだ。
 そうだというのなら、しっかり幸せに死んでいてくれなければ納得は出来ないのだが。

 ――『ずっと、好きだったから』
 ――『なあ、宗也。あいつに構ってやりなよ。あいつのこと、硝子細工に触れるようにひたすら柔く、ひたすら優しく愛でとくれよ。そんで、幸せにしてくれよ』

 女は夫から幼馴染の最期の言葉を教えてもらっていた。
 漣宗也は、自身の妻を壊れ物を扱うように優しく接している。
 硝子細工に触れるように……あの幼馴染の男の愛用のガラスペンで愛を紡ぐように。
 
「よく言うわ、呆れちゃう。私を気遣いながらも、ちゃっかり『好き』だの『幸せにしてくれ』だの自分の気持ちまで織り込んじゃって」

 気に入らぬと言っているくせに、宗也はあの男の遺言通り、丁寧に丁寧に妻を愛でている。
 まるであの男に囚われているかのようで、ほんの少しだけ悔しい。

「でも、なんだか許しちゃう。ずるい子ね」
 
 女はそう呟きながら、レモンが薫る二人で一つの便箋を丁寧に丁寧に灰にし続けた。